NOT LOVE
徐々に腕の痛みが薄れ、ヒショウさんに指や手首の間接も治され、解毒も効いてきて楽になっていた。
いつ飛んでもおかしくなかった意識も、はっきりとはしないものの安定してくる。
だが不意にグローリィが俺の頭を掴み、額に顔を寄せてきた。
「…ジノ、ちょっとだけ意識を失ったフリをしていてくださいね。」
俺にだけ微かに聞こえる程度の囁き。
それは、何か悪戯をするときの声音に似ていた。
訳が分からないまま彼に抱きつかれて、視界をふさがれた。
彼の腕は極寒の地にいるかのように酷く震えていた。
「お願いです、死なないで下さい…!私は貴方に何度も助けられた、その御礼を何一つ出来ていない…!!」
突然震える声で泣きながらグローリィが叫び始めた。
さっきの、意識を失ったフリをしていろ…っていうことは…
え、演技か…?
「やっと貴方と分かり合えたと思ったのに…やっと貴方がずっと私を守ってくれていたと分かったのに…こんなの…こんなの…!!」
…何故だか笑いたくなるのを堪える。
演技と思って聞いていると、彼は随分な役者だと思う。
震える肩も、悲痛な嘆きも、堪える嗚咽も、どう聞いても本当にしか思えないのに。
ずっと呼吸を抑え、目を閉じている間に俺はどうやらけが人としてどこかへ運ばれていくようだ。
数人が俺を取り囲み、手を伸ばす。
払いのけたくのを、必死に堪えた。
どこへ連れて行かれるのか分からない不安に、ある程度時間が経ったら周りを確認するべきか悩み始めた。
丁度そんな時に、聞き覚えのある声がした。
「大丈夫だからね、ジノ君」
そう言いながら頭を撫でてくれるルナティスさんがいた。
恐らく運ばれていく俺の付き添いとして横にいるのだろう。
俺は良く分からないままに運ばれていくしかなかった。
「…あの…」
「うん?」
俺を担架で運んでいるらしい青年が、ルナティスさんに話しかけていた。
周りには3人の足音が聞こえている。
始めは走る様だったがルナティスさんが「なるべく揺らさないで」と言ってから少し遅くなった。
「俺、噂で…この子を誰かが拷問した、って…で、その拷問したのが…」
「それ以上言ったら駄目だよ。」
青年の言葉を、ルナティスさんが遮った。
「…噂はあくまで噂…滅多なことを言っては駄目だよ。」
「でも!教会の偉い方がこんな酷いことをしてるなんてことは」
「それ以上言えば君がこうなるかもしれないよ!!!」
ルナティスさんの言葉に、青年が驚いたのか担架がぐらりと揺れた。
「…君が、誠実で優しい人なのは分かったよ…?この子もね、そうだったんだよ。だからこうなった、って言えば…分かるだろう。」
ルナティスさんが、俺の頭をそっと撫でてくる。
俺は、誠実で優しかったつもりなんかない。
訳が分からない、グローリィも、ルナティスさんも、何か言っていることがおかしいと思う。
「このアサシンの子、囚人が入れられると数日で頭がおかしくなるっていう独房に入れられて、拷問もされてたんだ…。
それなのに、今朝初めて姿を見た時平然としてて、怖いなって思ったんだけど…」
頭上にある青年の声が、語尾には段々と声を震わせてきていた。
ついには鼻を啜りだしている。
「服を直してやったら、ホッとしたような泣きそうな顔して『ありがとう』って言ってた…っです…。」
その言葉で、この青年が誰か分かった。
朝に房から連れ出される時に、俺に優しくしてくれた若い騎士だ。
違う…俺は…
彼にこんな風に気遣ってもらえる人間じゃないのに…
「シスター・フローラの弟が、さっきの銀髪のプリーストなんだけどね…彼が今この子の潔白を説明してる筈だよ。」
「………っ…」
ルナティスさんは、嘘をついてる。
俺は、潔白じゃない。
「大丈夫…僕以外にもちゃんとこの子を守る人達はいるから。
もう絶対に、こんな目には遭わせたりしないから…。」
違う、違う…
俺は……
部屋の中の高い位置に窓があるが、カーテンが引かれている。
しかし風通しは良く、ランプも多いので周りは明るい。
ハーブや薬が並び、ベッドが3つ並ぶ、いかにも病室っぽい雰囲気がある。
『なんで…あんなことを…』
集中治療と銘打って、閉鎖された部屋にルナティスさんと二人きりになった。
傍らに立っているルナティスさんの袖を掴み、唇で話す。
俺はまだ筆談できるほど字を知らないし、冒険者証を持っていないので彼に読唇してもらうしかない。
「何で?って聞いてる?」
ルナティスさんに出来るとは思っていなかったが、彼は予想をつけながら応えてくれる。
「その何で?がどれについてか良く分からないけど…何から話そうかな…」
ルナティスさんはお湯で濡らしたタオルで顔や首の血を拭ってくる。
自分でできる、とそれを受け取ろうとしたが、「いいからじっとして」と言われてされるがままになってしまった。
「…君の聞きたいことの応えになってないと思うけど、でもまずちょっと言わせて。」
ルナティスさんが左腕の傷や、指先を触ってくる。
切断されてすぐにくっつけてヒールしたから一見元通りになっている。
感覚もうっすらだがある。
