*Glory* 「可哀想に…こんなに汚れて…」
薄暗い雲は大粒の雨を激しく落としながら、時折光って低くうなり声を上げている。
プロンテラには珍しい悪天候だ。
その大雨の中でプリーストの法衣を纏う青年は、傘を差して今は閉まっている小物店の入り口の前で丸まっている子デザートウルフを見下ろしている。
ペットとして飼われていたのを捨てられたか、どこかからふざけて野生のものが連れてこられたのか。
どちらにせよ、居場所を失くして泣いている捨て犬には変わりない。
長い間何も食べていないのか、それとも病気でもしてしまったのか、真っ黒に汚れて毛がところどころ禿げて痩せてしまっていた。
青年は濡れるのも気にせず傘を閉じて、それを両手で抱えあげた。
その瞬間に仔狼は暴れて、幼いながらも鋭い牙が彼の腕に食い込んだ。
人間に酷い扱いをされ、不振になっていたのかもしれない。
デザートウルフの子供はキャンキャン鳴きながら暴れていた。
腕を噛まれたプリーストは一瞬顔を歪めたが、すぐにフッと笑みを浮かべた。
優しく抱きこむというよりも暴れられないように押さえつけるように、しゃがんで人間の赤子のように抱き込み小さな体を押さえつけた。
しばらくそのままで、子デザートウルフは疲れて暴れるのをやめ、包み込んでいる人間の体温を大人しく受け取り始めた。
「…もう泣かなくていいよ。僕が拾ってあげる。」
青年の声はとても穏やかだった。雨に濡れて色あせた長い銀の髪が、その顔や首や背に張り付く。
「グリード、それが君の名前だよ」
グリード - 強欲 - と名付けられたそのデザートウルフは、もう青年が腕を緩めても暴れなかった。
なんとか片手でそれを抱え、閉じた傘をまた開き、グリードがもう雨に濡れないようにして歩き出した。
「…僕の心の一部の名前を君にあげたから、君はもう僕の一部だよ。」
だから怯えなくていいよ、と小さく子守唄のように囁いて、青年は優しく笑みを浮かべた。
*Lurzzinoul*
はじめ、それは子供を抱いているのかと思った。
だが大雨の中目を凝らせば…抱いているのは仔狼。
赤子でなくてよかったと心底思った。
赤子であるとアサシンギルドが引き取り、そのままアサシンとして育てられるケースが多い。
そしてその間保護者として育てるのは、大抵拾ってきた者。
そんな面倒くさいことはごめんだ、そう思ってから、俺もそうして育てられたことを後から他人事のように思い出した。
周りに人はいない。
いるのは俺と、ターゲットと、監視者のみ。
特に決心するでも躊躇うでもなく、俺はターゲットであるプリーストの前に舞い降りた。
雨の中、俺の姿を認識したプリーストは、驚くことなく首を傾げただけだった。
ただ、殺せばいい。
脳髄に刃を刺す、それだけで仕事は完了する。
俺は音もなく間合いを詰めて、彼の横を走りぬけた。
そして後ろ手に、ターゲットの首の後ろにグラディウスを突き刺す。
だがそれが彼の首に刺さることはなかった。
カァンと金物を叩いたような音がして、グラディウスは彼に触れる前にはじかれた。
いつの間に唱えたのか分からないが、それはプリーストのスキル、キリエ・エレイソン。
逃げる、回復する、防ぐ、それらができるプリースト相手の仕事は予想外のことが起きることもあり、好きではない。
逃げられる前に狩らねば、と俺は短剣を構えた。
プリーストが振り向く。
白銀の髪が微笑んだ頬に張り付いていた。
暗雲に覆われようとしている青空のような色の瞳。
彼に微笑を向けられた瞬間、こちらが狩られるような錯覚を覚えた。
何故この男は笑うのか。
だが例え逆に狩られたら、俺はそこまでの男だったということ。
失うものなどない。
困惑を捨てて、彼に切りかかった。
彼は詠唱に入ったが、それは敵を攻撃するものではない。
身を守る防御魔法。
今彼を取り巻いている防護壁は時機に崩れるだろうが
「キリエ・エレイソン」
俺の繰り出すの刃がそれを崩し彼の体を突き刺す前に、新たな防護壁が張りなおされた。
澄んだ声が雨の中不思議なほどに響き渡り、彼の身を守る庇護の鐘が鳴った。
このまま防御に徹し続けられてはキリがない。
その鉄壁の防御を破るには強い衝撃が必要だ。
俺は短剣を腰に納め、マントの下に入れていたカタールを取る。
本来カタールを使うアサシンは、速さと急所狙いの技術を高めクリティカルを狙う為
獲物には威力よりも性能を求める。
だがこれはあえて威力を高めるカードを埋め込み、精錬してある。
これで全力の連撃を叩き込むことができれば、すぐにあの邪魔な壁を壊せる。
プリーストはそれを察したのか、腕に抱えていた仔狼を背後に庇う様に降ろした。
対に観念したか。
―――ソニックブロー!
