約束通り、人間は一人残らず記憶を消して眠らせた。
できることなら皆食ってやりたいが、それをできるだけの力は今の自分にはない。
だがこれからそれだけの力を与えてくれる人間の身体を、彼は愛しげに抱きしめてやる。

骨が軋む程に。
「…っあ…ぁ…」
歪んだ顔に微笑んで口付ける。

「…おやすみ、良い夢を。」
震える唇は少し開けられたまま。
だがそれが不意に引き結ばれた。

「………まだ…死ねるか…っ…」
「…なに?」
脱力しながらも必死に呟いたグローリィの言葉を、悪魔は怪訝に思う。
さっきまで死を望むように、生を諦めてイーグに委ねていたのに。

そして扉の外の新たな敵勢に気づく。
イーグは特別で同族より強い力を持っている、だがさっきの行動で消費してしまった。
今のままでは普通のモンスター同然だ。
早く腕の中の人間を食らわなければ本来の力は戻らない。

まさか、この人間はこれを待っていたのか。
「…また、俺を裏切るかグロリアス!」
「人間、は…悪魔より、汚い…ですよ…」
皮肉なもの言いに、イーグは怒りと喜びに笑う。
二度もちっぽけな人間に謀られたこと。
そして食うのに選んだ人間が予想以上にずる賢くて笑えた。

「ロウ!」
ずっと聞いていたのに、なんだか懐かしく思えるアグリネスの声。
グローリィの視界には抱きしめてくるイーグしか写らなくて、彼を見ることができない。

「だが無駄だよ、契約は交わされた。」
「んなもの…アンタが…」
唸るように言いながら、グローリィは力の入らぬ体に鞭を打って、イーグの胴にしがみついた。
契約前に約束した抱擁のように。
「アンタが…消えれば、無効…だ…。」

唇を歪めたその表情に、イーグは力がざわめくのを感じた。
――― 同胞
人間相手なのに何故かそう思えた。
イーグの力をまとわせたまま長い間泳がせたせいか。

「アグリィ!!」
グローリィが低い、地を這うような声で怒鳴る。

「グランドクロス…!」
それにあわせて、アグリネスが剣を木製の地に付き立てた。



アグリネス、グローリィ、そしてイーグを囲むように、床に円形状の陣が浮かび上がる。
それだけではない、その更に周りでグランドクロスの影響をうけた何かが光り弾けた。
途端に火に油を注いだように、聖なる光は暴発した。

瞬間、辺り一帯が光で真っ白になる。

「ウグオアアアアア!!!!」
「アアアァァァアアア!!!!」
悪魔の、人成らざる断末魔の叫びが響いた。
それの協奏のように人間の悲鳴も混じって響いた。

皆、グローリィの名前を叫んだが光と轟音にかき消された。
二階の床が中心から次第に、ガラガラと更に轟音を足して吹き飛んだ。
それのせいでその場にいた者が悲鳴を一階へ落ちて、更に轟音。


ただならぬ物音に、外で待機していたルァジノールはぎょっとして建物内に飛び込んだ。
建物の石壁にはそう衝撃はなく崩壊の心配はなさそうだが、木製であった上にグランドクロスの衝撃を直接受けた床は二階の床もとい一階の天井は跡形もなかった。

『グローリィ!!』
初めに聞こえた、獣のような絶叫と混じって聞こえたグローリィの悲鳴が気になっていた。
構えていたカタールを腰に収め、土煙が収まりきらないうちに建物の中心へ走っていった。

『ジノ、来るな!』
すぐ目前に人影が浮かんだが、向こうもそれを悟ると来るなと止めてきた。
声にならない声でグローリィ、と名前を呟いた。
来るなと言われれば止まるしかないが、彼の安否が心配だった。

土煙はやがて視界に困らぬほどに収まった。
そこで一同が目にしたのは異様な光景。
床に土煙で汚れて転がっているグローリィに、イーグが覆いかぶさっている。
二人共に満身創痍で全身が血に濡れている。

だがイーグは弱弱しくも牙を剥き出して、組み敷いている人間の魂は諦めても血肉だけは食らおうとしている。
そしてグローリィは彼を寄せ付けないように隠し持っていたらしい装飾ナイフを彼の喉元に突きつけている。
「…っ退け!今度こそ殺すぞ!!」
普段穏やかなグローリィが酷い剣幕で怒鳴るのに、誰ともなく息を呑んだ。

怒りから来る怒鳴りではなく、重症を負ったイーグの血が自分に振りかかるのを恐れて焦っただけだ。
聖の魔力に対抗力のあるグローリィでも流石に今のグランドクロスは重症に繋がった。
もし傷口にイーグの血が入れば、せっかく掻き消して無効にした契約が、再び交わされることになる。

