【 揺り籠 】



今日も本で世界を懐かしむ。
世界は滅んだのだという、僕らはその生き残り。
だから此処から出ようとすれば、死んでしまうのだと言われた。

誰に言われたんだっけ?

此処の住人は物忘れが激しい。
ふらりと居なくなったかと思うと、何かを忘れてふらふらと出てきたり、数日前と同じ行動をしていたりする。
なんだか痴呆症みたいだ…。
それは僕にも言えることだけれども。

けれどしっかりと覚えていることもある。
故郷の土の香り、風の優しさ。
僕の故郷はそうだ、高地にあった…名前はたしか、ジュノー。
指先は壁一面に広がる本棚の中からジュノーの話に辿り着き、そっと背表紙を引き出した。

なんだかそれを読まなければいけない気がした。

「……ここの、住人スか。」

突然声をかけられて、思わず背を伸ばした。
ここは日の光が届かない地下の為に閉鎖的だが、とにかく広い建物だ。
しかし住人は少ないので、仲間に会う機会は少ない。
昨日に後輩の少女と少し話しただけで、それから誰一人ともすれ違いすらしていなかった。

見ると彼は冒険者ではなく、ここの清掃員の格好をしていた。
清掃員といってもラフなものではなく、万が一の“外界”の毒を清掃するために頑丈な防護服を着て、毎日そこらを徘徊している。
彼は付けていたガスマスクを外して、頭を下げる。

少し童顔で、けれど端正な顔をした好青年だった。
綺麗なブラウンオレンジの瞳に綺麗な白髪をしていた。

「こんにちは」
「…こんにちは」

明るい笑みの青年、こんな廃墟のような世界では珍しい。
しかしこの青年、どこかで会ったことがある気がする。

きっと、私はまた“忘れて”しまったのだろう。

「珍しいな…このへんの部屋は子供が多いのに。」
「ああ…好きなんだ、ここが。ほら、ここらへんの本棚の方が簡単な本が多いしね。」
「あ、分かります。オレみたいな馬鹿と比べられるの失礼かもしれないけど、オレは他の部屋の本は読めないッス。」
「僕も、同じようなものだよ。」

手に取った本は開かずに、そのまま胸に抱えた。
今は本を読むよりもこの青年と話をしたい気分だった。

「ここの本を読んで“昔の世界”を思い出すのが好きなんだ…」
「…外に出ちゃダメッスよ。危ないッス。」
「分かっているよ…しかし此れでも昔は腕利きだったのに、戦う場を失ったのも寂しいな。」

「だからって“外の奴ら”に挑んでっちゃだめッスよ。得体も知れないんスから」
「分かっているって。」

彼は清掃員というより警備員に近い。
そんな彼らにはあまり心配はかけられない。

「…この“守られている施設”の中なら、安心スから…」
「……ああ、そうだな。いつもここを守ってくれてありがとう。」


ぎこちない笑顔で返して、しかし心の中に小さな棘が刺さる。

自由のない世界。
ここはまるで収容所だ、ここで日の光を見ることも出来ず、世界を覆い尽くした“何か”に怯えながら
隠れ潜んでいなければ僕達は永らえることができない。
これでいいのだろうか…。

しかも、この施設は何かがおかしい。
いや、おかしいのは世界なのかもしれない。

不意に彼の白い頭の向こうに人影が見えた。
僕らよりも一回り小さい、蒼の髪を小さく結ったシーフの少女だ。
昨日、同系の職の為に少し話しただが、そういえば名前を聞いていなかった。

彼女はまるで呆けたように定まらぬ視線でふらふらと歩いていた。

「………なあ、そこの。」

呼びかけても感情の無い視線を少し向けただけだった。
彼女はふらふらと僕らを通りすぎて、どこかへ歩き去っていく。

「…大丈夫、皆時々呆けてるけど、半日もすればいつも通り意識もしっかりする。」
「………。」

しかし実は彼女に会うのはこれで3回目になる。
初めて会ったのは3日前で、仲間の愚痴について強気に話す彼女に先輩である僕の方がたじろいだ。
そして再会した昨日、彼女は今のように呆けていて、意識を取り戻したときには僕のことを忘れていた。

