奥歯がギリッと嫌な音を立てた。
このままベッドに倒れこんで意識を投げ出したい欲求。
それを必死に押し留める理性が憎い。
もう人々は寝静まった夜のゲフェン。
小さく静かな宿屋の一室で装備を外しては床に投げ捨て、そのまま衣服も脱ぎ捨てる。
背中がズキズキと痛む。石畳の床に背を押し付けられて体を揺さ振られていた為に擦りむいたのだろう。
傷の具合を見たかったが、部屋の姿見は少し前に錯乱して粉々に割ってしまった。
「……っ…」
疲労ではない、この身体に残る感覚からくるものでもない、激しい吐き気に襲われた。シャワールーム前の洗面台に倒れ込むように顔を寄せて吐いた。
あの悍ましい男に出会ってからやって体調が良くなったのに…。
あの悪夢のような一日、やっと帰ってきた翌日は酷かった。
半日この洗面台とシャワールームから離れられなかった。
それからしばらく、食事をとっても直ぐに戻すばかり。
唯一とも言える友人の声が届かない間は、見えない何かを警戒するように唇を噛んで拳を握りしめていた。
やっと狩りに行けて、友人の前で平静を装えるようになった。
それなのに…また突き崩された。唯一の大切な友をダシに使われて(ハッタリだったが)のこのこ従って再度会った途端に。
何も奪う気はない癖に何故付け狙う。女ではないのに何故抱く。
答えは分かっている。俺が闘いを挑み、そして負けたから。そして奴が敗者をいたぶる魔物だから。
こうなりたくなければ、あの時勝っていなければ…強くなっていなければならなかったんだ。
悔しい。こんなにも悔しいと思ったのは生まれて初めてで、もう自分があの騎士に壊されたただの廃棄物にしか思えない。
自分を僅かでも保ちたくて、その為にはあの男の前で精神だけは屈せずにいるしかなかった。
それが奴を煽り、更に酷い目に遭うのだとしても。
これ以上惨めになったら、あの騎士ではない、目に見えない何かに見捨てられ、ただ本当に壊れていくだけて思うから…。
『もっしもーし?いる?生きてるか!死んでたら足の底から泣くぞ!!』
…腹を越して足から泣くのか。
むしろその表現は“泣く”にはあまり使わない。
『…生きてる。』
俺は普段からだがどうも素っ気ない返事しか返せなかった。
けれど、彼の何気ない声がどんなに俺を絶望の淵から助けてくれていることだらろう。
『返事キタ━━(゜∀゜)━━!!』
…友人の大音量のWISに頭痛がした。
彼の声が聞こえてるうちに、この見たくもない汚れた身体を洗い流してしまおうと、バスルームへ向かう。
『今日ルナティックを倒そうとしてたノビを止めまくってな、仕方ないからその子らを纏めてポリン島で壁してやったんだ!』
『…また奇怪なことを』
『おう!でさ、そいつらほとんどシーフに転職したんだよ!なんか運命感じちゃうな!』
それは偶然じゃないだろう。
彼には人を引き付ける何かがあるから、ノービス達は彼に憧れたに違いない。
よかったな、と返すとまた嬉しそうな声。
『おっと、お前そろそろ寝る?』
バスタブ内に沈み冷めたお湯に体を浸けて、ゆっくりと指を後腔に差し込んだ。
『…今日はまだ寝ない…』
多分朝まで寝れないだろうなと思いながら、差し込んだ指をぐっと広げると、中からどろりと忌ま忌ましい液体が流れ出す。
それはすぐに湯に溶けて消える。そして入れ代わり冷たくすら感じる湯が入ってきた。
そんな感触に吐き気がして目元が熱くなった。
『…ん〜じゃあちょっと話していい?』
『頼む。』
『いや頼まれる程じゃないけどな!?』
相手のそんな反応を聞いてから、頼むという言い方は可笑しかったかと納得した。
けれどそう言いたい程だったのだ。
今完全に一人になればあの男への恐怖と憎悪が蘇り、気が狂ってしまいそうだ。
かと言って本当に側に誰かいるのはもっと困るが。
現実が苛酷で恥態であっても、平静を装い他愛のない話を聞くのは慣れたものだ。
『…じゃあ、そろそろ俺も寝るわ!』
