どこかの国では子供は七つまで神の子というらしい。
だからとても子供は虚ろで弱い存在で、七つを超えて人間の子になり強く確かな存在になっていくと…。
本を読むのが大好きな兄が教えてくれた。
でもどうやら僕は七つを過ぎても人間にはなれなかったようだ…。


今、彼の歳は十を三、四ばかり過ぎた。
けれどいつもいつも、後ろには落とし穴のようなものがある。
油断をしているとコロッと落ちて、永遠に神の国から帰ってこられなくなるような…。

だから常に前を見て、前にしっかりと進み、迷いなど持ってはいけない。
父と母に過剰なまでに愛されて、守られて、自分は必死に育っていた。
ちゃんと人間になれるまで育ち、“神の子”から離れなければ。



『だから言っただろう。お前は“神の子”などではないと。』
腕をトロトロと流れる赤いもの。
この生命の赤と痛みは少年の心を癒した。
同時に彼が、目指している“完璧な人間”から遠ざけてしまう行為だけれども。

みんなに綺麗だと言われた両親のどちらにも似ない銀の髪が、黒い何かに掻き回される。
その黒い何かは生きているのか、死んでいるのか、分からない。
ただ1つ分かるのは人間ではないこと。
それはいつからか、夜な夜な少年の元にやってきては耳元で何かをささやくようになった。

「子供は皆、神から人間になるものではないのですか…」
真面目に聞くと、それは耳元でクスリと笑った。

『神などではない。ただ不完全な物質であるだけ。
それが時を得て形作られ、人間になる。
そして安定した丈夫な体ができる頃が七つというだけ。』

サンタクロースを信じていた子供の夢を崩すようにそれは言う。
少年はそうなのか、と納得して、ジクジクと痛む腕を見下ろした。
もう血の赤は色あせて肌に張り付いているだけだ。

「では私は何なのでしょうか。」
『人間だ。』
「人間ならば何故私にだけ穴が付きまとうのですか…」
『それはお前が弱い人間だからだ。』

それの声は少年にとって怖いことばかりを言う。
けれど弱いと言われても、それが人間だと認めてくれることが少年には嬉しかった。
『お前が穴というのは負という感情。皆、それから目をそらし、振り払い、時に立ち向かう。
だがお前はその穴とやらに向き合い過ぎた。周りの光全てから目をそらし、ただ人間が生まれながらに持つ負の感情のみに向き合い、生きてきてしまった。
強く生きる術を知らずに来たのだな、哀れな幼子よ。』

少年の後ろにいた黒いそれは目の前にサッと躍り出た。
不気味と思うけれど、不思議と怖さは感じない。
それには気配が無い、だからかただの虚像のように思えた。

黒い影は少年の指先は触れて、指の間をスルリと通り抜けて肘辺りまで流れてきて、そっと腕を持ち上げた。
『この赤く儚い命が…この血が、お前を人間であると証明しているではないか。』
「…そうですね。」
誘われるように唇が動いた。

『お前が“完璧な人間”という偶像を追いかけたのは、今の自分が嫌だったのだろう?』
「…そうです。こんな私でも、成長すればいつかは人間になれるのだと…皆と同じになれるのだと信じていました。」
この声が、少年が自身で今まで否定してきた事実をどんどん肯定してしまう。
恐ろしく、悲しい。
けれど心休まる。

『ならばもう、人間も、お前自信もどうでも良いだろう。』
「……。」
『俺と契ろう。そしてお前は、お前ではなくなる、ただの人間でもなくなる。』
「…イグ…ェ…」
少年は黒いそれを見つめ、感情を押して声を出した。

『交わっても、お前の存在が消えることはない。
お前は俺にあらゆる感情と感覚、そして魂を差し出せば良い。
俺はお前に力と満足を与える。共存しあうだけだ。
怖くはないだろう?』
「…貴方に縋れば…私は楽になれますか…。」
『約束しよう』