長い間修行を続けたアサシンの技を繰り出す。
連続で防護壁を切りつけるカタールには、先ほどよりも確かな手ごたえがあった。
壁が崩れた。
テレポートもさせない。
すぐにケリをつけてやる。
一瞬息が詰まり、逆さまに釣り下げられたような不快な浮遊感がした。
視界の先には…地面。
標的は見えていない。
「…っ、っ…!」
遅れて胴体の右側面に鈍い痛み。
何者かに弾き飛ばされたのか。
衝撃が全身を駆け巡り、込み上げたものを躊躇わず吐き出した。
戦いにおいて、衝撃での嘔吐など何度もある。
舗装された地に散ったのは黄色い透明な胃液だった。
まだ大丈夫。警告の赤や緑ではない。
弾き飛ばされ、起き上がるまで数秒。
まだ込み上げてくるが、それを出している暇はない。
立ち上がり、見付けた標的の前には見覚えのある男がいた。
いつも標的の傍らにいたクルセイダー。
プリーストを守るように四六時中寄り添っていたその要注意人物。
勝ち目のないその聖騎士を避けて、今日という日を実行日にしたというのに…
状況は不利。
勝ち目はない。
『退け』
俺自身で敗けを確信したのだから“監視者”も失敗と見て当然だろう。
所属ギルドのルールに則して、俺は髪に隠していた蝶の羽を、髪を掻き上げる動作で潰した。
着いたのは先ほどの現場から少し離れた人のいない路地。
「一応確認するが。失敗は何度目だ?」
監視者の声はあのプリーストのものと違い、雨にまぎれている。
あのプリーストもクルセイダーもいない、二人のアサシン以外にまったく人気のない。
雨が酷くなってきたせいで、いても気配が掴みにくいかもしれない。
『三度』
俺がWISで答える。
それを答えるのはアサシン生命、そして人生の終わりもを示している。
「異論はねぇな?」
首を横にも縦にも振らず、目をつぶった。
これはルール。
俺は敗者。
俺はこれまでの男だったということ。
襟を掴まれて、立たされた。
その場で首をやられるだけだと想っていたせいで不意を疲れた。
バランスを崩したがかまわず冷たい壁に押し付けられた。
「お前を殺すのは勿体無ぇよ。生かすこともできねえが…」
この男にそんな慈悲のような感情があるとは想わなかった。
殺しを何も想わずに実行するのではなく、むしろ楽しんでいたこの監視者が。
少しあっけにとられていたら、彼はマスクをはずし、その唇にニヤりと笑みを浮かべた。
そして俺の腰にあったダマスカスを取り上げて、遊ぶように雑に俺の体を肩から腰まで切り払った。
痛みよりも妙な感覚があって、あとからじくじくと込み上げてくる痛みと血に眩暈がした。
殺される側は、想ったよりも…恐怖があった。
違う、俺が殺すときは恐怖も与えないよう一瞬で終わらせてきたつもりだ。
痛みも与えなかった。
アサシンギルドのルールに、三度の失敗を続けた者を処分とは在ったが、恐怖を植えつけてなど、あっただろうか。
「どうせ死ぬんだろ。」
どうせ処分されるなら、どうするというのか。
監視者は前で肌とともに切り裂かれた装束を開き、完全に切れてはいなかったベルトをもう一度切って取り払った。
早く殺せといえなかったのは、俺にも死を拒む気持ちがあったからだろう。
傷口を押し開くように手のひらで擦られて、痛みにうめいた。
だがこの喉は相変わらず声なるものを出さずにしゃくりあげるような息を漏らすだけ。
俺の血がついた手のひらが、それを擦り付けるように頬を撫でる。
ヌルリとしたこの感覚は、今まで何度も浴びながら、慣れることも好きになることもなかった。
その手で視界を白く覆おうとしていた前髪を掻き上げてきた。