それは彼女に限らない、この施設のあちこちで起こっているのだ。

「大丈夫ッスよ…この中にいれば、皆離れ離れにはならないから…ちょっと、忘れちゃったりするけど…」

青年は少し不安そうに瞳を揺らがせている。

「でも、忘れられてもまた知り合えばいい、そんで話して、また仲良くなって…。死んじゃって、もうあえなくなるより、イイッス。」
「……おい?」

青年は少し視線を下げていた、その右の瞳からは涙が一筋ながれていた。
左の瞳も、今にも零れ落ちそうな涙が溜まって瞳を濡らしている。
何故泣いているのだろう、なんだか酷く罪悪感を感じて胸が締め付けられた。

「きっと貴方は、外がいいんだと思うんだけど…故郷のジュノーが好きで、図書館を格安で使いたいからなんて冒険者証とって、その延長でバリバリ最強のアサクロになっちゃうくらいだし。」

青年のエスパー的な言葉に思わず目を丸くした。

「な、なんでそんなこと、知ってるんだ?」
「知ってるッスよ…俺、アンタのことはよく覚えてるから…」



ああ、まただ…僕は、何かを忘れてる。

「いいんスよ、忘れちゃってても…思い出せなくても…」

彼はまだ涙を浮かべたまま、すぐ近くまで歩み寄ってくる。
分厚い手袋を付けた両手が、頬に伸びてきて顔を捉える。

引き寄せられ、同時に彼の顔が近づいてきて、唇が重なる。
抵抗する気にはならなかった。

「だって、もう…皆、苦しんでいないし、オレも貴方といられる…。」
「……君、は…」
「思い出さなくていいッス。」

僕の思考を邪魔するように、もう一度彼が口付けてくる。
初対面で、しかも同性のそれを拒む気になれないのは何故だ。
こうされることを、僕は始めから受け入れている気がする。

誰かに、こんな風にされたことなんてあっただろうか。
思い出せない…。

「…僕、は…ジュノー生まれジュノー育ちで、冒険者になってから…」
「同郷の先輩に勧められてシーフになって、自力でジュノーに帰れるように頑張ってアサシンになったんでしょ。」

「…そう、だ…それで、図書館で知り合ったハイプリーストの女性に、ギルドに誘われて…」
「ふふ、そんで、その先のギルドの先輩の強さに憧れて死に物狂いで鍛錬積んだんでしょ。」

真っ暗な海に少しづつ光が射して水底が照らされる、そんな風に記憶が少しずつ思い出せるようになってくる。
しかし、その海には肝心なものがない。

僕が何故ここにいるのか、何故世界は滅び、僕らはここに集まっているのか、それが全く分からない。
その答えは、僕の心の海には存在していない。

「何で、君は僕のことを知っているんだ…?」
「貴方から聞いたに決まってます。君が暇つぶしに近くにいた僕を捕まえてあれこれ話してくれたんですよ。」
「いつ…?」
「いつだった、かなぁ…最近の気もするし、もうずっと、ずーっと前だった気もする。」

青年は曖昧に微笑み、僕から少し離れた。

「この施設の下っ端のオレだけど、強くて優しくて綺麗な貴方に惚れて、それを話したら貴方は苦笑いして」

さらりと『惚れた』と打ち明けられて、思わず顔に血が上る。
しかしそれについて何かを言わせてくれる間もおかず、彼は続ける。

「オレには応えてくれなかったけど、でもずっと気さくに話しかけてくれた。
オレには何もできなかった、貴方を助けることも守ることもできなかった。」
「待って、くれ…それは、此処にくる前の話をしているのか…?」

全く覚えの無いことを続けられて、思わず彼の話を中断した。
しかし彼はこちらの質問には答えてくれず、自嘲気味に笑うだけだった。

「今もオレは貴方に何もできないけど、でもせめて守り続けていたいんス」

彼の綺麗な瞳はこちらを見上げて、けれどすぐにガスマスクを付けて顔を隠してしまった。


顔が隠れる瞬間…目の錯覚か、彼が別人に見えた。
瞳が赤く、肌は青白く、まるで人間ではないような冷たい形相だったように見えた。
あの顔は、誰だ。
さっきまでの人懐っこい微笑みは、誰だ。