すぐに治療すれば、元通りになるなんて人間の体はよく出来ているものだ。
「グローリィも、インビシブルの皆も、それ以外の皆も、すっごく心配したんだからもう二度とこんなことはしないで。
と言っても無駄だろうけどね…僕だって、ジノ君と同じ立場なら同じことをしただろうし。」
諦めたように苦笑いするルナティスさんが、俺の目を覗き込んでくる。
「だから、もうするななんて僕からは言わない。
けど、これだけは聞いて信じて欲しいんだ。」
腕についた血をふき取りながら、細かい傷や痣にヒールを当ててくれる。
それの多くはもう時間がたって古傷になりそうなものばかりだったけど。
「グローリィは、君が何人殺そうと、どれだけ残虐なことをしようと君のことが好きだよ。」
まさか、そんなことを言われると思わずに目を見開いた。
あんなに、綺麗にして血を知らない様な人が…
そんな風にいられるはずがない。
「確かにグローリィはジノ君みたいな過酷な環境にいたわけじゃないし、人を殺したことだってない。
でも完全温室育ちの花ってわけじゃないし、何より
誰か他の人の命を見捨てたって君を選ぶくらいに、君を大切に思ってる。」
誰にでも優しい彼が、まさか
「君がグローリィを選んだように、グローリィも君を選ぶ。」
あの優しさは、誰にでも向けられているものだと思っていた。
「つまりね、君がグローリィに傷ついてほしくないように、グローリィだって君に傷ついて欲しくない。」
ルナティスさんは、似たようなことを繰り返して俺に言う。
「君がグローリィのために他の人を切り捨てるように、グローリィも君のために他の人を切り捨てる。」
俺は、グローリィにとって特別だったと。
分からない。
彼の言葉の意味は分かっても信じられないし、その言葉の意図までは分からない。
ただ漠然と聞いているしか出来ずに、俺は目を丸くしていた。
「はい、ここが一番重要だから覚えてね。」
いつも、魔物の知識を教えてくれるように。
街のしくみや冒険者のしくみを教えてくれるように。
笑いながら、授業みたいに彼は言う。
「こうやってお互いがお互いを思ってるとき、一番やっちゃいけないのは自分を傷つけることだ。」
彼の言葉に従うなら、俺がしたことはそれだ。
「それは相手を傷つけることに近い裏切りだ。」
その痛みを知っているかのように、ルナティスさんもどこか辛そうにしている。
俺への心配と怒りを分からせるように、手を強く握られる。
「…少しは、分かった?」
理解は、できたと思うので頷いた。
ただ、グローリィの気持ちが本当にルナティスさんの言うようなものなのかが分からない。
だから少し腑に落ちないようなところもあるが…
ルナティスさんは「うん、なら、いいよ。」と言って一人で満足している。
しかし彼は俺の質問に答えていないので、唇を動かしてさっきのことをもう一度聞く。
「ああ、そうか。」
と思い出したように彼は頷く。
「詳しい事はグローリィが話すけど、まあグローリィや僕がちょっと変なことを周りに言ってたのは作戦だ。
周りに君が暗殺者だったっていうのを嘘にさせる為の。
…大人はね、汚いんだよ。」
ルナティスさんは話しながらも俺へのヒールを続けていた。
失血で体が冷えているからか、カップに入れたお湯を飲ませる為に少し上半身を起される。
彼はしばらく黙っていたが、意を決するように口を開いた。
「もう、君は守られているばかりじゃいられないだろうから…全部話すよ。」
いつも過保護に接してくれていた、それを取り払い話してくれるという。
ルナティスさんの目は、微笑みながらも真剣みを持っていた。
「グローリィは君がお姉さんを殺そうとするのを分かってたよ。」
口元に当てられたカップのお湯を、少し飲みこぼしてしまった。
どういうことだ、とルナティスさんの顔を見て問い詰めたかったが、口元にまたお湯を注がれているために飲むことに集中するしかない。
「君の行動がおかしいのに気づけば、すぐに予想ついたって。
だから、君を止めるべきかどうか悩んでた。
でも君が追い詰められた時に助ける準備は進めていたんだ。」
お湯を飲むと、体の傷にガーゼを被せられ毛布をかけられる。
痛くないか、と彼が聞いてくるが、そんなことよりも話の先が聞きたかった。
「君が彼女を暗殺してしまっても、できなくても、君を助ける方法は準備してあった。
僕も詳しくは聞いていないけれど、今彼がしていることは分かるよ。
まず、グローリィがXeglezzに掴まった…ここから作戦が始まる。
ここで生かしてもらえるか殺されるかは賭けだった。
けど、生かされて人質に取られることで、本家へ自分の身の危険を知らせることが出来る。
同時に、中でXeglezzの連中を味方につけることができればいい隠れ場になった。」
Xeglezzが味方についていた…!?
目を見開いて声にならずに言葉を紡ぐが、ルナティスさんには読み取れなかっただろう。
奴らが仲間だったなんて、そんなのは知らない。
奴らはグローリィに酷い仕打ちをした、八つ裂きにしても許せないようなことを…!!
