部屋の外の明かりを背にした男の影が、まるで死刑執行の為の黒布のように顔に被さってくる。
このままこの首を掻き切ってはくれないか。
だが断罪の期待も空しく、彼は労るようにこの手枷の掛かった手を取り、立ち上がる手伝いをしてくれるだけ。
「希望を捨てないで。貴方は誰より信心深く清い方だった。裁かれる筈がない…。」
優しい言葉、しかし耳に入っても心には何の波紋も浮かばない。
三流の詩人の落書き程にも滑稽で無意味な優しい言葉。
もう自分は人の優しさにも感謝できないほどに堕落した。
早く、終わればいい。
ただそれだけを願い、暗い部屋を出て劇場のような裁判所に向かう。
そこで行われるべきは堕落した男を断罪するショー。
悪魔のようなその男は死の宣告を受け、彼に捕われていた聖女は正義の審判に救い出される。
自分が死に絶える役なのだとしても、そんなショーの終幕を願ってやまない。
だが
『――の今迄の勤めには非の打ち所がない。拘留中も真摯に主への祈りを捧げ続けていたという。
そもそも彼に本当に罪があったのかは少々怪しいところがある。
確定出来ない罪によって彼ほどの人を失うのは惜しい。
彼が何度も自分の有罪を訴えるのは、被害者――を無実として救いたいが為です。』
冷たい真っ白いだけの部屋。
本当に白いのか、感覚が狂った自分に白く見えるだけなのか、もうわからない。
そこに響く、自分を守ろうとしてくれる人の言葉。
慕ってくれた後輩が、同僚が、上司が、口を揃えて私の無罪を訴える。
『“彼女”はその男に汚された!その男は浅ましい感情を持ち彼女へ近付いた。
大司教様の側に仕えることになる素晴らしい女性だったのに!
平民出の汚らわしいその男が彼女の純潔も血も汚したのだ!』
彼女を守ろうとする人の言葉は感情的で脈絡もない。
それは裁判官の心に届かず虚しく響くだけだった。
何より『証拠』がないのだ、でなければいくら必死になろうと説得力がない負け犬の遠吠えにも等しい。
「やめて下さい…」
弱々しい彼女の声が、腕が自分を弁護する男の背中にしがみつく。
恐らく、身内なのだろう。
「私は邪淫の罪を犯しました。彼を誘ったのは私です。
けれど彼は私の誘いには乗っていないのです。」
「嘘だ…私が逃げる彼女を襲った。
清くなければならない彼女に良からぬ感情を持ち、好奇心で言い寄りました!
けれど彼女は逃げ出した、汚れてなどいない…!」
今度は彼女と自分の言葉がぶつかりあう。
彼女は私の無実を訴え、私は彼女の無実を訴える。
本当は…ここにある何もかもが嘘だ。
だが私を生かすか、彼女を生かすか、目的の為に皆が皆自分の言葉を真実にしようと必死なのだ。
『…っ、ならば!証拠を提示しよう!!』
不意に、彼女の弁護人が声をあらげた。
それに反応して彼女が「やめて!」と叫んだ。
必死な彼女を突き放し、男はこの会場の隅に万遍なく広がる声で告げた。
『彼女は身篭っている!その悪魔の子供を!
その男に襲われ、孕ませられたという何よりの証拠だ!!!』
痺れを切らして口にした、その男の言葉はその場にいるものに、私の心に、大きな衝撃を与えた。
だが……
私はその時何故か冷静にこの状況を判断した。
彼が告げた真実は、この場にいる誰のことも救わない。
彼女を、救う為には…
無理だ、彼女が本当に孕んでいたら彼女の純潔は嘯けない。
それは彼女のプリーストとしての未来を暗くするしかない。
せめて………
「そうだ…私は彼女を汚した。
泣き拒む彼女を拘束し、犯した。
その姿、今でも思い出すだけで心が高鳴る…!
私はもう堕落した!いや、遥か昔から私はこんな人間だった…!」
せめて、彼女を完全なる被害者とする。
誰も私を庇おうなどとは思わないように!