またパラパラと視界に下りてきた髪は、銀ではなく赤かった。
傷口からトロトロと溢れて、腹まで伝っていく血を、彼はこぼしたジュースを吸うようにして、その延長で肌を舐め始めた。
そしてベルトが緩んだズボンを少し下ろした。
ここまでされて、彼が俺を犯そうとしていることに気づいた。
これが生殖行為を抜かして快楽だけを求めるなら、男女間だけではなく同性でも行えることは知っている。
油断した隙を狙うのに、最中の女達を殺したことがあったのを思い出した。
『やめろ…やめろ…』
アレを醜いと思った。
裸で別のものである二つの体を絡めながら死んだ女達を醜いと思った。
一人ではなくなって…人間ではないように見えた。
そういえば、この男はその人間ではなくなったモノを引き剥がして、動かないそれを犯していた。
死姦された女と、したこの管理者はもっと醜いと思った。
せめて俺は、人間のまま…この姿のまま死にたいと思ったのに…
体を這い回る手のひらに、皮を剥がされている様な嫌悪感を覚えながら
吐き気と眩暈に体の力が抜けて、意識を飛ばすように目を閉じた。
不意に、鈍い音と共に目の前から彼が掻き消えた。
「…なっ…貴様ら…!」
支えを失って、人形のように濡れた地へ倒れた俺には、監視者の焦ったような声しか聞こえなかった。
少し意識が飛んでいた。
まだたいして時間も経っていないようだ。
どしゃぶりの路地裏に倒れているのは変わらない。
「…また拾い物か、ロウ」
頭上で交される会話をぼんやり聞いていた。
全身に当たる雨が気持ち悪い。
誰かに呼び掛けているその男の声は聞き覚えがなかった。
だが
「こんな雨の中捨てていく方が問題でしょう?」
答えた方には聞き覚えがあ
殺すべき標的の男…いや、標的だった男か。
仕事は失敗、俺は彼を殺せなかった。
うつ伏せになった体をひっくり返されると、刺された肩や切られた腹部が痛んだ。
声が出たならうめいていただろう。
雨のせいか、俺を見下ろす二人の男の姿は見えない。
「…リザは必要なさそうだ。」
俺の体を診て標的だった聖職者の優しげな声で呟き、それからヒールをかけてきた。
「…弱ってる。アグリィ、運んで」
俺を殺すつもりではないのか、尋問でもする気なのか、俺は聖騎士の方にそっと抱き上げられた。
体に当たる甲冑が冷たい。
*Glory*
昨日はイイモノを拾った。
小生意気なデザートウルフの子供と、切り捨てられた白銀の宝石のようなアサシン。
「ほら、暴れない!綺麗にしてあげるから」
シャワールームでキャンキャン鳴きながらお湯から逃げる仔狼…グリードを僕とアグリィは押さえ付けて無理矢理洗い流していた。
傷は治してあげたから、お湯がしみるわけではないのだろう。
「よし、いいかな」
石鹸の泡は洗い流したし、洗い流す水は茶色くなくなったからアグリィにも彼を放してあげるように言った。
体を振って水を弾き「もういやだ」と言いたげにバスルームの端っこで縮まっているグリードはたまらなく可愛かった。
「おいで、ご飯にしよう」
バスタオルでその小さい体を包んで押さえ付けるように抱き込んだ。
「あ、アグリィは“あの子”のご飯をよろしく。僕のは体にあまりよくないから」
「わかった」
とても従順に育ってくれたアグリィを見て、昨日の拾い子もこんな風に育ってくれないかなぁと親のように思った。
*Lurzzinoul*
目が覚めれば、見知らぬ部屋にいた。
どこを見ても記憶にない景色ばかり。
頭の上にあるカーテンが閉められた窓から外を見ようと思ったが、体を起こせなかった。
体を動かすと、俺の腕と足をそれぞれ縛ってベッドに繋いでいる手錠と足枷の鎖が音を立てた。