「グローリィは『暗殺者に狙われてます』なんて公表できなかった。
そうすれば彼の人格や周りの関係を教会が疑ってきて、作戦に支障がでるから。
だから『監禁』という形で身代金を自分の身をXeglezzに差し出して『身柄を保護』してもらってたわけ。」
グローリィが奴らに虐げられ犯されていたのも、交渉の上だと。
信じられなかったが、思い当たることもある。
彼は奴らに酷い遭わされている時、俺に気づいていた。
それでも俺に『待て』と言った。
本当に奴らの人質になって虐げられていたのなら、あの場で耐えることなんてできないのが普通だ。
Xeglezzの話で、怒りが蘇り毛布の中で拳を握る。
怒りを抑えた、もう過ぎてしまったことだ…。
今はルナティスさんの話に集中しなければ。
「そして、GvG戦が始まる。Xeglezzを味方につければ、この中で身を守る方法はいくらでもあったと思う。
けれど、ジノ君が城内に忍び込んでいることにグローリィが気づき…ここで君が作戦に加えられて第2の賭けが始まった。」
ルナティスさんが理解できてる?と言いたげに見てくるのに頷いて返す。
誰かの気持ちとか、雑談を聞くのは何故か苦手だ。
だが何かの作戦を聞く、というのは昔からよくあったことなので慣れている。
ただ疑問なのは、グローリィが本当にこんなことを考えていたのかということ。
「賭けっていうのは、あの牢獄の中でグローリィがジノ君を裏切っても、君がまだ彼を守ろうと動いてくれるかどうか。」
___ そのアサシンが、今まで私を狙っていたんです!捕らえてください!!
裏切りとは、あの言葉のことだろう。
助けにきた俺を敵だと告げた…。
てっきり勘違いをしたんだろうと思っていた。
だがそれが作戦だったのだとしたら…
事実、俺を敵だと言いながらも彼はこうして助けにきた。
だからルナティスさんの言葉は真実なのだろう。
「君が捕まれば必ずこの教会の法廷に突き出される。
その場で君の潔白をグローリィが説明する…と、此処までが彼の仕組んだ舞台だ。
君が教会側から“暗殺者”と認識されないで済むような弁解も用意されてただろうな。
そしてグローリィは『なぜジノ君がお姉さんを殺そうとしたのか』の弁解をしなければいけなくなる…つまり、お姉さんの陰謀を彼が告発する場が出来る。」
ルナティスさんが一呼吸を置き、少し俯いて笑む。
それは自嘲に似ている。
「『ジノ君があのギルド攻城戦で戦い、そしてシスター・フローラを殺そうとしていた。それは全てグローリィを守るためだった。』
この事実がグローリィの武器になるんだよ。」
『どうして?』
「ジノ君には分かりにくい話だと思うけどね…ああゆう法廷っていうのは、罪があるないじゃなくて善人か悪人かで判断される。
つまり、結局は周りの人に“いい人”って思われたら勝ちなんだよ。
一人の少年が、つまりジノ君が善意でグローリィを慕って守ろうとした、その事実はグローリィの人柄の証明になる。
…だから僕もさっき、いらない芝居を騎士の子に打ってたんだよ。
ジノ君が暗殺者じゃなくて、善意ある冒険者のアサシン、っていう方が都合がいいから。」
ルナティスさんはそう言ってから「利用してごめんね」と小さく謝る。
彼が途中から俯きがちで申し訳無さそうにしている理由がやっと分かった。
皆、完全に俺に何も知らせず、俺を利用していたからだ。
「…君が思うほど、僕もグローリィもヒショウも…皆、優しくもいい人でもないんだよ。」