思い出せない。

「行かない、と…“奴ら”が、来る。」

ガスマスクで籠った声が吐き出され、彼はどこかへ歩き去っていく。
思わず彼を呼び止めようとしたが、その手とこの喉は動かなかった。
去っていく彼が、もう彼ではないように思えたから。


この世界は、何かがおかしい。



腕の中の本を見る。
磨り減った表紙、ページを開くと…

「っひ!!」
思わず本を取り落とした。

故郷のジュノーについて載っている本を見ようとしていたのに、開いたページにはジュノーの街角の写真が載っている筈だったのに。
そこには一面に人の顔があった。
眼球が飛び出さんばかりに見開かれて、左顔面が黒いのは皮膚が剥がされているのか溶けているのか、内の肉が露出していた。
それは本のページに描かれていたのではなく、その顔の写真が挟まっていたのだ。

思わず目を背けたくなるその形相は本からスルリと赤い絨毯に落ちて、苦悶の表情で天井を見上げる形になる。

「なん、だ…これ…は…」

ふと絨毯に落ちた本を見て、違和感を覚えた。
ボロボロに磨り減っているが、そんなに埃を被っていない。

本棚を見ると、特に気にしてはいなかったか何年と触られていないかのように白く埃が積もっている。
しかしよく見るとその中で何冊かがこのボロボロの本同様に埃を被っていない。
その背表紙を辿ると……全て、見覚えがある。
故郷のジュノーに触れる内容を持つ本ばかりだった。

何か予感がして、飛びつくようにその埃を被っていない本に手を伸ばした。
僕の指は震えていた、その指でページを開くと…また、写真が挟まっていた。

今度は裸の少女が、水槽の中で四肢を鎖で繋がれ紫の液体の中に浮かんでいた。
腹が裂かれて内臓が覗いている、口が縫い合わされて叫ぶことすら許されずにめいっぱい目を見開いて苦痛を訴えている。
この短い金髪に、かわいらしく幼い顔つきの少女には見覚えがある。

その写真と重なってもう一枚あったのは、少年とも青年ともいえない年ごろの男の子が体中から管を伸ばして眠っている様子だった。
いや、きっと安らかに眠っているのではないだろう。
少年の目もとは眼球がないらしく窪んでオレンジ色の液体を涙のように流していた。
そして全身から伸びている管は箸の先ほどもある太い針で、そこから少年の身体の中へ何かが根をはって皮膚の下で葉脈のように広がっている。
少年の鮮やかな赤毛だけが写真の変色に負けずにやけに目についた。

なんだ、なんだ、これは
これは、だれだ、これは
こんな、ひどい、気持ち悪い
だれがこれをした、だれがこれを撮った、これは……



ああ、これを撮ったのは……



ダメだ、ここは
ここにいてはいけない
たとえ世界が滅んでいるのだとしても
この中は恐ろしい

逃げなければ、逃げなければ

「っは…っは…」

気がつけば全力で走りだしていた。
写真は本にはさみなおし、本は本棚に戻してきた。
何故かそうしなければいけない気がした、あれは自分だけが知っている隠し場所だった。
そうだ、あの写真をあそこに隠したのは僕だった。

「あれ、おにいさん?おーい!何をまた急いでるんだよー!」

途中で赤い髪のマジシャンの少年とすれ違った。
あの少年、見覚えがあった。


あの写真で全身に管を刺されて絶命していた…


ここは、おかしい。
ここは、危険だ。
何もかもがおかしくて危険だ。

「っ…!!?」

突然、目の前に人影が現れる。
全身を黒い苔のような影が覆い尽くして、ぎょろりと真ん丸い眼球が二つ、こちらを見つめてくる。
その奇妙な影は2体。
これは…っ

「うああああああああああ!!!!!!」

恐怖に叫びながら、僕はカタールを握り締めてそれらを切り裂く。
それらは何か武器を持っていて、金切り声のような泣き声をあげて襲い掛かってくる。
避けて、1体の喉元を突き刺し、腹を切り裂く。

