Fragile Tower [脆き塔]

  2.興
嫌うというより、ただ悲しかった。


『オーウィルちゃんというのだがね、実に君が嫌いそうな感じであったのだよ。』

最近、ギルドにアルケミストが加わったという。
それを俺にWISで知らせたのは相方代わりのプリースト、ラト。

俺が嫌いそう…といわれても、特定の人間を嫌ったことがないのでどんな相手かさっぱりわからない。
だがラトは人間観察力に優れている。
それを楽しむためだけに生きているような妙な男だ。
そんな彼の意見をそう簡単に無視できなかった。

『とにかく、挨拶に帰ってきたまえ。』

それでも知り合いを呼び出してわざわざ狩りに連れてきたのだ、初めて少ししか経っていないのにこちらの都合でもう切り上げようとはいえず。
ギルドで借りている家に帰る頃には随分時間が経ってしまっていた。

「全くもう愚図ちゃんミゼルちゃんね!」

この男の妙な口調はノービス時代から変わらないので何も言わない。
ギルド内、いやおそらく彼の身内以外の冒険者では俺が一番付き合いが長いだろうに、それでも時々気持ち悪いと思う。

「オーウィルちゃんは部屋をラボにするって準備始めちゃったのだ。」
「ならば後日。」

「知っているかああ!!友達とどこか行こうね!とよく約束するがすぐに行動に移さないといつまでもその約束はズルズルのびていずれ忘れ去られるのだぞ!!」

…同じ家の中にいるわけで、嫌でも顔を合わせるのだから、挨拶をし忘れるなどないだろうに。


「お詫びにそこにあるオーウィルちゃんのお荷物を部屋に運び込むが良い。」
そう言い、山積みされた木箱を指差す。

木箱の隙間からガラス製の何かがたくさん見えている、おそらくアルケミストである彼の実験道具だろう。

「…疲れたのか。」

ラトに指摘すれば、彼は睨みつけてくる。
彼は法衣を腰に巻いて軍手をつけている、アルケミストの引越しを手伝ってやっていたのは一目で分かる。

「ミゼルちゃんにデスクワークのしすぎで腰痛を患った若者の苦しみが分かるものか!」

それはラト自身のことだ。
分かりたくもない。

「さっさと行動に移らねばミゼルちゃんの本名がミゼラブルちゃんだと言いふらすぞ!!本名が『孤独』だぞ!!亡きお母上の人格が疑われてしまうぞ!!」

本名はミゼラブルでもないし、母も亡くなっていない。
だがいちいち突っ込むと疲れるので何も言わずに木箱を運ぶことにした。

…なかなか重い。
これはあのラトの細腕には辛かっただろう。

「………臭い。」

思わず呟き眉をしかめてしまった。
ツンとした薬臭、人の脳や身体に影響する物質の臭い。
アサシンクロスをやっている自分には一般に“毒”と認定されているものではないことは臭いで分かる。

それでも、この臭いと臭いの元が手の中にあるのは不快だった。
それに製造者というのは誰しもデリケートなものだ、この機材や薬品全てが大切なものであるに違いない。
自分の命ともいえるものを他人に扱われるのは、快くはないだろう。

さっさと木箱をすべてアルケミストの部屋に押し込んで去りたくなった。


不意に、前方で部屋から人が出てきた。
箱のせいで視界が悪くても気配で分かったので端に廊下の避けた。

だが相手はよりによってボーっとしていたらしい、肩が強く木箱にぶつかった。
箱の中でガラス同士が強くぶつかる音がした。

「…あっあ…あの…」

ぶつかって初めてこちらの存在に気づいたようで、慌てる声がした。
謝ろうとするより早く避けて欲しかった。

「邪魔だ。」

薬の臭いか、他人の物を扱っていたせいか、自分で思うよりもピリピリしていたようだ。
そう言った声は少し強くなっていた。

青年はしばし固まって、その後バタバタと脇を通り抜けていった。

…見ない顔だった気がする。
風呂に向かおうとしていたらしくアンダーウェアだったから職は分からない。

新人のアルケミストだったのかもしれないが、俺はギルドメンバーの顔を殆ど覚えていない


部屋は留守で、薬の臭いだけが立ち込めていた。

「………。」

―――『実に君が嫌いそうな感じであったのだよ。』

ラトの言った意味が分かった。
ポーションもあまり好まぬくらい俺は薬というものが苦手だ。
薬として扱われるものは大抵、別の形では毒と扱われている。
毒を扱う職だからこそ、その実体をよく知っている。
だから好まない。