頬に添えられている黒い影の一部に触れると、人の手のような形をしていた。
それを少年は握り締めた。

「…助けて…もう、どうしたらいいか…分からないんです…。」

少年の瞳からポロポロと涙がこぼれる。
深緑であった瞳の色が、涙と共に色を落とすように、銀灰色へ変わっていく。

『そしてお前は自身が一番嫌い、なんだろう。』
「…どうして、私…こんなに、汚い人間に…」
『だがお前は我が最愛の贄だ。俺だけは、お前の醜いところも全て受け入れてやろう。
それこそが我等の糧だからな…。』

暗い部屋で泣き崩れる少年の頬や髪を、慈しむように黒い影は撫ぜ続ける。

『もう、陽が昇る。』
「っ…!」

少年は顔を上げ、窓の外を見る。
もう空は明るく、町の向こうが明らんでいる。
怪物でも見たかのように少年は目を見開き、慌てて窓のカーテンを閉めた。

『部屋に闇を残したところで、もう今日が最後だ。』
「最後…?」
『ゲフェニアがまた再び封印される。もう戻らねば。』

やっと収まりかけていた涙を再び溢れさせ、少年は影に縋りついた。

「嫌です、置いて行かないで…行かないで下さい。
私を助けてくれると、言ったじゃないですか…!」
『そう慌てずとも、また封印は解かれる。今度こそ、完全にな。』
「嫌です!何年後のことですか!一人にしないで…!!」

突然、影が四散した。
そこに黒いものはあるが、触れることができない煙のようになってしまった。

『必ずまたお前の前に現れよう。その時、お前がどんなものになっているか楽しみだ。』
「ひどい、勝手すぎます…」
『これでも悪魔だからな。…グロリアス、鏡を見てみろ。俺からお前へのオクリモノだ。』

黒い影が笑う。
出会ったころとはすっかりと姿の変わってしまった少年を見ながら。
この心が盲目である少年は、自分の姿の変化に気づいていないのだろう。

『おやすみ、良い夢を。』

そして部屋には朝の静寂だけが残された。







本当はいつでもあの存在を恋しく思っていた。
決別を告げた夜は死にたい程悲しかった。

「―――今更、勝手だと怒りますか?」




木の扉がガンガンと音をたてる。
突き破られようとしているそれを防ごうと、6人の男女が部屋中の家具を扉の前に寄せ集めている。
だがそう長くはもたないだろう。

「…済まないがグロリアス司祭、我々が逃げる為の盾になって頂く。」

申し訳なさそうながらも必死な男の声が可哀相だ。
なれるものならなってあげたい。

だが…
「…魔法のスクロールを盾にしたところでただの紙」
青年の呟きが魔法のように響く。
「道具でも捨て捨駒でも、使うなら正しく使って下さい。」

この状況で異様に穏やかの微笑みを浮かべ、青年は“椅子から立ち上がった。”
「なっ…縄は…」
リーダーである男の驚愕の声に答えるように、若き司祭は腐り果てた麻縄を差し出して見せた。

「これは幼稚な姉弟喧嘩です。被害者は貴方がた。責任を持ってお守りします。」
聖職者の笑みの向こうには、ただならぬ黒い影。
室内の誰かが『悪魔憑き』と喚いた。

…私は一度も否定しなかった。
ただ、本当の悪魔は姉の方だと言っただけ。

そう言いながら、本当に悪魔に憑かれた事実を言わない自分は卑怯だと…分かっていた。
けど…大好きだった姉に裏切られ、これ以上誰かに嫌われたらもう自分は生きていけなかったから…