彼が来ることを想定して用意した、聖水で清めたナイフだ。
イーグの首に牽制の意味で切っ先を突き刺した。
途端に異様な痛みに目の前で顔をゆがめた。

「早く、2歩下がれ、そうすれば殺しはしない。」
更にナイフを押し進めながら低く言うと、イーグはやっと観念してフラフラと立ち上がった。
彼にアグリネスが剣の切っ先を突きつけるのを見てから、グローリィは自分にヒールを唱え始めた。
それに気づいてその場でヒールクリップなどでもヒールできる者は彼とアグリネスにヒールを飛ばし始めた。

ルナティスがグローリィの傍に寄って、傷の具合などを見始めた。
「大丈夫?」
体はもう先ほどのヒールで大丈夫そうだが、それよりも体力と精神の疲労が心配だった。
だが彼は鼻で笑って、立ち上がった。

「…粋がって突入してくれた、割りに…役に立ちませんでしたねぇ。」
「っ…うわー、それ言うなよ…。」
「でもお節介はありがたく、受け取ります。よくあの家族に突っ込んでくれましたね。」
ルナティスからだけ、そういうグローリィが一瞬泣きそうにしていたのが見えた。
思わず何も言い返せずに、小さく頷いた。

「…このままでは、危険そうですか?イーグ。」
やっておきながら、慈悲深そうに問いかけるグローリィを、嘲笑しながら見上げる。
「まさかお前がここまでやるとは…油断したよ、グロリアス。」
「貴方には長年悩まされてきましたからね。」
互いに牽制しあうような会話だが、共に疲労に声が弱弱しくなっていた。

「…一つ解せぬのは、未だお前が正気を保っていることだ。
もう契約は交わされた筈、何故だ。」
「監禁中に絶食と精神集中で即席の禊ぎをしておきました。
それにあらかじめ部屋にブルージェムストーンを撒いて五望星を結んでおきましたから、グランドクロスとそれが相まって一気に浄化されました。納得ですか?」

イーグの血は確かに一度、グローリィの体内に入り彼を穢れさせた。
けれどあらかじめ禊ぎで身を清めていたので僅かながら耐性はできただろう。
そしてブルージェムストーンを利用して強化したアグリネスのグランドクロスで穢れは浄化された。
体を焼き尽くすほどの聖の力は思惑通り、悪魔の一滴の血などたやすく浄化した。
あれにはイーグを撃退する以上の意味を兼ねていたのだ。

余りに用意周到。
全てはいつかやってくるイーグに対して、グローリィが作っていた罠だった。
それに気づくと、イーグは笑った。
それは自嘲的とも嘲笑的ともとれた。

「ああ、本当に惜しかった。穢れた聖職者、悪魔よりも悪魔らしい。お前の血肉と魂はさぞ美味であっただろうに…!」
イーグのそんな言葉に、皮肉をこめてグローリィは極上の微笑みを向けてやった。
そして思わぬ言葉を放った。

「でしたら飲んでみますか?」
思わず一同が息を呑んだ。
「今の貴方は放っておけば死ぬでしょう。」
「この俺を助けようというのか。」
「貴方には恨みはたっぷりですが感謝するところもあります。もちろん飲むのも私が死なない程度にしないと本気で殺しますが。そしてもう私から手を引いて、二度と現れないでください。」
先ほどつかっていたナイフを閃かせながら笑顔でそう言うグローリィを間近で見て、ルナティスは「悪魔よりも悪魔らしい」というイーグの先ほどの言葉を思い出していた。

「ああ、リアーテ家にも今後一切関わらないように。あの人たち本当に馬鹿なんで。貴方にまた絶対振り回されますから。」
おまけのように言い足してから、返事を促すように短剣をイーグに向けた。
人間の言いなりになるのが悔しいのか、それとも目の前の獲物から手を引くのが惜しいのか、イーグは表情をゆがませていた。
だが命には変えられないとしぶしぶ頷いた。

グローリィが歩み寄り彼の目の前にしゃがみこむのを合図に、アグリネスは突きつけていた剣を下げた。
「……私が危険を感じたら、ここにいる人たちに一斉に切り捨ててもらいますからね。」
「…全く、とんだ人間だ。悪魔にいろいろ手を焼かせて10年焦がれさせて、挙句にこれとは…。」
「悪魔は騙し、惑わし、しかし裏切らない。でも人間は騙され、惑わされて裏切るんですよ。」
プリーストの法衣を肌蹴さす間の小さな言い合いは、まるで二人が種族の違う者とは思わせない。

『ああ、アグリィ。ジノには見せないで。』
晒された首筋にイーグが牙をつきたてる直前に、グローリィが指示した。
それにアグリネスは頷きもせず速攻でルァジノールの目の前に立った。
そして彼を抱きしめて目をふさぎ、手で耳もふさがせた。
『見るな。』
それだけをWISで告げて、ルァジノールの何故という問いには答えない。