ここにこれだけの機材を積み込み、わずか半日で部屋にここまで薬の臭いを漂わせる。
そんなアルケミストは薬品を“作るだけ”の人間なのだろう。
自分が作品を作ることに魅入られて、実際にそれがいつどこでどう使われているか分かっていない。
そんなことに興味もない。

ただこの狭い部屋で新しい作品を作ることに没頭する。
知ってか知らずか、ただ薬品を生み出すだけの存在となっている。

決められた使い方がある薬品のように。
決められたような生き方をするのだろう。



アルケミストの名前は忘れた。
忘れたのは関わりたくないという思いから故意であったかもしれない。

食事以外は自然と、顔を合わすことも避けた。
予想通り、彼は四六時中薬品の臭いにまみれていたからだ。

けれど避けることに苦労はない。
彼は殆ど自分の部屋から出てこなかった。


予想は的中していた。
彼は人間より、薬品にしか興味を持てないタイプのようだった。
それを使うのは人間だというのに。




「オーウィルちゃんはいつか間違ったことをするかもしれにゃい」

まるで俺の心を読んだようにラトがいう。
声は真剣なのに口調がずれているが。

「それが心配だけど、口を出すのも面倒…なんて思っておる気がするのう。」

忠告が面倒なんじゃない。

「生き方は個人の自由だ。」

「だがしかし、オーウィルちゃんにとって薬品は恋人同然じゃないかね。
その恋人の実体も知らずにただその見た目に踊らされているということでは?」

ずっと扱っているのだ、実体は分かっているだろう。
知識としてなら、俺よりも。
ただ

「実感がないだろう。」
「あ、なるほど。彼の恋は盲目ということなのだね。」

どうでもいいのだが、いちいち恋人と言い換えて恋愛関係に例えられても分かりにくい。

「そんなオーウィルちゃんだがね」

笑いながらビシッと俺の背後を指差す。

「今しがた突進してきた禿ちゃんに誘拐されたぜ!」


ちなみに今はグラストヘイム古城に狩りにきていた。
後ろを見れば、そこに座っていたはずのアルケミストの姿がカートごとない。

『なんとか無事です…』

ギルドチャットで誘拐された彼の声がした。
彼の無事が確認されたと同時に、ラトから速度とブレス、ハイプリーストであるマスターからアスムプティオが掛けられた。
メンバー内で誰かが離れたとき、捜索するのは俺の役目だと
ラトがよく街中で迷子になるのを何度も捜索し慣れてしまったのが原因で、そう決め付けられた。



カプラサービスのギルドメンバーの位置探索でおおよその位置は分かる。
だがそこに着いても彼の姿がみあたらないのは、まだ身を隠しているからだろう。

『広場へ出て来い』

そう呼びかければ、崩れた壁と壁の間の細道から這い出てきた。
必死に逃げたのだろうか、被っていた頭巾は外れてクリーム色に近い淡い金髪が乱れていた。

だが怪我をしている様子はない。
していても回復剤のスペシャリストだ、自分で処置できるだろう。
安心してさっさと皆の元へ帰ろうとした。

「…あ、ミゼルさん、怪我して…っ!く、薬、薬…」

カートに上半身を突っ込むのではというほどカートの底にまで手を伸ばして、回復剤を探し始めた。
この程度でそんなものに頼っていたら身体の自己治癒能力が退化する。
無視して歩き出した。