よくもまあ一日にそれだけの出来事があるものだと感心しながら、その台詞を聞いたのは処理がやっと終わって着替えていた時。
『…おやすみ。』
『おやすみ!明日もハッピーに生きてろよ!』
いつも通りの言葉を耳にして、布団に倒れ込んだ。
WISは当然もう聞こえない。
冷たい。
静かだ。
「……。」
いつもの事だ。
いつもこんなに静かな部屋なのに。
いつもこんなに寂しいのに。
「…寂しい…?」
思わず呆然と呟いた。
未だ嘗てそんなことを思ったことがあっただろうか。
いつも傍に誰もいないのは当然だった。
しばらくぼーっと天井を眺めて、物思いに耽った。
そして行き着くのは、あの明るい友人の顔。
あの阿呆なことを言うやつの顔と声を上手く思い浮かべられれば、部屋の静けさはひと時だけ忘れられた。
…あのシーフに心底腹を立てていた、昔は。
人付き合いは苦手なのに、彼は図々しく話しかけてきたうえ、第一声が
『アンタ、ルナティックみたいだな!友達になってくれよ!』
本気で人を殴ったのは初めてだった。
今ではあの図々しさには慣れて、彼の声は生活の一部と化して逆に心地良い。
友人だと、大切だと、初めて思った。
『最近、具合悪そうだけど…』
そんなようなことを言った彼の声と表情を思い出す。
「……。」
申し訳ないような、うっとおしいような、嬉しいような、歯痒い思いが巡る。
こんなことを思うのは…初めてだ。
『明日もハッピーに生きてろよ!』
おやすみと一緒に言われるその言葉。
…確か、彼の母は体が悪く、余命が短かいと聞いた。
その言葉は、頭の弱い彼の率直な思いではないだろうか。
知り合いが死ぬのは嫌だと。
――― 俺が死んだら、お前は泣く…ん、だろうな…。
その姿は容易に想像できた。
――― 嫌だ…。
彼を悲しませたくない。
こんな空っぽの俺を親友と呼んでくれるなら。
俺の死を悲しんでくれるのなら。
――― もう、あの騎士に意地のような闘志を燃やすのはよそう。
『…言い忘れていた』
『ん?』
まだ寝ていなかった相手は唐突なこちらのWISにすぐに応えた。
『モッキングマフラー、渡す。』
『え、でもアサシンの転職追い込みなんじゃ?』
『お前がこれで真面目に狩れ。』
『うっ…!わぁーったよ!!じゃあ明日渡しに来いよ!』
ちゃんと不真面目であることを自覚しているらしい相手はスネたような顔がありありと想像できる口調で答える。
そんな様子にまた口元に笑みが浮かぶ。
『いや、取りに来てくれ。旅費は出す。』
『へ?何で?』
『…プロンテラに近づきたくない。』
『ん〜…まぁ、いいけど。いつもの宿でいいよな。』
『ああ。』
『オッケー。じゃあおやすみー!』
『おやすみ。』
再び訪れた静寂に、腹のそこからため息をついて力を抜いた。
これでしばらくは退屈だが平穏な生活に戻れる。
あの黒い髪の騎士のことは、早く忘れてしまおう。
朝、やたらに早く目が覚めた。
疲れきっていたところで安心して、ぐっすりと熟睡できたらしい。
家でじっと待っていても良かったが、間近の転職にむけて動きたくなった。
宿に置手紙とモッキングマフラーを置いて、さっさとモロクのソグラト砂漠を歩きまわっていた。
レベルが上がり次第転職所に入れるように。
「…はぁっ…」
モッキングマフラーがなくても、サンドマン1,2匹ならなんとかやれる。
ただし、足と腰が持てばだが。
砂地にどさりと倒れこむように腰を下ろした。
体力は持つが、もう下半身がしびれるように痛い。
「ヒール」
フッと、刺すような日差しとは違う心地よい温かさを感じた。
見回すと、3メートル近く離れたところに見知らぬモンクの男がいた。
「…どうも」
ペコリと頭を下げて礼を言うと、さっさと立ち上がった。
傷や体力の消耗で座り込んでいたわけではないからヒールはあまり意味がなかったが
このまま座り込んでいると余計に心配させそうなので、さっさと立ち上がった。
「辛そうやね?」
「………。」
人のよさそうな笑みでこれでもかというほどにヒールをかけてくる。