みじろぎしているもう1体も、即座に斬撃を繰り出した。
それらは呆気なく地に伏した。
黒い苔のような影が、まだ生きているように蠢いている。

「っ、っ…な、なんなんだ…これ、は…」

恐る恐るそれらの傍らに膝を付き、手を伸ばす。
しかし亡骸は調べようとした瞬間に、それらは地面に溶け込むように潰れて消えてしまった。

「……っ…」

気が狂いそうだった。
外には出られない、ここから出た瞬間にこの身体は外界の毒に侵されて崩れ落ちていく。
何故かそれだけは分かった、失われた記憶の中でその情景を見たのかもしれない。
ここらから出ることはできない、しかしおとなしくここにいることはもうできない。

「…っは、…さ、さっきの…青年は…」

先ほど本棚の前で話した、防護服を着た人懐っこい青年。
彼は、彼だけは敵ではないと、先ほど話して不思議とそんな確信を持てた。
彼に、助けを求めようか。
いやむしろ、彼と共になんとか逃げなければ。

彼が歩いていった方向へ、再び走りだす。
途中、かすかに見覚えのある少年少女を見かけたが避けて走りすぎた。
中にはあの写真に写っていた、死んだはずの女の子も居た。

ここは、ここは…何かがおかしい…!!!!


*  *  *



「…ん」

どこか遠くで物音がする。
けれども行ってはいけない。
この建物にはいくつか階かあって、物音は上の階でしたようだった。
しかし行ってはいけないと自分の中の誰かか言っている。

ここは危険だ。
世界は腐敗し、この建物の周りは腐敗している。
自分達もこの建物から出れば、腐って崩れ落ちる。
それを何故か知っている。

あまりに閉鎖的な姿勢だが、下手に動くのが危険なのだから仕方がない。

ところで自分は何をしていたのだろう。
なんだか随分と長いことこの姿見の前でぼうっと突っ立っていた気がする。
姿見に映るのは長身で短い白髪のゴツイ鎧を着た青年、つまり自分の姿。

しかし名前が思い出せない…なんだかずっと意識が覚束ない。
自分が何をしていたのか、自分は何者なのかと時々忘れる。
それでも何となくそのうち思い出すことを知っているので、あれこれ慌てることもない。
確かこの部屋ではない別の部屋には、昔ギルドを組んでいた仲間がいるはずだ。

誰かに声をかけにいこうと動いて、ポケットで何かが入っていることに気づく。
感触からして紙と分かる、それをなるべく潰さないように指先で取り出す。
出てきたのは1枚の写真と1枚の紙。
どちらも酷く古く、所々破れたり擦れたりしているが辛うじて原型を留めている。

写真はコンクリートの壁の手前に、いくつか水槽や檻、それに金属棚が乱雑に配置されている部屋だ。
水槽の中には人の姿らしきものが見えるが、小さくてよくわからない。
それの裏にはどこかのフロアの見取り図がメモ書きされていて、ある部屋に×印が付いている。
見取り図の端には『2F』と書かれている。

もう一枚の紙には、見覚えのある字体で文章が綴られていた。

『危険 引き返せ
写真裏に記した部屋の本棚に、証拠写真を隠す
それを持って 逃げろ
                    ・・・・・   』

メモの最後には、差出人の名前があったのかもしれないが擦れて読み取れなくなっていた。
しかし文章には切羽詰ったものがある。
この手紙と写真はいつの間に手に入れたのだろう、感じからしてもう何十年も前のものに見える。

いくら思い出そうとしても思い出せない。
それでも必死に探ろうと思考を繰り返すと、ポツリポツリと昔の思い出がよみがえる。

真っ暗な海に少しづつ光が射して水底が照らされる、そんな風に記憶が少しずつ思い出せるようになってくる。
生まれ故郷、楽しかった生活、冒険者としての旅立ち、仲間との出会い、騎士の転職試験、初めて砦を獲得したギルド戦。
しかし、その記憶の海には今探していた肝心なものがない。