「あ、ちょっと待って…!」

やはり、近くにいるだけで彼からは嫌な臭いがする。
本当に、嗅覚が鋭いと困るものだ。
自然と距離を置こうと足が速まった。

近くにいるだけで、何かしら薬品を注入されているような気分になる。
このアルケミストの作ったものは見たくない、使いたくない。


そう思った矢先のこと。

「っえい!」

ポーションピッチャー。
敵に遭遇し迎え撃っている最中に、彼からポーション瓶が投げつけられた。

反射的に避けようと思ったが、故意に避けたと分かっても、それで敵にポーションがかかっても不毛。
仕方なくそれを受けた。

降りかかった赤い液体が肌に溶けて染み入る。

…赤い液体?
赤ポーション…ではない。
これは一体…。

疑問に思いながらも戦っていた。
だが突然、ポーションを浴びたはずなのに直らなかった傷口から、熱がはしった。

「…っ…」

血管内を何かが走っているような感覚。
その感覚に追い立てられるように、身体が勝手に躍動する。
…これは、バーサークポーションか。

「っっ!!ご、ごめんなさい!!!」

俺が異常に気づいた頃、アルケミストも自分の犯した失態に気づいたらしい。
こちらに頭を下げているが、いつ背後や脇から襲い掛かられるかも分からない狩場で油断するなと心中で怒鳴った。



「……行くぞ。」

文句を言うよりも今はこのアルケミストを皆の元へ先導することが最優先。
それに毒に対して最低限の免疫もある、死ぬことはないだろう。



……前言撤回。
あれはただのバーサークポーションではなかったのか。
死ぬ。



「……っ…」

血が沸騰するように熱い。
それなのに肌は凍りついたように冷たい。
そのせいで身体が硬直し、動かない。
指先から、腐って崩れ落ちていきそうだ。

「ぅ…」

視界がぼやけて、意識も薄れていく。
ラトに、報告だけでもしておくか。

いや、これから死ぬと言ったところで何になる。
皆には後始末を押し付けるようだが、死ぬならこのまま逝こう。
冒険者になった時点で、いつ死んでも大丈夫なように身の回りと心の整理もしておいた。

ただ、仲間に劇薬をかけられて死ぬ、などと呆気ない死に方をするとは思わなかったが。





「みーちゃん」
「ふざけるな」
「ミゼルちゃん」

青いクセっ毛のアコライトが涙目にして、こちらのシーフジャケットを引っ張ってくる。

「今夜、私をミゼルちゃんさんのプライベートルームで共に寝かせておくれでないかい」
「断る」
「じゃあ見るだけ!」
「断る」

一緒に寝かせろ、その一言ですむことを何故いちいち引き伸ばすのか。
そのよくわからない口調に何の意味があるのか。

「親睦を深めた私達、より深く分かり合う為にそろそろお部屋の見せ合いしても良いと思うの!」
「部屋を見せる必要はない」

どっちもどっちな言い分だと思うが。

「ミゼルちゃん、ご趣味は?」
「察しろ」
「好きな食べ物は?」
「察しろ」
「好きな女の子のタイプはボインちゃんですか?ペチャパイですか?」
「察しろ」
「この貧乳好きめ!!」
「答えてないだろうが」

俺がまともな答えを返さないので諦めたらしく、ラトはそれから何も聞かなくなった。

別にラトを嫌ってるわけじゃない、習慣のせいだ。
我が家は代々各組織で隠密役を請け負ってきた。
今では廃業になったが、その風習は自然と受け継がれている。

手の内、心の内を悟られない。
常に警戒心を怠らない。
細かい決まりがいろいろとあるが、大まかにまとめるとそんなものだ。
そして日常で支障をきたすような習慣はそんなにないが、敢えて挙げるならば
自分の領域に踏み込まれないようにすることか。

私情、家族のことも話さない、悟られない。
部屋や休憩姿も一切見せない。
私情を死守することが幼い頃から刷り込まれた習慣。

祖父も祖母も父も母も、明るい方で自分を押し隠す様子などないが、それでも確かに俺は彼らのことを何も知らない。
俺は未熟で、彼らのように自然に隠すことはできないから、自然と口数も少なくなり、他人への警戒心も強くなった。

だが、人を嫌いなわけではない。
ラトを嫌っているわけではない。

「…内面に踏み込まなければ、人との繋がりは保てないものか…?」

頬を膨らませていたラトにそう言うと、彼は頬内の空気を吹き出した。

「いいえー?僕はちゃんとミゼルちゃんのことはゆっくり自分で察していきますよ?
でもね『察していくのも面倒くさい』 『教えてくれないのは嫌われてるから』なんて思う人もきっといるわけですよ?広くて浅い人間関係築きにくいですよ?」