ルナティスさんは話は終わり、とばかりに頷いて俺の寝ているベッドの脇に腰掛けた。
「寒くない?」と聞いてくるが、そんなことはどうでもいい。
ただ俺は呆然としていた。
俺の混乱を分かっているのか、ルナティスさんがこちらを見て苦笑いしていた。
「僕らのこと、嫌いになった?」
そうじゃない。
それについては大きく首を横に振った。
嫌いになんかならない。
ルナティスさんが嬉しそうに笑って、頭を撫でてくる。
その感触は、いつものものと同じ。
例え利用されたのだとしても、今も前も彼らの温かさは変わらない。
ただ、俺がどうしても受け入れられないのは…
『本当に?』
「何が?今話したことに関しては、嘘はないよ。」
『…グローリィが、それを』
ルナティスさんが少し考えたが、意図を汲んでくれて、頷いてくる。
「そうだよ。全てはお姉さんとの因縁を切って、ジノを連れて逃げる為にしたこと。
これでも、グローリィがただ無力に暗殺者におびえてるだけだと思う?」
その言葉には、首を横に振るしかない。
この唖然とする現状をなんと言っていいか分からない。
「どうやって君のことを教会の人たちに弁解してるのか、お姉さんと法廷でどう戦ってるのかは分からない。
まあ、大方予想はつくんだけど…ここだけはグローリィにちゃんと聞いてね。多分、彼が自分で話したがると思うから。」
ともあれ、とルナティスさんは腕を天井に向けて伸びをした。
そして毛布の上から、俺の胸を軽く叩く。
「君の役目も、僕の役目もここまで。」
本当に、そうなんだろうか…
俺は、何もできていない気がする…
「きっかけさえあれば、グローリィも行動に移せた。
そのきっかけを、君が作ってくれた。
だからあとは、グローリィの仕事なんだよ。」
俺は、彼を守りたかったのに。
結局は守られてしまっただけなのか…。
「だから、グローリィが戻ってくるまでゆっくり休んでて。」
ルナティスさんが毛布の中に手を入れて、俺の手を握ってくる。
「グローリィ以外は誰も来ないように見張っておくから。僕がいたら休めないなら出て行くけど。」
「……。」
血の気が失せた手に、彼の手はとても温かかった。
振り払うべきなのかもしれなかったが…少し、心が弱まっていたのかもしれない。
握っていて温めていて欲しいと思い、彼の手を握り返してしまった。
そういえば、もう何日も眠っていなかった気がする。
自然と瞼が下りる。
グローリィに守られて初めて深く眠ったときのように、また深く、深く眠りに落ちていくのがわかった。
狭い渡り廊下を歩いていた。
歩調は落ち着いたもので、銀の髪も緩やかに揺れて時間がゆっくりと感じられるほどだった。
しかし、彼の進路に先に険しい顔をしたアサシンが立ちふさがっていた。
「……。」
言葉を発せず、ただ睨むだけで意思表示をする男。
その意図を汲んで、グローリィは笑った。
「お疲れ様でした、セツナさん。貴方のおかげもあってなんとか」
「礼など聞きたくない。」
その場で初めて言葉を発したセツナには明確な怒りがあった。
アサシン職とある程度関わりのあるグローリィにとって、彼は珍しいタイプだった。
義理堅く、かと思えばあっさりと物事を合理的に割り切る。
だが感情を比較的表に出し、また…
「ジノを餌にしたな。これが貴殿のやり方か。」
惚れこんだ相手のこととなると容赦がない。
「暗殺者の貴方が言うのも可笑しい話ですね。」
「…ジノは貴殿を信用していた、だから某も…」