この写真と手紙は何なのか、そして自分が何故ここにいるのか、何故世界は滅んだのか、それが全く分からない。
その答えは、自分の心の海には存在していないのだ。

ここは
この世界は
いったい…



*  *  *



「…っっ!!!!」

必死に走り続け、やっと彼を見つけた。
しかし彼は地に伏せ、今まで僕が難度か切り伏せたのと同じ黒い奇妙な影に囲まれていた。
それらは地に伏せた彼に槍や剣を…

「やめろおおおおおおおお!!!!!!」

叫びながら、それらに斬りかかる。
また奴らは金切り声をあげて、奇妙に踊るように蠢いて、そして襲い掛かってくる。
恐怖を押し殺し、影の塊を切り捨て、浮かび上がる眼球を切り捨て、奴らを突き飛ばす。
即座に倒せたのは1体、もう1体が後ろに隠れるように下がり、もう1体が両手に短剣を持って飛び掛ってくる。

ぐわりと真っ赤な口をあけて飛び掛ってくる。
何だ此れは、これが世界が死んだ原因なのだろうか。
こんなモンスターは知らない。

必死にカタールを振り回して、奴らを引き裂く。
とても冷静とは思えない戦い方だが、それでもなんとか身体の反射神経の方を頼りに攻撃を避け、戦い、影達を切り伏せた。

それらはやはり、しばらくは地面に転がって蠢いていたが、やはり床に溶け込むように消えていった。

「…っおい!!大丈夫か!?」

ガスマスクと防護帽で顔も頭も見えないが、それでもその中味はあの青年だと分かった。
走り寄ってガスマスクを外すと、あの人懐っこそうな童顔気味の顔があった。
ブラウンオレンジの瞳は気まずそうに笑っていた。

「すんません…オレ、やっぱり貴方より全然弱くて…」
「そんなことはいい、傷は…」
「大丈夫、ッス…どうせ、オレ…」

赤い防護服には幾つも攻撃を受けた穴が開き、そこから血があふれ出す。
とても助からない量の出血…いや、血…?
彼から流れ出すものは、奇妙なほどに黒かった。

「…また、貴方は…逃げるんスね…」
「…そうだ、逃げる…ここは、危険だ。だから君も…」
「無理なんスよ…だって、もう外は、オレらが生きてける場所じゃない…」
「それでも、ここは危険だ…!!」

早く彼を助けて、逃げないと。
彼の防護服を脱がせようとしたが、彼に止められる。

「なんで、また貴方は…逃げるの、かな…思い出したら、辛い、だけ…なのに…」
「だって…」

「どうせ、逃げられない…だから、気づかなきゃ…ずっと、幸せに…ずっと、一緒に…」
「何を言ってるんだ、君は…」

彼は縋るように手をこちらの顔に伸ばしてくる。
その手をつい反射的に握り返す。

「オレ、貴方と、居られりゃ…それで…」
「分かったから、一緒にいてやるからしっかりしろ…!」

そう言ってやると、彼は一瞬だけ嬉しそうに微笑んだ。
しかしその顔は青白く変色していき、肌は土のように硬質化して、瞳は血の塊の如く真っ赤になっていった。

「…!!?」

その姿は何秒も持たず、今度はすぐに彼の姿そのものが真っ黒に染まっていく。
ころころと彼の姿が変わったかとおもいきや、黒くそまりきった瞬間に砂のように崩れた。
僕の手の中にあった優しい存在は、呆気なく無になった。

悲しむ間もなかった、あまりに唐突で驚愕に固まるしかない。

「…な、何故…」

彼の姿は、何だったのだ。
あの黒い影に殺されたせいで消失したのか…?
消えるときの彼の異形が目に焼きついて背筋を冷たくする。

それよりも…これで、僕は一人か…
本当に、彼の言う通り、逃げられないのだろうか…?
これは、なんという悪夢なのか。

「っ…!!!」

遠くから沢山の物音、あの影の金切り声。
恐怖に縮こまる暇も、優しかった青年の死を悲しむ間も与えてはもらえないようだ。
カタールを震える手で構えた。

ダメだ、自分は…“捕まってはいけない”
逃げ出さなければ

“逃げ出して仲間にこの場所の危険を知らせなければ”