痛みに小さく唸り声を上げたが、牙が完全に肌に沈めば不思議と痛みはなかった。
「…っん…」
そこからズルリと少し、少しずつ血が吸いとられていくのを微かに感じた。
殺さないように、という要望の為に動脈を避けている。
だから吸うのに時間がかかるのは否めなかった。

ここ最近の監禁のせいで少しやせた白い手がイーグの腰辺りに添えられた。
やめろと引き離すでもなく、引き寄せるでもなく、縋る様に。
「…っ…う…」
自分の体の変化に、グローリィは遅れて気が付いた。
全身に甘い痺れがいきわたる。
これによく似た感覚を、彼は知っていた。
それに気づくと、血をすわれながら少し焦った。

「…イーグ…もう、やめろ…」
声は震えていた。
痛みや疲労や貧血からではない、別のものからくる震えだった。
快感。
捕食行為である筈なのに、性行為に思える。
肌に食い込む牙と甘噛みする唇と、この悪魔からよく香っていた甘い匂いに酔いそうだ。
これは媚薬を飲んだときのような感覚だ。

「これだけしか飲ませてくれないのか。」
そう言うイーグは満足げに笑っている。
この捕食さえも、人間には毒の誘惑と本人が分かっていない筈はない。
微かに敗北感を感じ、苛立った。

「ッ!!」
思い切り悪魔の顎を蹴り飛ばして起き上がる。
「調子に乗るな、今度こそ完全にとどめをさすぞ。」
周りで他人が多く見ているというのに喘ぐ姿など見せたくなくて、さっさとイーグから離れ乱れた襟を直した。本当に翻弄されてばかりで腹立たしい。

「…魂は美味だろうに、血はあまり美味くない。」
「日頃不健康な上に、ここ最近の拉致生活でたーっぷり禊ぎになりましたし、飲まされていた水はありがたいことに聖水でしたから当然ですよねぇ。」
「…本当に、貴様は…。」
イーグは怒るどころか、笑い話に喜ぶように笑んでいた。

それに大して、グローリィはいきなり表情の一切を消した。
「…イグツェラド…去れ」
そして彼を言葉で突き放した。
それに大してイーグはクスクスと妖艶に笑う。
誰もが息を呑んで見守る、悪魔の微笑み。

「さっきは悪魔に初めて『愛していた』と語った聖職者の唇が、もうそんな言葉を出すとは。節操のない。」
「誰が貴方のような性悪でいい加減な悪魔を本気で好きになりますか。自惚れないでください。」
種族、立場の大きな違いがある二人は、にーっこり微笑みあったまま、けん制を続けていてピリピリした空気が漂っていた。
周りの人間は怖くでどちらにも近づけない。

折れたようにイーグがため息をひとつついた。
途端に、彼の姿が真っ黒になった。
影の塊か。
そして四散して、風に散るように消えうせた。



「…ご迷惑、おかけしました。」
余韻が残るうちに、グローリィが頭を下げた。
「いや、無事でよかった…よ。」
ルナティスが彼に歩み寄って、肩に手をかけて…語尾に少し口ごもった。

「…帰ろっか。」
「はい。」
ルナティスの言葉に、素直に頷くグローリィだが、顔を上げない。

泣きそうだなんて、ルナティス以外には知られたくなかった。





グローリィ奪還後、一件落着ということでマナ達インビシブルのメンバーは解散した。
だがルナティスはイーグの正体を知りたいとグローリィの家に上がり込んだ。
マナ達は「関係はない」で済みそうだが、ルナティスは彼と直接の友人だ。
聞きたいことは聞くべきだと思っていた。

「あれの正体はインキュバスです。」

やはり、とルナティスは思ったが、そうにしては気になる疑問がある。
「でも、高等な悪魔とはいえ、あそこまでごちゃごちゃ出刃ってくるもの?あんなのがゲフェニアにいて、ちょこちょこ出回ってくるならかなり大変な話しじゃないか。」
「そうですね。ただのインキュバスなら狩って終わりです。
しかし冒険者が狩るのは未熟な悪魔達です。
あれらが長く、永く生き続けると自我を確立させる。
イーグはそのタイプです。
そして彼らの世界の奥底に潜って、補食時以外姿は現さない。」

「補食…今回みたいなケースか。」
「そう。1番“腹持ち”するのは魔力に長けた人間、または成人前後の人間だそうで。
長生きだから暇してるんでしょうね、生まれてすぐに取り入って、食べ頃になれば契約を交わし持ち帰るらしいです。」
言ってから、話が逸れたと咳ばらい一つした。