笑った。
涙を堪えて、とにかく愉快そうに。
だが私は不器用で、そんな真似は上手く出来ずにいびつに顔を歪めただけだった。
そして彼女の声を、姿を見れなかった。
きっと、その笑いは私が壊れる合図。
断末魔の叫び………
『大司教の傍に仕えることは許さない。』
『だが彼女は被害者…慈悲を!彼女はまだ神の子である…!』
二人の立場がはっきりすれば、二ヶ月も滞った審判は滑稽な程簡単に決まっていく。
『もう二ヶ月め…すぐに、彼女の子供を潰しなさい。』
「いやあああああ!!!!殺さないで!!!!」
その言葉が下された時、彼女は泣き叫んだ。
「この子は私の子…、一つの命です…!!奪わないで…!!!!」
身体の中を荒らされ、身体の中で殺人が行われる。
女性にとって彼女にとってそれがどんな恐怖か、私に分かる筈もなかった。
わからないから想像し、恐ろしく思えた。
孕んでいた事実が招く結末を。
だがどうしようもない。
まさか子供を宿してしまったと、気付かなかった、知らなかった。
何もかも、自分のせいなのに、何も出来ない。
「この子は立派な聖者の子です…!あなた方も今目の前にしたでしょう、彼の自己犠牲を!?
私の為に自分をどこまでも貶めて庇おうとする姿を!
お願いです…彼に、この子に、慈悲を…!!」
彼女はもう既に“母”の顔をしていた、自分の中に宿る命の為に泣きはらし懇願した。
愛しい彼女を救うことはもう、出来ない。
優しい人…貴女が私の子供を慈悲で産んでくれるのだったとしても、私はもう、その子供すらも救えない。
罪もないのに断罪される愛しい女性の悲鳴を聞きながら
怨んだ
呪った
私達を嵌めた同僚達を
彼女が身篭ったことを暴露した男も
彼女を断罪した者達を
何より、自分自身を……
「ひ…ぎっ…」
送られた処刑場はプリーストではなく他の職業のギルド。
恐らく、ブラックスミスだろう。
彼らは狂人である私に断罪の剣を落とすのも汚らわしいと匙を投げたのだ。
処刑台はただの木のテーブルだった。
両手を杭で打たれて俯せにさせられた。
「ッガ、アアアアアア!!!!」
背中の肉を刔られる。
鉄細工の型のように作られた凹みに鉄か、鉛か、熔解して液体となった金属が流し込まれる。
悲鳴を上げて喉から出血することがあるとは知らなかった。
吐き気を催す異臭が人間の肉が焼ける臭いとしばらく気付かなかった。
灼熱が背を焼き、それでも熱は血を伝わり全身を駆け巡る。
熱を蒸散させたいと体中で汗が玉を結ぶ。
ここへ来る前に過剰に水を飲ませられたおかげで脱水症状で昏倒したが死は免れた。
あの水の理由がやっとわかった。
5分も経っていなかっただろうが、全身の水分が抜け切ってしまったかと思うほど、酷く汗をかいていた。
血肉は固まり鉄は熱を失い、ただ激痛と重さだけが残る。
しばらく息が出来なかった。
『平民出の出来損ないが、才もないくせにしゃしゃり出てくるからだ』
怯えたような震える声が頭上からした。
『あの女といい、いい気味だ!』
傷ついてもいないくせに…いや、彼らが傷付いたのはプライドか。
まるで友の仇を討ったかのような荒い声。
ずっと閉じていた目を開けると汗が目に入ってぼやけた。
部屋の隅で吐いている同僚が見えた。
この人肉の焼ける臭いにあてられたのだろう、私も胃にものがあったら吐いていた。
皆、ただ自分の地位とプライドを守りたかったから私達を陥れた。
だがずっと裁判には顔を出していたのを知っている。
怯えたような祈るような顔をしていたのを知っている。
こうなるとは思っていなかったのだろう。
私達がプリーストの資格を剥奪されることしか望んでいなかったに違いない。
だがただ剥奪で済まされるには、彼女は立場が強すぎ、私は上層に気に入られすぎた。
きっと私も彼女も“贖罪”を済ましプリーストとして再起させられる。
上は、どうにか私達をプリーストに戻したがっている。
『当然の報いだ…!』
彼らが恐れるのは私ではない、自分の行いを悔やんで壊れてしまうこと。
だから必死に自分のしたことを正当化しているのだ。
憎い、だが同時に憐れだった。
『こいつも男として終わりにしてやったらどうだ?二度とあんな汚らわしい真似が出来ないように。あの女みたいに。』
だが…
『あの女も、子供を子袋ごと潰した。大司教には嫁げない、もうおしまいだな。』
その言葉が私のなけなしの良心を、そこからくる彼らへの同情を掻き消した。