『ロウ…、ルァジノール達が来る。』
アグリネスの声。

何を言っているか分からない。

ただ思うのは。


『殺す』
グローリィの意思の無い言葉に、アグリネスが息を呑んだ。

自分が何を言っているのか分からない。

ただこの心が思うのは。

『邪魔は許さない』

ああ、許さない。
やっとまた彼に会えるのに。

闇が薄暗い室内を踊る。
人の悲鳴を飲み込んで肥大化して、楽しげに踊る。


そしてやがてその中から、海から上がるように姿を現すそれ。

闇に似た肌に月の光を紡いだような鋭い銀の髪。
美を追求し作り上げた彫刻のような身体。
人間離れした鋭い瞳にその存在感。

嗚呼、ずっと逢いたかった。
「そうだろう?」

恋人か我が子を抱きしめるように、その男はプリーストを胸に閉じ込めた。
「今度は何を怖れていた?俺がいつもお前の傍にいてやると言っただろう?」
「……。」

「お前にやられた傷がずっと疼いていた。早くまたお前に呼ばれる日を心待ちにしていたよ」
男はそう言いながら露出した胸に刻まれた深い刺し傷を指差す。
プリーストは目の前に示されたその傷に食いつくように顔を寄せ、舌を這わせた。

「お前も悔いていたのだろう?」
悪魔に抱かれた人間は泣きながら犬のように胸の傷を舐めるばかり。
震える瞼の奥で穴のような昏い瞳が揺らいだ。
舐める合間に溜息のように声を漏らす。

「…寂し、かっ…た…悲し、かった、怖かった…!」
悪魔は子供のように甘えてくる青年の頭をずっと撫でてやっていた。

「お前を悲しませるものは全て俺が消してやる…」

だから…と耳元で囁く悪魔に、正気を失った司祭は祝福のようにそっとくちづけをした。



討伐隊の後をつけて、やっと辿り着いた先は既に住人のいなくなった小さな屋敷。
そこにはが入口を塞ぐようにクルセイダーの男が立っていた。
「アグリネスさん…!?」

討伐隊は既に突入した後なのに何故彼がそこに立ち尽くしているのか。
そして彼はあろうことかこちらに気付くなり剣を抜き、構えた。

『…ッ!』
「ちょ、ジノ…!」
ルナティスの制止も聞かず、ルァジノールは真っ先にカタールを翻してアグリネスに切り掛かった。

おかしいと思っていた。
アグリネスがいながら何の騒ぎの形跡もなくグローリィが連れ去られ、アグリネスはそれきり姿を見せず、WISへ返信もなかった。
だが彼は今ここに現れた。
そしてこちらに剣を向けた。

故に彼は裏切り者。
暗殺者として生まれ育ったルァジノールには抵抗なく受け入れられた事実だ。
そして最も忌むべき、即抹消すべき事実。

「やめろ、ジノ!」
ヒショウがルァジノールよりも早くアグリネスの前に立ち、振り下ろされるカタールを短剣で受け止めた。
アグリネスへの牽制に彼にももう片方の短剣を向ける。

「…っ!」
それでもルァジノールは止まらなかった。
彼は更にもう片方のカタールでヒショウの脇を縫って突き込む。

目で追えぬ程の攻防、決着は。
アグリネスに短剣を向けた手を横に突き出し、ルァジノールのカタールを遮るヒショウ。
ルァジノールも咄嗟の判断で、ヒショウの腕にカタールの刃先2cm食い込む程度で辛うじて動きを止めていた。

「ジノ」
腕に突き立ったカタールを掴み、下げさせる。
「…それは、暗殺者のやり方だ。」
「…!」

ヒショウがそう囁くと、ルァジノールは表情を消したまま、だが息を呑んで体を強張らせた。
誰にも分からないその変化はやはり暗殺者として育てられた成果。
悲しいものだと、視線を下ろし思った。

戦う意思は失った彼らの隣に並び、ルナティスはアグリネスを見据えた。
「アグリネスさん…どうして僕らを止めるんです?…あの先にいるゲロたんが今どんな状況か分かっているんでしょう?」
「だからこそ」