そして何故か猿轡を噛まされている。
これがどうゆう状況なのか分からない。
意識を失う前のことは覚えている。
確か、俺が殺そうとしていた男…グローリィと言う名の聖職者に捕まったのだ。
なるほど、こうして俺を拘束しているのは尋問する為か。
不意に、扉の向こうで場に似合わない、遊ぶ子供のような楽し気な声がした。
あの聖職者の…
しばらくして扉が開けられた。
「…あ」
グローリィと目があった。
構えていた俺は少し呆気にとられた。
今目の前にいる男は、昨日見た妖艶な聖職者とは思えなかったからだ。
確かに容姿は間違いなく同一人物だ。
けれど雰囲気が…あの、こちらを食い殺さんというオーラがない。
あの時、俺はそれにわずかながら恐怖を感じたのに。
「もう起きてたんですね。WISをしてくれればいいのに…僕の名前ご存じでしょう?」
そんなことを言いながら、たれ猫よろしく仔デザートウルフを頭に載せた彼は微笑んで、俺の傍らに寄り小テーブルに良い匂いのする粥か何かを置いた。
「傷の治りが遅いなと思ったら、疲労に加えて栄養不足。いくら仕事だからって無理はいけませんよ」
それは俺のことを言っているのだろうか。
俺の仕事は彼を殺すこと。それは彼自身も分かっているはずなのに。
「ああ、そうだ。起きたら自分の体調も構わず外へ行ってしまいそうだったので、手錠をかけさせてもらいました。」
彼は俺につけられた手錠をベッドから外した。
両手は繋がれたままだが、大分自由になった。
「起きて、とりあえずお粥作ってもらったので食べてください。」
それに俺は答えなかった。
わざわざ起き上がれるようにしてくれたのだろうが、起き上がりもしなかった。
「…別に毒なんて仕込んでいませんよ。それに、貴方はあの時排除されようとしていたんでしょう?
別に毒が入っていたって構わないんじゃないですか?…まぁ、入れても私に利益はないけれど。」
生きていても、彼らに組織のことを尋問されるのだろう。
だからきっと粥には毒なんて入っているはずがない。
もう生きていても仕方がない。
けれど舌を噛みたくても猿轡を噛まされている。
これも俺が自害するのを防ぐためだろう。
『殺せ』
それだけ目の前の優しげに偽りの微笑みを浮かべる聖職者に伝えてやった。
「嫌です。」
予想通りのその男の答え。
『俺は何も喋らない。』
「喋らなくて結構。というか、もう既に貴方の喉は潰れているんじゃないですか?」
そうゆうことではない。
『組織のことは、喋らない。』
再度ちゃんと意味を含めて言った。
「情報なんか要らない。私は貴方を拾っただけです。
組織に戻るなり、ここに隠れるなり好きにして結構。ですが死ぬのだけはやめてください。」
何故この男にそんなことを言われなければならないのか。
情報が欲しくないというなら何故俺を生かしているのか。
怪訝な顔をしていたら、彼が俺の猿轡を外した。
「死ぬくらいなら私のものになって下さい。貴方も、ただ腐らせて土に還してしまうのは惜しいから。」
言われている意味が分からなかった。
呆気にとられている間にぐいっと猿轡をずらされて、既にいくらか冷まされた粥を口に多めに放り込まれた。
そして吐き出させまいと強引に口を塞ぎ、それから鼻を塞がれた。
「飲んで。こんな強引に食べさせられるのが嫌なら、大人しく自分で食べてください。」
見た目穏やかな優男のくせして、めちゃくちゃだ。
少し苦しくなって、俺はなんとか口の中のそれを飲み込んだ。
そうするとやっと口と鼻が介抱されて、息をつくことができた。