そして完全な憎悪で塗り替えた。
少し前に獄中で面倒をみてくれた同僚が、彼女の安否を伝えてくれた。
彼は彼女は拷問も無く子供をおろさせられただけだと教えてくれたのに。
いつぞやに、良い母になる夢を語ってくれた彼女の言葉がリフレクションする。
そして頭が覚醒していくのを感じる。
だが視界は白く塗り潰されていく。
「……っ、あ、あああああ!!!」
怨んだ
更に深く
深く
そして何もかもを呪う
神さえ呪う
何故彼女の未来から夢を奪ったのか。
罪なき彼女から何もかも奪ったこの私自身とこの男達と、それを許した神と。
今私が許せる者など、この世に一切いなかった。
獣のように咆哮した
言葉を紡ぐ口などなかった
ただ怒りと怨みを誰にともなく
いや、誰もかもに向かって叫び続けた。
だがそれに飲まれまいと、プリーストは唇を噛み締めてこちらを睨みつける。
そして火掻き棒を掴み、モンスターを相手にするようににじり寄ってくる。
『まるで畜生だな!!貴様のような奴は十字架に触れる資格もない!!』
そして背に埋まった鉄の十字架を、火掻き棒で引き剥がそうとしている。
バリバリと嫌な音を立てて固まった肉が引き剥がされる、焼かれで定着していた傷がさらに一層剥がされ再び出血する。
部屋の隅で吐いていたプリーストが、悲鳴を上げて床に蹲るのを見ながら
私は再び喉から血を迸らせながら叫んだ。
身体は痙攣し、意に反して木のテーブルをガタガタと揺らした。
硬く目を閉じた、でなければ眼球が落ちそうだった。
もう、悲鳴も咆哮も関係がなかった。
ただそれは確かに何かの断末魔の叫びであった。
ブラザー・ というプリーストが死に、瞋恚と憎悪の化身のような男の産声であった。
二週間前に起きたことと、現状を追求されるままに詳しく説明し終える。
そんでもって話が終わったから自然とそこに沈黙が降りてくる。
それに押し込められるように俺の気分も沈んでいく。
「ぶふっ」
事情説明して真剣にツチナワについて相談していたのに、目の前で深刻な俺をよそに吹き出すプリースト。
沈んでいた俺の気分は一気に引き起こされ、そんでもってその辺の窓から全力投球で投げ捨てられた気がした。
つまり、怒りも忘れてポカーンとした。
「……んで、笑うんだよ。」
「いえいえ、あれだけ強く結ばれた二人だと思ったのに簡単にすれ違うなんて
人間って本当に自分のことも他人のことも見えてない鈍い動物なんだな〜って思っただけです。」
なんかさらりとすごく失礼なこと言わなかったか?この男。
いや、元々そうゆうやつだってわかってたけど。
なんで俺、こんな奴に相談しちゃったんだろ…。
たまたまこいつが目の前にいて、たまたま相談しやすいような喫茶店につれてこられて、たまたまツチナワとはどうだとか聞いてきたからです。
そんな自問自答して、俺はため息をついた。
「ねえねえ、ルア君?」
「はい、なんでございましょーか」
「ちょっと椅子をテーブルに寄せて、もっとこっちに身を乗り出してくれますか?」
「ん?なんでだよ。」
聞きながらも一応従っておく。
ちょっと回りに聞かれたくない話だから、と言いながら彼も俺の方に身を乗り出してくる。
お互い顔を少し近づける。
「私のこと、どう思います?」
目の前にある顔を見てみる。
化粧してるわけでもないのに白い肌、プラチナの長い睫、色の良い薄い唇。
人形師が見本にして作りそうな整った顔立ち。
ほんの少し着飾って街中を歩けば男も女も振り返りそうな、そんな中世的な美男子。
初めて見たとき、一瞬見惚れた。
場合が場合じゃなかったら、あともっと優しくされたことがあったら、ちょっと惚れかけたかもしれない。
「…顔はいい。」
「ありがとう。」
「性格は、最悪。」
「ありがとう。」
「そこで礼を言うな!」
プリーストはにこにこしたままだ。
「あのね、ルア君。私は結構君のこと気に入ってるんですよ。」
「ほー?」
「あのツチナワを救ってくれた、君は強い人です。
それに今もこうして彼の為に悩んでくれているでしょう。」
「…随分、ツチナワのこと心配してたんだな。」
「そりゃそうですよ。私が子供のときから彼は我が家の護衛で、よく私のことも守ってくれました。」
「…そんなにアンタの家、危ない目に遭ってたのか?」
「いえ、私が毒花の園に突っ込んだり針葉樹のてっぺんまで登ったりしていたので。」
おい!