いつでも無機質なクルセイダーは、視線を下げて呟く。
「…彼の命令だ。」
「ゲロたんの?」
彼は頷く。

「…でしょうね〜」
ルナティスは苦笑いして頬を掻いた。
それを見るアグリネスは相手がそんな無防備でも隙を一切見せなかった。

「じゃあ、アグリネスさん、一つ聞かせて下さい。」
「…何か。」

「パートナーが死を望んだ時、彼を殺してやる、貴方はそんな人ですか。」
その言葉を耳にしても、アグリネスは表情を変えない。

「そうだ。だがしかし…今はその時ではない。」
感情を見せずとも、ルナティスの質問の意図は分かっているのだろう。
肯定、後に逆接でルナティスの望む答えをだした。

今、グローリィは死を望んでいるわけでない。
アグリネスが突入しないのも何かの策略であると。

「じゃあ、時期にカタがつくか、突入の合図があるわけですね。」
「後者…の筈だ。」
ルナティスは今度こそ答えに満足して頷いた。



口々に敵が「悪魔」と叫んでいる。同じことしか喋れないのか?
打つ手がないから口を出している。馬鹿らしい、さっさと帰ればいいのに。
「悪魔憑きなどではない、奴自身が悪魔だったのではないか!」
「…フローラ・リアーテの為に悪魔の抹殺を!」

ああ、私にもう未来はないのでしょうか。
違うと叫んでもどうせ声は誰にも届かない。
あの無意味不毛だった宗教裁判で嫌というほど分かった。
声は届かない、けれどこの身に憑いた悪魔、イーグを隠していれば姉の声も届かない。

でも、もう疲れた。
姉に憎まれるのはもう嫌だ。
姉を憎むふりも嫌だ。
全て壊れてなくなればいい。

「イーグ」
悪魔というのは嫌だ。
甘い匂いと優しい言葉が心地良いのに、その存在感は聖と相反するせいで寒気がする。

「…皆、殺さずに払えますか。」
「契約を」
「それでは私のリスクが多すぎる、不公平です。」
「ならば奴らの記憶の改竄もしてやろうか。」
「…分かりました。」

契約を―――
そう呟く唇を見て、イーグはにやりと笑んだ。
8年、待ち侘びた。

「ただ…お願いが。」
「契約を交わすならばお前は俺のものであり、俺はお前のものだ。聞き入れよう。」
イーグは言いながらその鋭い爪で自らの指先を裂いた。
そしてキャンパスに描くように、グローリィの頬に黒い体液を擦りつける。

「…最期…私が私を失う前に、抱きしめさせて下さい。」
悲しげに笑みながら言われた言葉にイーグは困惑した。
「悪魔と言われ、姉に見捨てられても、聖職者として生きてきた。そうしてきたのは、貴方のせいだ…イーグ…」
「……。」

「もう一度貴方に会いたかった。これでも本気で貴方を愛していた。死にたくは、なかった、だから拒むしかなかった…けれど。」
イーグ自身の血が滲む指が、頬から唇へと移り、口内へ。
そうした瞬間に、グローリィの瞳が眠そうにまどろみ始めた。

「久々にお前は面白かったよ、グロリアス。俺の血がお前の身体を巡るのが分かるか。そうして回ったら、お前は解放される。」
「…魂、も…血肉も…貴方が食べるの、でしょう…?」
「食べるとは心外だ。同化するんだ。」

自嘲的に笑い、堕ちた聖職者は悪魔の腕の中に倒れこんだ。
だがまだ意識は消えていない。

「さあ、眠り姫のご要望だ。お前らもたっぷり眠れ、この夜を忘れる程にな。」
悪魔の月のように鋭い瞳が、周りで竦んでいた人間すべてに向けられた。



激しい物音が鳴り止まずにいたが、突如としてそれが消えた。
微かな物音が続いていたが、それもまたぱったりと消えた。

――― アグリィ

「…合図だ。」
アグリネスが剣を構える。
「作戦がありますか、それとも殴りこみですか。」
「……。」

ルナティスが彼に問うが、彼が振り返り見たのはルァジノールだった。
「お前はここに残れ。」
『何故!』
「ロウが望んでいない。」
『…。』
「だがいざという時の為にいつでも入れる準備を。」

それだけ言うと、ルァジノールからの返事を待たずに彼は廃屋の中へ走っていった。