「ジノがいいって言うならいいんじゃないですか?」
セツナの指摘を全く気にした様子もないグローリィ。
瞬間、彼の視線に殺気がこもった。
「私は」
グローリィはセツナの視線を受け流さなかった。
しっかりと真正面から受け止め、むしろ軽く睨み返すようにしていた。
「刃を持てない、血に濡れることもできない。」
「だからジノに全て押し付けるのか。」
「そのジノが、私に何もさせてくれないんですよ?」
その言葉で、セツナは理解して軽く目を見開いた。
目の前にいるプリーストが牙を出せずに燻る獣の様だと、思ったからだ。
それは無垢でありながらも殺人鬼になることを強いられたルァジノールを思い出させた。
「ジノの為に、私は何もできない振りをしてるしかない。
だから私はジノを傷つけながら彼と自分を守っていたんですよ。」
グローリィがセツナを微かに睨むのは、羨ましいからだ。
自分の持つ牙でジノを守れることへ。
グローリィも金や戦いでもってジノを守ることは出来た、だがそれをルァジノールは望まない。
だから彼は最後まで逃げ切る方を選んだ。
「だからとはいえ、想い人に毒を送れる精神は某には分からぬな。」
「自分で送れば解毒剤も用意できるでしょう。」
「それでも某には、理解できぬ。」
セツナは恋人は決して傷一つ付けない様にと守っていた。
そこには男としての誇りがある。
グローリィはそれをあざ笑うことなく、ただ苦笑いした。
「私は弱く卑怯で、貴方は強く優しい。全く違う人間だから、理解できる筈もないですよ。」
仲良くはなれないですね、と言い捨てながらグローリィが話を切り、廊下をすれ違って進もうとする。
互いに背を向け、セツナの間合いから離れた頃に彼は立ち止まった。
「セツナさんは優しいから、ジノに答えを任せたんでしょう。」
好きだと、逃がさないと言いながら、最後はジノの思うままにさせた。
彼の必死な願いを潰すことができなかったから。
「悪いですけど、私はどんなに卑怯な手を使っても、絶対にジノを逃がしませんから。」
互いに振り返り、お互いの顔を見た。
グローリィの笑顔に何か嫌な予感がした。
「…っ、…貴殿、まさか!!」
だがセツナが彼を止めようとする前に、グローリィは教会関係者以外立ち入り禁止の扉に走りこみ内側から鍵を掛けていた。
深い黒に近い青が、空と水面に映り、視界の全てか一色だった。
ここは深海だ。
何故かそう思った。
足の先は水に冷え切って感覚がない。
目の前にはずっと闘い続けていたアサシンがいる。
自分の恐怖の対象であり、親であった男。
自分の名前の一部を切り取り、俺にルァジノールという名前をつけた男。
その長く細い髪がこの深海の色の元にさえ見える。
二つの眼光は月と同じ色をしている。
「お前も所詮、捨て駒なんだ…生きて、何になる…」
彼はよくそう喚くが、その言葉の意味は自分にはよくわからなかった。
この男も、自分も、人を殺す存在でそれ以外の何でもない。
辛い、苦しい、そう喚きながら人を殺して殺して殺すだけが生きる意味。
「だがお前なら、生まれたときから血に塗れ続けたお前なら、純粋な暗殺者になれるのかもしれない。」
光る瞳を湛えた目が見開かれ、歯茎をむき出しにして男は笑う。
「そうか、これが俺が生きてきた意味か…!!お前みたいな悪魔を
生み出して育てることが…!!なあ!?ルァジノール!!」
この男の喚きは嫌いだ。
耳に、頭に鋭く響いて苛々する。
「さあ俺を殺していけ!!もうこんな腐った世界は凝りごりだ!!