「でも、今はちょっとあの人が嫌いですよ…。
君に救われておきながら、君のことを置いて心配させている。
いい歳して物分りがない子供みたいな男ですね、あいつは。」
「…お前に、アイツの何がわかるんだよ…」
こいつの方がツチナワのこと、過去も知ってるし長い時間近くにいたに決まってる。
でも、やっぱ好きな人のことを悪く言われるといい気はしなくて…。
至近距離で睨みつける俺にたいして、彼は一瞬きょとんとしたがでも相変わらずのにっこり顔をした。
「ほら、それでいて君はこんなに優しい。彼に悩まされているのに、少し悪口言われるとすぐに彼を庇って。」
「っ……」
なんか…してやられた気がする。
さっきから褒められまくってるのとさらりとそんなこと言えるこいつが恥ずかしくて顔が赤くなった。
ていうか、さっきからなんで俺らはこう顔が近いんだ?
「ねえ、ルア君?」
「なんだよっ」
プリーストは顔をずらして、俺の耳元に唇を寄せた。
「犯して良い?」
同一人物とは思えないほどの美低音ボイスで囁かれて、心臓が逆流するかと思った。
そして反射的に俺は逃げようとしたけど、いつの間にか両腕をがっちり掴まれて、足もテーブルの下で絡め取られていた。
そんでもって目の前の綺麗な顔は、いつもみたいに笑ってる筈なのになんか妖しい。
「…っちょ!な、何!?なにこの完全拘束…!!」
「大丈夫ですよ、私は痛くしませんから。」
「何の話ですかそれは!というか今既に痛い…!足の関節外れる…!」
俺は涙目で、せめてもの抵抗にと顔をぶんぶんと左右に振った。
ああああああっ、助けてツチナワァァアアア!!!
俺犯されるー!!このままだと犯されるー!!
「冗談ですよ。」
「……ん?」
「ね、結構怖いでしょう。」
「……へ?」
涙目になったまま恐る恐るプリーストを見ると、さっきまでの妖しさはなくなっていた。
そして拘束も解かれて顔も離れた。
「油断してるところにいきなり『犯したい』なんていわれたら怖いでしょう、って話ですよ。」
「………いや、そう言ったとは言ってない。なんて言ったのか覚えてない。」
「でも呆けた頭で犯したいと思いながら何か言ったなら『犯したい』って言ったに決まってるでしょう。」
いや、そりゃそうだが…!!!
だってそんなこと言ったら俺、超外道な気がする!!
いやしかしあの時確かにそう思ってしまったから完全否定はできない。
「考えてもみなさい。今はアサシン系とはいえ彼も一応元は教会のプリーストですよ。
性的な行為、男同士、しかも自分が抱かれる側、何もかも元は禁止事項で、彼なりに勇気がいることなんですよ。
自分より10近く下のひよっこに言われても怖いに決まってますよ。
それはまあ、罰を受けた理由があれですけどね。」
「……。」
それは、納得だ。
それに、罰を受けた理由で思い出した。
むしろセックスってあいつにとってはトラウマなんじゃないか?