…広くて浅いと自分でいうあたり、それが本当にいいと思ってるわけではないだろう。
かといって狭くて深いのがいいというわけでもない、答えなんてない。
俺がそう思っていることも、多分こいつは分かっている。

「…お前の方こそ、分かりにくい。」
「計り知れない将来有望なアコライト君だと言ってくれたまえ!」

ああ、本当に計り知れない奴だった。
冒険者レベル99を目前にして、廃よりも新鮮な恋人が欲しいと言い出してまたノービスからやり直す。
かと言えば2回もノービスをやったのだから3回もやりたくないと言い転生しない。
そんなわけの分からない奴だった。

だが一番俺を分かっていた人間だ。
いつか友人として、家の風習など関係なく付き合えたらと、心のどこかで思っていた。



それなのに、自室の中に突然他人の気配がした。
ものすごく珍しく、少しばかり昔の夢を見ていたようだ。
だが寝ていても部屋の近くに誰かがくれば自然と眼が覚める。
眠るというよりも気絶していたのだろう。

「っ!」

咄嗟に侵入者の腕を掴んだら、驚いて硬直した。
辛うじて意識のあるうちに、部屋に入ろうとした剣士を撃退した記憶がある。
また彼かと思ったが、今俺が腕を掴んでいる相手は別人だった。

俺に劇薬をかけたアルケミストだった。

「…その、大丈夫です、から。」

何が大丈夫だというのか。


「ちょっと、失礼します。」

ベッド脇に座った、彼は俺の首筋に手を当ててきた。
彼が部屋にいる時点で全身の毛が逆立つ思いなのだ。

突き飛ばすべきか、悩んだがそうしなかった。
身体がまだ上手く動かせない、動かすだけで熱にやられる。
それだけでなく、このアルケミストがあまりにおびえた表情をしていたことが強い。
勝手に部屋に入ってきたくせに。

「…ショック症状とかは、ないみたいですね。
薬を過剰摂取したような状態で…
…少し、幻覚症状とか…あるかもしれないです。
おかしなものが見えても、異様な声が聞こえても、幻覚ですから。
あ!この僕の声は幻覚じゃ、ないですよ!」

確かに、視界がぐにゃぐにゃゆれていてアルケミストの顔がしっかり認識できない。
この青年だけしか部屋に気配はないのに、一瞬その背後に写る影や部屋のものが動き回る人間のように見えたりする。
だがこのアルケミストだた一人が本物だと判断できるくらいには思考はマトモに働いている。


「…気休めだけど、これ持っていてください。ぎゅっと握りしめていて。」

四角く畳まれたハンカチが渡された。
飲むだけでなく香りにも沈静効果のあるハーブが中に入っているのだと分かった.

自然にあるままの薬草は異質な香りではないので、下手な薬よりよほど効く。

なんだ、このアルケミストはちゃんと人間を診ることができる、気遣うことができるのではないか。
そう思えて少し安心した。
なんでもかんでも薬に頼って、それで解決するようなタイプだと思っていた。


「これから急いで薬調合してきますから。少し待っていてください。」

前言撤回。
…やはり薬か。

止める間もなく彼は部屋から出て行ってしまった。







誰もいなくなって油断し、しばし昏倒していた。
だが誰かに肩を掴まれて、顔に触られて眼が覚めた。

「……。」

それでも意識も視力も回復しない。
身体も軽く痙攣している。
どうやら体調不良には波があるようで、先に少し悪化していたようだ。


「…っ…」

顔を持ち上げられ、髪を撫でるように頭を支えられる。
そして唇を柔らかいものでふさがれる。
触れられることには慣れていない…だが不思議と悪くない心地。
熱にやられたせいで、頬に添えられた冷たい手や唇に当たるものが熱を冷ましてくれるように思えているからだろう。

不意に口内に水が流れ込んでくる。
思いつく限りの薬草を混ぜ込んだような薬品の強い臭い。
これは、あのアルケミストの。

そして目の前にアルケミストの顔らしき影が浮かび上がった。

「…っ、ぐ!」

驚きに眼を見張り、咄嗟に目の前のものを突き飛ばした。
そのせいで噎せて、布団に蹲り咳き込んだ。

「……っ、っ…!」

俺は今、何をされた…!?