お前が俺の名前を背負って悪魔になれ、そして最期には俺以上に醜く、汚くくたばれ!!!」
悪魔なんかじゃない。
俺もこんな世界はイヤだった。
だから男の言葉に耐え切れずに短剣を胸に突き刺した。
即死させなかったのは、この男がそんなことで死なない気がしたのと、殺したら俺がこいつに乗っ取られる気がしたから。
役立たずになった男の始末は何度もしたが、この男だけは怖くて、したくないと思った。
それでも、殺すしかないのだが。
「違う、よ…ルァジノール…」
突然、声がした。
どこから、と一瞬慌てたが、どう聞いてもさっきまで喚いていた男からだ。
さっきまでとはまるで別人の、どこか優しげな声。
「私は…光と、温かさが、欲しかった…その望みをお前に、託したかった。」
背中に手を回される。
普段なら反射的に払いのける、危険な体制だった。
だが何故か体が動かないのは、相手に殺気がなかったから。
そしてとても、温かかったから。
「お前は、悪魔なんかじゃ、ない…
私の名を、背負って、いつか私の代わりに…」
彼の体がずるりと滑り落ち、目の前に飛沫をあげて仰向けに倒れた。
姿が水面の向こうに沈み、揺れている。
水の浮力で浮いたのか、彼が差し出してきたのかは分からないが指先が一瞬水面から出て、しかし沈んでいった。
最期にどんな顔をしていたのか、俺には分からない。
最期に聞いた言葉がなんだったのか、理解しきれなかった。
――― 私の名を、背負って、いつか私の代わりに…
この男の名前は…なんと、言ったか…
自分をずっと暗い部屋に閉じ込めてきた。
時々部屋から引き出されては殴られ斬りつけられた。
短剣の扱いを教え込まれた。
人の殺し方を教え込まれた。
俺を育て、俺に憎悪しか教えてくれなかった男。
確か……
『……ジノールス』
「ジノ…?」
声がして目を開けると、視界いっぱいにグローリィの顔があった。
超至近距離で仰向けの俺を覗き込まれていたようだ。
「っ!!!!!!?!??」
反射的に突き飛ばしたり殴り飛ばさなかった自分を褒めたい。
目を丸くしたまま硬直していると、グローリィは顔を離してくれた。
「こうして瀕死の貴方を看病して見守るのも二度目ですね。」
さっきまでルナティスさんのいた位置にグローリィが座る。
いつも通りの穏やかな微笑みに、真っ直ぐ背中に堕ちる銀髪。
目に入るの彼の全てが、以前とは違って見えた。
「…っ…」
体を起した瞬間、グローリィが飛び掛るように抱きついてくる。
腰に腕を回し、胴体が密着するまで強く抱きしめられていた。
「本当に、無事で良かった…もう、貴方のあんな姿は絶対にみたくない…」
耳元に顔を埋めてくる彼の声は擦れていて、辛うじて聞き取れるくらいしかしなかった。
「腕…すぐに処置したから、回復はすると思いますが…目は瞼が切られただけだから、大丈夫だと思います。」
言われて思い出した。
切断された腕が痺れているものの感覚はあるので、大丈夫と頷いた。
大丈夫だと告げたのに彼はずっと抱きついたままでいた。
きっと酷く心配しただろうから、抵抗もせずにされるがままでいた。
1年前までは人に触れられることなんて殆どなかった。
皆よく近づいてきたり、頭を撫でたりしてくれて、いつの間にかこうして抱きしめられることもあるようになって…
警戒心はどうしても解けないが、段々と心地良いと思えるようになってきている。
「そうだ…これ。」
何分経ったか分からない。
そんな頃にやっとグローリィは離れて、ポケットから金みを帯びた金属製のカードを出してくる。
それは見慣れた、俺の冒険者証だった。
「もう、捨てちゃ駄目ですよ。私はセツナさんみたいにWIS無しで会話できませんからね。」
そう言いながら俺の手の中にしっかりと握らせてくる。
しかしそれを受け取るよりも、グローリィがセツナのことを知っているのに気を取られた。
いつの間に、彼とグローリィに接点があったのだろうか。
「…ん?」
じっと見上げてくる俺を怪訝そうに見返してきたグローリィだが、すぐに気づいて小さく頷いた。
「セツナさんが貴方を連れて行くのを、ヒショウが発見したんです。
そのあと必死に彼を探し回って見つけたんですが、よく話し合ったら貴方を助けるのに協力してくれました。」
一度は邪魔をしてきた彼だったが、最後は俺の願いを聞き入れてくれた。
彼にもいつかはちゃんと話しあいたい。
冒険者証を受け取り、握り締めた。
俺は…また元の生活に戻れるのだろうか。
冒険者証のスイッチを入れて、グローリィと向き合った。
『…終わった、のか…?』
グローリィが微笑む。
その微笑みはいつものものと変わらない。
「ええ。」
『どうやって…』
小さく頷くと、銀の髪が揺れて部屋の灯りに鈍く反射する。
今回の件で心も体も踏みにじられた筈なのに、何も変わっていなかった。
いや、違う
目が
「全て、捨ててきました。」
違う