たった一度、多分初めて、陥れられて薬使われて好きな人として。
でもそれで教会で裁判にかけられて、何もかも奪われて。
俺はそこまで…考えてなかった。
ただあいつも男だし俺すごい年下だし若干抵抗はあるだろう、ってそれくらいだと思ってた。
「解決策、多分今のでいいんじゃないですか?」
「今の?」
「『冗談だ』って言ってあげるんですよ。それが本当にせよ嘘にせよ、ツチナワ自身の身の安全は確保されます。
それに、もし君の感情を知って幻滅したのだとしたら、『あれは冗談だったんだ』って自分に言い聞かせて君を信じ続けることもできる。」
「それって、すごい無理矢理じゃないか?」
「人を信じるってそんなものでしょう。」
この男…ひねくれてる…。
でも、話を聞くとそうかな、とも思う。
うーん腐っても神父、相談役は得意らしい。
「さて、じゃあ意外と近い蜘蛛の巣に蛇が掛かったようですし、私は帰ります。」
「は?蜘蛛の巣に蛇?なんの話だ?」
「幸せな貴方が腹立たしいので、ここの勘定は任せますよ。」
「っておい!だから何の話だよ!」
よりによって彼はワープポータルを使って逃げるようにどこかへ消えた。
……くそっ、俺もハエの羽つかって逃げてしまいたい。
金はあるが、なんか払わされるのは理不尽だ…!
あ、室内でテレポート系が使えないのって食い逃げ防止のためか。
だったらワープポータルの禁止も即時決定されるべきだ。
「ただいま〜…」
今日も身の入らない狩りで、身体が必要以上に疲れた。
収集品の入った袋を肩からずり落として床に置いた。
「お帰り、弟!」
「ただいま、あに。」
いつもなら腹立つ兄貴のテンションにも、適当に乗ってしまえるくらい俺は疲れている。
収集品袋もそのままに、夕飯の並んだテーブルの席に着いた。
って………
「…兄貴。」
「なんだ、弟!」
「ツチナワ、来た?」
「この料理を見て判るだろう。俺にこんなうまそうな飯が」
「作れるわけねえよな。」
「そこはお世辞でも『そんなことないよ兄ちゃん!いつも美味しいよ!』と言え薄情弟ぉおおお!!!」
いや、まずくはないけど品数少ないし。
それにうまそうっていうか、ツチナワっぽい料理だったから。
「ツチナワ、帰ったのか?」
「ああ、丁度お前が帰ってくるちょっと前に。」
「!?」
「窓から。」
「窓かよ!ここ2階じゃねーか!」
超逃げてるし!!!
家まで来てくれた、ってことは怒ってないのか…。
料理も、多分来たってこと伝える為に作ってくれたのか…。
いや、でもひょっとしたら、一緒に食べてくれるつもりだったのかな。
しかし直前でやっぱり気まずくなって逃げた…?
くそ…あいつの気持ちがわからない。
「彼はいいな、弟。」
「は?」
「今日、たまたまフェイヨン地下で会ってな」
「…なんでフェイヨン?あいつにはぬるいだろ。兄貴はどうせムナック帽目当てだろうけど。」
「なにやらマンドラゴラを狩っていたようだが?」
マンドラゴラ?…なんか貴重品落としたかあのモンスター?
カードは結構高値だけど、ツチナワなら露店で買えるだろ。
「まあ、流れで一緒に狩りをしたのだが…強いし優しいし包容力もあり、惚れるかと思ったぞ。」
兄貴は何故か頬を赤らめて拳を握った。
「は?!」
ちょっと待て、まさかこの弟ならこの兄貴って奴か!?
そんな三角関係お断りだぞ!?
「狩りの最中、座って休ませてくれるペアなんて久しぶりだった…!!」
…は?