触れられることさえ、習慣で警戒していたのに。
口移しで水を飲まされていたのだ。
信じられない。
この男の神経が分からない。

「ごめんなさい、上手く飲ませられなくて…。」

だが俺の心など知らずに申し訳なさそうにガラス製器具をいじっている。
どうしようもなく睨み付けたい、怒鳴りつけたい、だがそんな感情を表すことができなかった。
こんなときでさえ、自分で自分を制御してしまう。

「解熱剤、すぐに持ってきますから、いったん部屋に戻りますね。」


今飲ませた水も薬水ではなかったのか。
これ以上俺に薬を盛り続けるつもりなのか。

「…アル、ケ…ミスト…」

無我夢中で彼の腕を掴んだ。

「ここに、いろ…」

行かせてなるものか。

こうなったそもそもの原因はお前が俺に使った薬なんだ。
これ以上使いまくって俺を殺す気か。
そうはさせない。

「でも、薬が…」
「要らん」

むしろ持ってきたら俺は生まれて初めて他人を殴りとばすことになる。
そう心で言って、強く彼の腕を掴んだ。


彼は諦めたようで、そっとベッドの脇に膝をついた。



「……あ、鎮静剤は持ってきたので、飲んでください。
できれば解熱剤の方を飲ませたかったんですが、まだできていないので。」

鎮静剤…。
この男、塩を砂糖で相殺できると思っているのではあるまいか。

だがもう彼を止めるだけの言い訳や説教を口にする力もない。
諦めてその鎮静剤だけ飲んで、以降はやめさせようと思った。

そんな矢先に、また口移しをしようとガラス器から薬品を口に含むアルケミストに気付いた。

「……普通に、飲ませろ…」

流石にそれは勘弁して欲しいものだ。

薬は頭痛がするような、殺人的な味がした。







「……。」

確かに彼の薬は効いた。
だがそれは決して良い意味ではない。

俺を安らかに永遠の眠りにつかせるような、そんな薬だ。

頭の中が白く覆われていく。
穏やかな光の中で走馬灯が駆け巡る心地だった。

何よりも手にしていたハーブの香りが身体に染みてきたせいか
一番頭に浮かんだのは、家族やラトではなく
先程部屋を追い出した相手だった。

名前を…なんと言ったか。

「……オー、ウィル…」

まるでダイイングメッセージのように呟いた。
そして彼の姿が瞼の裏に浮かび上がると、連鎖して口移しされたときの唇の柔らかさが思い出される。
無意識に自分の唇に指で触れる。

そこで意識が途切れた。






水が、舞っていた。
シャボン玉のようにふわふわと中を漂う。
だがそれは確かに水だった。

美しいエメラルドグリーンをした水。
美しいけれど、それは毒だとなんとなく察した。

自分はこの水を知っている。
これは毒であり、羊水でもあった。
この水に育まれて育った。

だから自分の身体はきっと毒そのもの。
それなのに毒が嫌いとは、おかしなものだ。
ある意味これも同族嫌悪というのだろうか。

『…だして…』


甲高く弱々しい子供の声がした。
漂う水の玉の中のひとつから。
その声に触発されて、他の玉にいる子供達もわめきだした。

『だして…ここから、だして…』
『だしてぇ…だして…』
『いやだ…だして…』
『だして…やめて…』

口にする言葉は「出して」だけ。
誰の名前も呼ばない。
呼ぶ名前など、知らないのだから。

ただ目の前にいる者に出してくれと懇願するしかない。
しかし子供達の目の前には誰もいない。


いや、いる。
この目線の主、つまり自分だ。
だがどうやって出してやればいいのか分からない。
それに自分はこの子達はこの水を嫌いながらも、これがなければ生きていけないことを知っている。
出してやることはできないのだ。
この子達の為にも。