ここまでくるとなんだか申し訳なさも消えた。
「…もう大丈夫です…。」
「そか?んじゃ、行くか。」
モンクにありがとうございました、ともう一度頭を下げて歩きだす。
「……。」
「…あの。」
「ん?」
さっきのモンクはまだ横にいた。
時々サンドマンに会うとヒールや支援をくれる。
「………アサシンギルドの方向に用ですか。」
「いや、暇やからアンタにひっついてる。」
「………。」
モンクというだけあってガタイが良く、首から上の人の良さそうな笑みに合っていない。
「苦労してるみたいやん、いっちょ俺が手伝ったるわ。」
「いや、もう上がったんで結構です。」
そう言った瞬間、顔を出してきたホードを斬り付けて、頭上に祝福の光が飛ぶ。
「おー、まじや。おめでとう。」
「…どうも」
一応支援をくれていたので、礼にと先ほどでたエルニウム原石を砂の上に置いた。
「いや、別に礼なんかええって。」
それを拾おうが拾わまいがどうでも良かった。
とりあえず無礼という後ろめたさを失くして、モンクに背を向けてアサシンギルドへの階段を登っていった。
噂にはきいていたが、アサシン転職試験とは実に面倒臭い。
日ごろ勉学など殆どしていなかった。
筆記試験があるのは聞いていたが、問題が難しい上にノルマが高すぎる。
殆ど勘と、その場での追試を繰り返し、かろうじての合格。
そして少々自信があった実技試験で
『ってなんだよ水くせえええええ!!!!!』
「っ!?」
友人からの突然のWISに焦り、標的を間違えて叩いてしまった。
途端に試験失敗のアナウンスが響く。
…腹のそこで何かが煮立つのを感じながら、俺は試験会場から一旦退場した。
『アサシンギルドってことはもう転職か!?おい、置手紙じゃなくてちゃんと言えよ!!』
『…お前の雄たけびで落ちたぞ。』
『え、まじか…!?アサシンになれないのか!?』
『…すぐやり直せる。問題ない。』
コレでもかというほどの、深い、長いため息が聞こえた。
こちらまでため息をつきたくなる、やめろ…。
『じゃあこれからアサシンギルド行くぞ!!祝うぞ!!』
『いらん。』
『照れるなよ!!うさみみはまだ無いからやわ毛500個な!!』
『それだからいらんと言ってるんだ!』
うるさい奴のWISに応えながらも辛うじて合格し、足早に次の試験会場へ向かった。
『それじゃあ終わったら外にいろよ!あとやわ毛50個狩ってくるからなぁあああ!!!』
…もう諦めよう。
真面目に勉強もしていなかったし、上の空で実技の受けていたせいで
上官にあまり高評価は貰えなかったが…
渋々といった感じで合格印は貰えた。
生まれて初めて、長年目指していたアサシン装束に袖を通す。
寒い。
外は灼熱地獄だから丁度いいだろうが、こんな薄地とは思わなかった。
これからの季節を考えるとシーフ服に着替えたくなった。
元々、適性検査と周りの意見が『アサシン』だったから目指しただけだったが。
こうも感動が薄いとは。
余程俺はつまらない人間だったようだ。
「おめでとさん。」
頭上に降る祝福の光、先ほどまで貰っていた支援の光だ。
「さっきの…」
「アサシン、似合うなぁ」
「……。」
どうも、と言いかけて声が喉でつかえた。
暗い部屋の影のせいかもしれないが、モンクの笑顔がさっきまでの人の良さそうなものとは違う気がした。
いや、気のせいではない。
その男に、俺が最も忌むべき人間…あの黒髪の騎士が重なった。
反射的に、持っていたグラディウスに手をかけた。
だが間髪おかずに鳩尾に鈍い衝撃。
上半身にしびれるような痛みとめまい。
「っぐ…!!」
「鋭いなぁ、ボーヤ。」
冷たい石の床に倒れこんで、見上げた男の笑顔に寒気がした。
瀕死の猫を哀れみ撫でるように、髪に指を差し込んでくる。
「触るな。」
かすれた声で言っても、頭上の相手は相変わらず笑っているようだった。
「威嚇すんな。安心しい、殺しゃせんわ。」
「遊ぼうやないか。」