「女と違って女王気取りではない優しさが温かかった…!」
「いや、女の子みんな女王ってわけじゃないし。どんだけ鬼とばっか組んできたんだよ…」
わけのわからないことで感動して涙を流している兄貴に呆れつつ、いい加減腹が減っていたのでいただきますも言わないでスプーンを手にとった。
…うん、ツチナワの味だ。
俺が肉が好きだって言ったら、殆ど菜食主義者みたいなくせしてよく肉料理も作ってくれるようになった。
やわらかくて甘い味付けのサベージらしき肉、初めて見るから多分新作料理だろう。
語彙がないから結局いつも「美味い」しかいえなくて、今回もやっぱり「美味い」しかいえない。
「ルアのこともよく心配してくれていたしな。」
兄貴がしみじみ言ったその一言で、口の中の味が一気に広がった気がした。
あいつの料理、大好きだけど。
これだけじゃ足りない。
でも今は、これだけじゃなくてあいつ自身に会いたい。
急に料理を食うのが嫌になった。
余計恋しくなるから。
「……出掛ける。飯は保存しといてくれ。」
「ん?判ったが全部食ってしまうかもしれんぞ。」
「その時は矢で刺し殺す。」
「怖っ!!」
俺は立ち上がり、何の荷物も持たないまま部屋を飛び出した。
木の扉は軽くて、2週間も会っていないのに簡単にツチナワのところまで行ける気がしていた。
そんで、ツチナワの部屋の前。
さっきまでうちに来てたというから真っ直ぐ家に帰ったか分からないけど、まとめて休みを貰ってるらしいバイト先に向かったとは考えにくかったから。
でもここ最近、いつ訪ねても留守だった。
一回だけ、合鍵で中に入ったけど居留守じゃなくて本当に居なかった。
「……。」
見慣れた木の扉なのに、すごく分厚くて重く思える。
それはツチナワの拒絶なのかもしれない。
でもだからってこれ以上それにしたがって会わずにいるのも耐えられない。
恐る恐る、扉をノックする。
「開いている。」
ノックする前に、扉の向こうから小さく声が聞こえた。
「…ツチナワ……入って、いいか。」
「勿論。」
いい、ならともかく、もちろんって言われるのは意外だった。
まるで始めから拒絶なんてしてない、って言われているようで。
不安より期待が勝って、扉を開けるのも少しだけ苦では無くなった。
扉を開けると小棚に置かれたアサシンクロスの刺々しい鎧に沈みかけの夕日が反射してまぶしかった。
光から逃げるように部屋の奥に入ると、テーブルにツチナワが夕飯を置いてるところだった。
いかもに適当に茹でた温野菜とパン。
料理、美味いくせに自分は質素なものしか食べない。
相変わらずの少食ぶりだ。
「…ルアの家で、味見をしながら食べたから。」
「言い訳はいい。もっときっちり食べろよ、作れるんだから。」
お袋みたいにちょっと怒りながら言うと、少し苦笑いしながらツチナワは了解してキッチンに戻っていった。
意外と普通に話せた、俺の心臓も平静。
安心しながら、でも前のことをどう話そうか少し悩む。
じっとしていられなくて、部屋をうろうろしていた。
意味もなく視界に入ってくる部屋の床、壁、椅子、テーブル、ベッド、棚。
遮光カーテンがついた棚の奥に並んでいるであろう小瓶、乾燥植物は半分が薬で半分が毒らしい。
誰かに使ったりするんじゃなくて、誰かが使われた時の対処法を知る為や
よく毒を盛られた主人の毒見ができるように自分の毒の耐性を上げる為に使っていたらしい。
今は、どっかのアルケミストの実験の手伝いに使ってる。
その下のスペースには狩りようの武器や手入れ道具が一緒に入ってる。
その中でも左端にあるボックスにはレアや実用性のある収集品が入ってる。
見慣れた部屋、棚の中まで見なくても配置が分かるくらいに見慣れてる。
本当に几帳面な奴で、日用品も殆ど配置が変わらない。
「……ん?」
だからこそ、ちょっと気になるものがあった。
ベッド脇の床に無造作に置かれた皮袋。
帰ってきたばかりで適当に置いた収集品だろうか。
いや、でもツチナワなら収集品はすぐに売っ払うか収納するだろ。
俺だったら床に収集品袋置きっぱなしなんて珍しくないし、むしろついさっきもやってきた記憶があるし。
別に深い意味は無いんだが、なんとなく気になって開けてみた。
「……?」
何の変哲も無い、収集品。
でもイマイチ、何処に行って来たのかも、目的も分からないような収集品ばかりだった。
「ルア、夕飯はまだだ、ろう…」
「ん?ああ、サンキュ。」
今、ツチナワが変なところで言葉に詰まってた気がする。
…袋見たのまずかったか?