唇を噛み、耐えていた。
だが不意にすぐ近くの水玉が割れて、崩れ落ちた。
床がないのでただ遥か下まで水は落ちていく。

そこには水玉が消えて子供だけが取り残されている。

「…お前も“生き残った”のか。」

そう呼びかけて、子供に歩み寄った。
子供は母胎にいる時と同じ蹲ったような格好のままでいたが、人が近づいてくるのが分かると顔を上げた。

「……お、前は…」

その子供の顔に、絶句した。







「うぐぉあ!!」

自分でも信じられないほど素っ頓狂な声を発して飛び起きてしまった。
そしてあれが夢であったと自覚すると、思い切りホッと息をつき、そのまま蹲って脱力した。

夢が覚めてみれば冷静に、あの夢の意味を思い出せる。
あの水の中にいたのは自分だ。
客観的に見ているような夢だったが、現実であの中にいたのは自分だった。

だからと言って、それを中途半端に反映したあの夢は悪夢と化していた。

「ミゼルちゃんの珍しいところ見てしまったのだよ。」

脇から聞きなれた声。
心臓はまだあの悪夢の恐怖に動いていて、ラトが寝ている間に隣にいたということにはさして反応しなかった。

「そんなにうなされてはいなかったのだがね、悪い夢でもみたようだな。」
「……ああ。」
「一体どんな。」

思い出すと背筋に寒気がはしる。

「俺が、微笑んでいた。」

あの子供の身体、しかし顔は俺だった。
よりによって現在の、大人の顔だった。
そして自分でも想像できないほどに不気味に微笑んでいた。
…いかん、言葉にして思い出したら吐き気がしてきた。

「ミゼルちゃんの微笑み、それは確かにゲフェンダンジョンのナイトメアも泣いてバックステップするに違いないのね。」

悪夢だけに、と満ち足りた表情で言うラトは、俺の感じた恐怖の一摘みも理解していないに違いない。
とりあえず、悪夢は忘れよう。
そもそも幼少時代より夢など殆ど見ていなかったのに、こんな目にあったのはアルケミストの作った鎮静剤のせいだ。

一生分の睡眠をとってしまったように身体がだるいながらも視界は晴れわたっている。
九死に一生、あの昏睡状態から奇跡の生還をしたことようだ。

「ミゼルちゃんや、昨日何があったのかね。」


窮地を乗り越えた喜びのせいだろうか。
いつもの俺なら何も話さなかっただろうが、つい多弁にラトに愚痴まがいに詳細を説明した。





「…っ本当にごめんなさい!」

俺におきた症状を知り、自分が処方を誤っていたことを、アルケミストは知った。
そしてテーブルに額が着きそうなほど頭を下げてきた。
…事実、前髪が朝食のパンにかかっている。
謝罪など良いから、周りの状況を見ろと思う。

だが少し彼の様子を見て、誤りはあったが気遣ってくれた気持ちは本物であると確認できた。
あの朦朧とした意識の中では、どうしても彼が俺を暗殺しようとしているようにしか思えなかったからだ。
いくら俺がアサシンといえど、それは冒険者としての職業。
それを暗殺される謂われはない。

「好意には感謝する、精進しろ。」

そういうと、彼は顔をあげて涙を溜めていた瞳をむけてきた。
何事も技術・努力・経験が揃ってなければ生かすことはできない。
彼に足りないのは経験だろう。
だから精進すればいいだけのことだ。

むしろさっさと精進しろ。
そして俺に…いや、誰も犠牲にせずに済むようになれ。
そう心で説くというより祈るような心地で思った。

「……はいっ…」

力強く彼は答えた。

俺はアサシン。
持つのは隠密としての技術程度。
未来に何か重いものを抱えているわけでもない。

だがこのアルケミストは抱えているのだ。
自覚のない本人より、それを持たない他人の俺だからこそ分かる。
彼の失敗を責めはしない、する権利もない。

ただ、彼が諸刃の薬でいるままではなく
誰かを救う薬となれるように願うのみだ。



「あの、今度はちゃんとした薬作りますから!何かあったら言っ」
「要らん」



それでも、俺自身は絶対に彼の薬の世話になどなるまい。
ましてや看病も、そして部屋にも入れない、肌にも触れさせない。
そう強く誓った。



だが興味があった。
今ギルドにいるメンバーとは違い、まだ未発達、未完成ながらも重い道を歩もうとする青年の末。
彼はどこへ辿り着くのか。