相変わらず、天使のような綺麗な笑みを浮かべている聖職者は、俺の肩を支えて病人にするようにそっと起こした。
そして粥の器を俺に差し出してきた。
ずっと隣にある微笑みに脅されているような気分で、俺はその粥を少しずつ食べ始めた。
それから一週間、俺はグローリィにほぼ無理やり介抱された。
しかし3日後から俺が抵抗しないと分かると猿轡も枷も外されて、自分からは出なかったが部屋の外に出ることも許された。
「ルティエへ行ったことはありますか?」
脅すような笑顔を隣で浮かべて、俺が糖分摂取のためのショートケーキを食べているのをじっと見守っていた彼が、突如聞いてきた。
いきなり話しかけられるのはよくあることなので、普通に答えた。
首を横に振る。
「僕もないんですよ。」
グローリィは微笑みながらそう言って、俺の食べているショートケーキのクリームを指で少し掬い取って舐めた。
「でも雪国でしょう?広がる雪原はきっと綺麗だと思うんです。」
『…ただ白いだけじゃないのか?』
いつの間にか彼の話すことに答えることに違和感がなくなっていた。
俺が何か答える度に嬉しそうに微笑む姿は…綺麗だと思ったから、なんとなく答えるようになった。
そのやわらかい微笑みだけで、この男は俺と違う世界の人だと思った。
「昨夜読んだ本がルティエを舞台にした話だったんですが、とても描写が綺麗で…ルティエはきっとすごく綺麗だろうなと思ったんですよ。」
グローリィがそれから、その本の内容を抽象的に話している間にショートケーキは食べ終わった。
俺はなんとなくその話をじっと聞いていた。
彼の話の内容よりも…揺れる彼の細く長いプラチナブロンドに気をとられている。。
「君と見に行きたい。」
唐突にそう言われて、なんだか心臓が高鳴った。
そんなことを言われたことなどない。
俺なんかと行って何が楽しい。
俺を連れて行くなんてどうかしている。
何でもいい、否定する言葉を発したかったが、出なかった。
「良くなって、時間があったら一緒に行きましょうね。」
それには俺は答えなかった。
介抱されてはいるが、俺は処分されるべき暗殺者。
彼に甘んじている時間も余裕もない。
そんな希望はもたない。
そう思ってから、微かに彼とルティエに行きたいなんて思っている自分がいることに気づいて戸惑ってしまった。
「あ、君、名前は?」
その戸惑いを打ち破るようにしてまた質問をされた。
俺は黙ってケーキを乗せていた食器を彼に返した。
それを受け取り、グローリィはにっこり笑ってから部屋から出て行こうとした。
『ルァジノール…』
彼が部屋を出て行く瞬間、聞こえるか聞こえないかくらいに小さくWISを送った。
地獄耳ともいえるそれでグローリィは聞き取り、こちらを振り返った。
彼が部屋から出る瞬間に、なんだか名前を教えなければと思ってしまったのだ。
急にやるせない気持ちになって、視線を反らせた。
『じゃあ、ゆっくり休んで下さいね、ジノ』
子供をあやす様な優しい声が耳元でした。
その日の夜が空を覆い始めたころ
『ルァジノール』
その声は日々の朝の訪れのように自然にやってきた。
だがそれは俺の体温を徐々に奪っていく。
『まだお前の三度目の失敗はギルドに報告していない。』
グローリィの消えた扉をじっと見ていた。
監視者が何を伝えにきたのか分かったから。
『今日の零時までに標的の首を持って例の場所へ来い。今度こそお前の最後のチャンスだ。』
自分だって抹殺の際のルールを破ったくせに、そんなことは全くお構いなしで偉そうに告げていった。
殺される覚悟はしていたつもりだ。
けれどこのような生の可能性があることも微かに期待していた。