でも別にすごい動揺するわけでも止めてくるわけでもないし気のせいだろ。
…きゅぅぅ〜……
「ぷっ」
「笑うな!」
なんか随分プリティーな鳴き方しやがった自分の腹の虫を掌でぐっと押さえつけた。
そんなことしたって男らしい鳴き方に変わるわけでもないが。
ツチナワは流石に吹き出してもすぐに平静に戻って、席に着いた。
俺も、ツチナワが座っているのとは違う種類の椅子に座る。
元々一個しか椅子がなかったから俺の為に買われた椅子。
食器も、いつの間にか種類も数も2人分くらい増えてる。
こんなにも俺の為に何かしてくれてる奴に、俺は何をしてやれてるんだろう。
「なあ、ツチナワ」
「何か。」
「俺はお前に何をしてやれるんだろう。」
「それは恐らく私に聞くことではない。」
れ、冷静に返しやがって…!
言われて改めて気づいたが、言われなくても分かってるさ。
「けれど、君は私に対して何でもできるし、私はそれを全て嬉しいと思う。」
そう言ってから「君は違うか」と言われると…確かに。
ツチナワがしてくれることは、ありがたいことでも余計なことでも嬉しい。
「私を喜ばせたくて何かしたいのなら、日頃から十分に嬉しいと思っている。」
「…何か、してたか?俺。」
俺がしゃべる合間に紅茶を味見して砂糖を足す。
その仕草が上品に見えるのはプリーストだった時からしていた動作だからだろう。
「私と対等に戦えるようになりたいとよく狩りに行くようになった。」
「転生しないにしてもまだまだレベル足りてねえし…」
「気持ちが嬉しい。それに私に会いにきてくれる。」
「……。」
それだけで嬉しいっていうんだったら…
「ここ、二週間…会いに来てなくて悪かった。」
半分本気、半分はカマかけてみた。
だって明らかにその二週間、避けてたのは俺じゃなくてツチナワだ。
その意図も鋭いから気づいてるのかもしれない。
「いや」とでも言って誤魔化せるだろうに、彼は黙っちまった。
このまま、何も無かったふりをすれば自然と元通りになれただろうか。
でももし、このままあの時の話になってこじれたら、その時は最悪「あれは冗談だったし」って言葉で誤魔化せると思う。
「…清算、していた。」
ツチナワがぽそりと呟いた。
「清算?」
「…過去を。」
ツチナワから昔のことに触れるのは、久しぶりだった。
初めて聞いたのは出会ってから間もない頃で、一年近く前のことになる。
あまりに、痛くて悲しい。
でも、もう…
「もう、済んだって…」
「そう思っていた。私は私だけを憎んでいればいいと、聖職を捨て命を削るように戦っていた。
けれど君に赦され、“彼女”に赦され、もう私は何も怨まなくていいと思った。」
内容のあまりに深刻な話に思えないのは、穏やかな顔して紅茶を飲みながらツチナワが話すからだ。
料理がすげえいい匂いさせるもんだから、俺も食いながら話を聞いてるからだ。
ツチナワも俺が食うように、料理に手を付けながら間をあけつつ話している。
「先日、君に言い寄ったアサシンクロスに嫉妬しただろう。」
「…嫉妬っつーか、まあ睨んでたな。」
「あれで、まだ自分の中に人を憎むような気持ちがあると知った。」
「…いや、それはまあ人として当然じゃないか?」
どれだけ聖人君子だったんだよお前さんは。
そりゃすごい優秀だったって話は聞いてるから立派なアコライト・プリーストだったんだろうけど。
今時見ないよなぁ、そんな奴……
いや待て、今時…?
ツチナワが聖職捨ててやり直したのが既に俺が生まれたくらいだろ。
じゃあ現役時代ってどんだけ前だよ。
すでに何世代前だ?!