「イーグと出会ったのは私が10歳の頃。呼び出したのは姉でした。」
「……。」
性格の悪かった姉を思い出し、ルナティスは暴言を言いかけたが、弟の目の前なのでこらえた。

「何を思ったか姉は向こうの世界の奥からインキュバスを呼び出し、自分を嫁にしろと言い出した。
魔王の花嫁、という題目の歌劇があるでしょう。
自我を持った悪魔ならそんな夢も見させてくれると思ったんでしょうね。」
「乙女の夢か、子供の悪戯…か…」
グローリィは呆れたため息をつくルナティスを面白そうに見ている。

誰にも話せなかった過去を淡々と話し、ルナティスは共感しながら聞いてくれている。
少し前なら考えられないこの状況が嬉しかった。

「しかしイーグは姉ではなく、後ろに隠れて居合わせていた私の手をとった。
私の方が若干若いから長く遊べると思ったのかもしれないし…
私を選べば嫉妬した姉が私を恨み、憎悪の姉弟ができて楽しいと計算したのかもしれません。」
そこで自嘲的に笑うグローリィを見て、あの姉弟の憎み合いの訳を悟った。
要は三角関係の縺れか。

「あのヒステリック馬鹿な姉も尋常ではなかったから、私同様にイーグに何かされたんでしょうね。」
「僕もそれちょっと思ったけど、一応お姉さんなんだからさー。暴言いくないよーヒステリックでとめときな。」
そう言う彼はどこか楽しそうで咎める様子はなさそうだ。

「イーグは、本当にもうこないかな。」
「……。」
ルナティスの呟きに、グローリィは何も答えなかった。
そんな様子を怪訝に思い、苦笑いしている彼の顔を覗き込んだ。

「来て欲しいの?」
率直に聞くが、彼は少しはぐらかす様に視線をそらした。

「…姉と、兄に会ったんですよね。」
「うん。お姉さん嫌いだけど、お兄さんは良識ありそうで嫌いじゃなかった。」
「二人とも、髪は緑だったでしょう。」
「うん。同じ色だったね。」
「私も昔は緑だったんです。」

「染めたんじゃないの?」
「いいえ。一切。」
視線をテーブルを見ている彼の目からその髪に移した。
初めて会ったときから思っていた、染めたのではなかなか出来ない綺麗な銀髪だ。
だがそれが彼の本来の髪ではないというなら、何の色かはすぐに分かった。

「…イーグの色か。」
「ついでに言うと顔もですよ。」
「そこまで変えるか!?」
確かに、髪同様に顔の造形も人形のように整っていると思っていた。
そこまでされればグローリィが家族から嫌煙されるのも無理はない。

「私は心も血も、つながりは家族よりイーグに近いんです。」
「…そうだね、でもさ…。」

ルナティスは心配そうに彼を見た。
家族のいない、ましてや宗教的なものなんて一切興味もないルナティスが口を出していい領域かわからない。
それでも、友人として思うことを言いたいから、遠慮がちにだが口にした。

「見た目とか、仲のよさとか、そんなのより君がどっちについていたいか、誰の傍にいたいかだと思うよ。」

グローリィはしばらく視線をどこにも定めずに考え込んでいた。
だが不意にルナティスを見て、小さく頷いた。

「そうですね。答えはもう出てるんです。
少し、未練がましく縋り付いているだけで。」

だから大丈夫だ、と言う様に彼は微笑んだ。



だから彼からの誘惑を拒んだ。
世界に嫌われ、絶望していた。

でもそれ以上に、世界に見られることすらなかった青年に出会い、彼の気高さを感じ、愛おしく思った。
そんな彼と生きたい、彼を生かしたいと思った。

正直、イーグを親よりも兄弟よりも大切に思っていた。
泣くのなら助けてくれずともゲフェニア奥地にいる彼の名前を呼んだ。
でも今は違う。

「ジノ」

もう誰もいないと思っていた部屋で呟くと、壁が小さく音をたてた。
隣の部屋に彼がいる。
そっとその壁に背をつけた。

「ありがとう。」
『…俺は、何も出来なかった。』
「いいえ、君がいてくれたから…今回の教会の件でも、打開策を必死に考えられたし、イーグを祓う方法も思いつけた。あそこまで“生きたい”と思ったことは無かったんです。」


『…俺も“生きていて欲しい”と…思ったことは、無かった。』

WISなのに小さい声でそういわれると、自然と顔がほころんだ。
今すぐむこうの部屋に行って抱きしめたいと思ったが、理性が聞かず抱きしめるどころで終わらなくなりそうなので我慢してその場に座った。





窓から見える月は、昔見たときのようにどこか冷たく感じた。
でもそんなことよりも壁の向こうにいる青年の存在のほうが大事。

「ずっと、生きていましょうね…一緒に。」
そう言って目を閉じた。