グローリィの首を持っていけば、いつものように生き延びることができる。
―――君と見に行きたい。
グローリィの声と、看病の際ずっと隣に在った笑顔を思い出したら息が詰まった。
病気の様にめまいがする。
あれを、狩る。
そう思うと、吐き気が込み上げた。
初めて人を殺した時だって、こんな風にならなかったのに。
そういえば以前、標的を殺してから自害したアサシンを思い出した。
俺が“監視者”をしていて、アサシンのターゲットはどこかの富豪の娘だった。
少女を殺してから、彼は気持ち悪そうに声をもらしていて…目を真っ赤にして涙をこらえていた。
殺した娘は幼馴染みだったそうだ。
「情なんか持つからこうなるんだ。ルァジノール、お前はこんな風になるなよ。」
自ら首を切ったアサシンの亡骸を狼に食わせている横で同職の者にそう言われた。
俺は今他から見れば、あのアサシンが自害する前と同じ様子だ。
気持ち悪い、頭がくらくらする。
この症状に冒されて、俺はあの惨めなアサシンのように死ぬのか…?
―――お前はこんな風になるなよ。
狂ったように泣き喚いて、自ら首を切って
そして仲間達に“処理”され狼に食われて…
「………っ!!」
恐怖に駆られながら、丁寧にも俺はテーブルに置かれていたカタールを掴んだ。
死にたくない。
死にたくない。
いつもそう思って生き抜いてきた。
他人の命を奪ってきた。
いつもの様に息を潜めて…
―――クローキング
壁に手をついて、意識も体も木の壁と同化した。
壁際を流れるように歩く。
扉を音をさせずに開ける。
扉の向こうは薄暗いがこの部屋より明るい。
簡易なランプが窓際に灯り小さく揺れている。
その傍に椅子に座って窓際に寄りかかり、うたた寝している“標的”がいた。
あのクルセイダーはいない。
グローリィは眠っている。
クローキングは必要ないと見て、俺はそっと壁から離れた。
姿は揺れるランプの灯りに晒され、それでも息を潜めて、足音を立てずに彼に歩み寄った。
いつものように、切ればいいだけだ。
何を躊躇っているのか。
殺したくないというなら、これをただの人形だと思えばいい。
「……」
手が動かなかった。
進むことも戻ることもできずにいる俺を嘲笑うように、窓から風がそっと流れ込んだ。
彼が読んでいたらしい本が風に当たり、膝の上でパラパラとページをめくられていた。
―――昨夜読んだ本がルティエを舞台にした話だったんですが、とても描写が綺麗で…ルティエはきっとすごく綺麗だろうなと思ったんですよ。
唄うように本の内容を話していた。
有名ではないが、とても良い本だったと。
―――君と見に行きたい。
その本のような世界を、俺を連れて見に行きたいと言っていた…。
行きたかった。
俺に優しくしてくれているこの人と、どこでもいいから、一緒にいたかった。
傍にいるだけで、腐って冷めている俺の何かを癒してくれる気がしたから。
殺さなければいけないけれど、殺したくない。
はじめて見た、光のように思えたから。それを失いたくはない。
「…ジノ…?」
うつむいて、どんどんと湧き上がる苦しさに震えて息を乱していた。
それに起こされたのか、グローリィがまだ少し眠そうな目でこちらを見ていた。
彼は、俺が殺そうとしていたと知ったら、俺を見限るだろうか。
それでも、俺は彼を殺せる気がしなかった。
彼が立ち上がって、そっと俺の首元に手を伸ばした。
このまま首を絞めて殺そうとしてくれれば、俺は彼を憎んで殺せるだろうか。
「どうして泣くの?」
そう言って彼は首から頬あたりまで撫でるように手を滑らせて、俺の頬を伝っていた涙を拭った。
さっきから目の奥が熱かったのは泣いていたからか。