「どうした、うな垂れて」
「…なんでもない、ちょっと時間という壮大な流れを憎んでみた。」
本当、俺たちって歳の差激しいんだな…
肉体年齢だけで10近いっつーのに。
そりゃあ人生経験の差があるにも程がある。
「私達を陥れ、彼女から母になる未来を奪い、不幸な子とはいえ私達の子供を殺した、あのプリースト達を不意に思い出したんだ。」
決してあの時の気持ちに似ていた訳ではないが、とツチナワが補足した。
そりゃそうだ、たかが俺にちょっと言い寄ってきたくらいの嫉妬と同じわけがない。
憎悪を思い出した、そう聞いて嫌な予感がした。
それに、過去を清算したって…。
「まだ私の中に燻っているものがあった。この背の痛みと熱は、まだ彼らを怨んでいた。
あの男達は一切咎めを受けていないし、私と彼女のその後の境遇を知りもしない。」
「うん、酷い奴らだと思う。実際に見たわけじゃないけど、ろくでもない。」
そんな共感の言葉を出せたのは、やっぱりそんなに空気が重くならないからだ。
ツチナワが話しながらも、深刻にならないように話し方や動作に気を使ってるから。
声に優しさも何も無く、淡々と話されたら俺は黙って何も出来なかった。
食べ物を飲み込んだりできる筈もなかった。
けど、
「だから、復讐した。」
って言われても聞き流せるほど俺は鈍くはなれなかった。
思わず手を止めた。
どんな顔をしていいのか分からない。
でも強張った顔になるしかなかった。
「…ツチナワ…」
何も、聞けなかった。聞けるはずも無い。
それを分かってるからか、それとも聞くなと言いたいのか、彼はいつもみたいに「何か」と返してくれなかった。
ツチナワの表情は穏やかなまま、いつもどおりの微笑みが隠れたポーカーフェイス。
それが逆に怖い。
憎悪は晴れた?
復讐って、何をした…
自分を、自分の大切な人を、死より苦しめた奴らに。
殺した?それよりももっと酷いこと?
自業自得なのかもしれない。
けど、それをツチナワがしないで欲しい…
綺麗な心を、綺麗な手を、汚さないで欲しい。
欲しかったのに。
「何で、俺に言ってくれなかったんだよ。」
「言ったら、私を止めたか。」
「止めねーよ、多分。」
人を殺したかもしれないその手で作った料理でも、美味いと思う。
ていうより…
「お前が、他人を酷い目に遭わせられると思ってねーし。」
「それはどうだろう。」
「人の信用を試そうとするの、お前の悪い癖だよな。」
ツチナワは少し苦笑いする、でもそこから真相は読み取れない。
「もし、そうだとしたら、一緒に俺も手ぇ汚すし。お前が嫌がっても一緒に行くし。
人殺したいと思ったなら、俺が半分手伝うし。」
それは心底本当だった。
「お前にそれなりの理由があってそれでもって殺すなら、俺も人殺せるよ。その後ガタガタだろうけどさ、決断だけはできる。」
「……。」
「俺にとっては正当防衛でも復讐でもなんでもないのにだぜ。俺の方がよっぽど酷い人間だろ。」
ツチナワは俺の発言に多少は驚いたようだが、幻滅したような表情は無い。
「…殺してはいない。」
「だろーよ、見え見えだってーの。」
ツチナワは苦笑いして、いつの間にか食事を終えていた。
なんとも穏やかじゃない食事の席でのお話だったな、相変わらず美味いんだけども。
「にしても、2週間って随分時間のかかる仕返しだったな。」
そう言ったら、何故か片付けの手を止めた。
ここまで動きが明らかに可笑しくなるのは珍しいぞ。
「……欲しいものが、あって。」
「なあ、それってさらに追求していい話か?」
しばし視線は彷徨い、けれど逃げることを諦めたように俺の方に戻ってきて、それから下へ移る。
「……白状する。」
ツチナワは苦虫をかみつぶしたような顔して視線をさ迷わせた。
そして俺の方を見て、でも視線を合わせないでポツリと言葉を発してくる。
ちなみに俺がついさっき見た皮袋の中身は
食用油と、マンドラゴラの根と、アンティペインメントと、白ポーション。
よくわからないけど、いやわかるような気もするけど
知り合いに教えられた“夜のお供”グッズだそうだ。
俺が変なこというもんだから、心の準備と共にふらふらとそんな道具も準備してみていたとか。
…………阿呆か!!
テーブルにつっぷして脱力した。
「…………ツチナワ」
「何か。」
「俺、お前に変なこと言って嫌われたと思ってた。なかなか会えないし、家にいないし、不安だった。」
「すまない。」
「二週間もお前と話せなかったのがつまらなかったし、物足りなかった」
「一言、言ってから出掛けるべきだった。」
少し視線を下げて顔を伏せ気味にしているツチナワに、さりげなく、でも最大の勇気を持って言ってみる。
「責任、とれよ。二週間分、ツチナワが不足した分を補いたい。」
回りくどいかもしれないけど、意味はちゃんとわかってくれる。
二週間ふらふらしたせいか、彼の返事は迷いもなくはっきりとした頷きだった。
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