息が苦しい。
我慢せずに息を吐いてしまえば、情けない息遣いがした。
「…僕を、殺しに来たんだね。」
俺が何も言わなくても、いつでも彼は俺の心を見透かすように話していた。
答えずとも分かっているだろうと、俺はカタールを取り落として開いた手で頬に触れてくるグローリィの腕を掴んだ。
「僕を、殺せない?」
心の中で肯定しながら、俺は唇を噛んで目をつぶった。
この苦しみをどうすれば取り除けるだろうか。
その答えは、自分ひとりでは出せない。
彼に縋り付きたい思いは形にできず、ただそこに突っ立って乱れた呼吸をしていた。
「おいで、ジノ」
グローリィは突然、俺の髪を撫でて、腕を引いてさっきいた寝室へ戻った。
操られるように俺の体は意志を持たず彼に着いていった。
看病されていたときのようにベッドに寝かされていた。
ただし以前とは違い、グローリィも一緒に寄り添って寝ていた。
シングルベッドに男二人で横になるのは少し辛いのではと思ったが、思ったより窮屈でもない。
「僕を殺してもいいよ。」
言われた瞬間、全身が総毛立った。
そんなことを言われたのは初めてで、尚更殺してはいけない、殺せない気がした。
「本当は僕だって死にたくないし、ジノが死ぬのも嫌だ。
けど、ジノが僕を殺すという結論をだすのなら、付き合うよ。」
それは、結局俺が決めろということか。
俺が答えを欲しいくらいなのに…
余計に頭がくらくらした。
俺を殺して、彼が生きるか。
彼が死んで、俺が生きるか。
俺を逃がせば俺はアサシンギルドに殺され、グローリィも次の暗殺者に殺されるか、これを繰り返すか。
『…俺は』
俺は結論を出せないから、グローリィに決めて欲しい。
そう言おうとしたが遮るように彼が口を挟んだ。
「でも、僕を殺す前にジノに触れさせて欲しい。」
そういって彼は俺の両わき腹の横に手を付いて乗りだし、俺の首元に顔を埋めてきた。
何をしているのか良く分からなかったが、首筋にやわらかいもの触れていて、多分彼の唇だろうと想像できた。
しばらく唇が触れていたところを、濡れたものでなぞられ少しくすぐったくて身をよじった。
少し彼が頭を下げて、鎖骨辺りに深めに舌を走らせて、さっきの濡れたものは彼の舌先だったのかとぼんやりと思った。
装束の襟元を開かれ、暖かい彼の手が胸板に触れてきた。
心臓の音を確かめるように両胸の中心に置かれて、その手の暖かさが心地よかった。
それとは反対のわき腹の横についていた手が、今度は顔の脇に置かれて、彼は俺を見下ろすような姿勢をとった。
すぐ上にある彼の顔は、白い肌も青み掛かった銀塊の瞳も少し色の悪い唇も宝石のような銀糸の髪も、全てがヒトのものではないように思えて、すごく綺麗だった。
きっと彼は死んでもこのままだろう。
あの苦しさにまた襲われた。
この人が死んで、何故俺が生きれるというのだろう。
神がいるならその間違いを修正せずにいるはずがない。
この人は、俺とは違う。
『…行く』
結論は出た。
『アンタは、殺していかない。』
彼は悲しげに微笑んだ。
「触れさせて…ジノ」
それは、別れを惜しむ抱擁のようなものか。
何をするのか分からなかったが、とりあえず頷いた。
視界は銀に覆われ、唇にさっきまで首筋に触れていたやわらかいものが押し付けられてきた。
俺はこの瞬間の為に生きていたのかもしれない、と
味気ない人生を送ってきた中で思いもしない言葉が頭に浮かんだ。
To be continued ...
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