しかし通路の先から現れたのは…


今まで相手にしてきたのとは一回りも二回りも大きいあの影。
数も今までの2,3体どころではない、7体の群れだった。

合計14個の眼球が僕を睨みつけてくる。

絶望が、僕の足を捉えた。
けれど絶対的な目的の為に、踏みとどまりカタールを構えて応戦の覚悟を決めた。

あの青年の為に、無残に殺された少年少女たちの為に




*  *  *





海の底深くに沈んで、決して光の届かなかった場所にあった。
思い出されることのなかった記憶…。

そこはあまりにも暗く、苦しみに満ちていた。

広い、広いコンクリートの部屋に、立方体の形をした金属格子の檻が幾つも積み重なっていた。
それは人一人が入れる大きさで、一つ一つに年端もいかない少年少女達が捕らえられたときそのままの格好で放り込まれていた。
その中にでは僕が一人だけが歳もいっていてより厳重に拘束されて、異質だった。
ここには光がいらない、いくつか豆電球がついているだけのわずかな灯りのみで部屋は薄暗い。

「貴方は、アサシンクロスっていうんだっけ…」

狭い檻の中で、両手足を拘束された状態でもう何日も放置されている。
そんな中で突然話しかけてきたのは、部屋の入り口に立つ見張りの青年だった。

「ここ、監視カメラで録画されてるけど音声は拾われないから、話すくらいなら大丈夫スよ。」

青年はそう言って、横目にこちらを見てくる。
それ以外は目立った動きをいっさいしない。

「オレ、外のことよく分からないけど、強いんでしょ…?」
「…ここに忍び込んでおいて、こうやって捕まってるから…そんなでもないんじゃないかな。」

僕も小さな声で、彼の方をみないまま答える。

「でも、強いから、ここのことを探りにきたんでしょ。」
「………。」
「あの…オレ、ここが何をしてるのか、知らないんス…知ったら殺される…」
「だろう、ね。」

数日狭いところに閉じ込められ、身動きとれないせいで少し頭や、長い髪が掛かる首元が痒い。
身じろぎすると檻がガタガタと煩く鳴った。
そういえば、他の檻は人が入っているはずなのに殆ど物音が無い。
皆、絶望して動かないか、薬で眠らされているのだろう。

「でも、このままじゃいけないって、思うんだ…だから、何か手伝えるなら…」

僕は思わず顔をあげた。
青年は相変わらずこちらを見ていないが、まだ少し幼く見えるけれど果敢そうな顔つきをしていた。
白い短めでつんつんしているけれどちょっと柔らかそうな髪…
僕が転生を決意し、その強さで人を守ろうと決意させたギルドの先輩に少し似ていた。

「…僕が逃げたら、きっと君が殺される…それに、何か機械みたいのを飲ませられたから多分逃げられないよ…」
「………。」

それでも構わない、という勇気は彼にはなかった。
普通はないだろう。
けれどもこの期を逃さない手は無い。

「せめて、僕が逃げられなくても仲間には現状を知らせて…此処に来ないようにしたいんだ。
ここは、危険すぎる…。」

僕の言葉に彼は少し震えたけれど、自分の身の危険よりもその中でいかに動くかを考えているのが分かった。
横目でこちらを見て、僕からの指示を待っていた。



心臓が壊れそうだ。
命を賭けた…いや、それよりも大切なものを賭けた一仕事だった。
捕まれば僕だけではない、仲間が危険に晒されて、尚且つこの施設の悪行は表にさらされることはなく少年少女達の犠牲は増えていくだろう。

僕は一度だけ施設の最奥部近くへ忍び込み、無残に殺された少年少女達の写真を撮った。
自分が見ているものが映し出されるそれは、十分すぎるほどにこの施設の残酷さを訴えるものになった。
それを手に施設内を逃げ回る。
目的地は出口から遠すぎない程度の場所にある図書室。
僕はここから逃げ出すことはもう出来ないから、せめて仲間が僕の仕事の引継ぎで忍び込んだとき、証拠写真を持ってすぐに引き返せるように…。

あとは外の仲間に、あの青年が手紙を届けてくれればいい。



掴まる直前に、なんとか目的を果たすことはできた。
死の恐怖は、わずかだが薄れた。

「…っ…ひ、どい…」

青年は僕の入っている檻の前に立って、ボロボロと涙を流していた。
少し童顔なせいで、泣くと酷く子供っぽく見えた。

「…大丈夫、だ…それより、監視カメラ映るだろ…持ち場に戻りな、って…」

そう言うと、彼は躊躇いながらも部屋の入り口に戻った。
けれど座り込んで、膝に顔を埋めて泣いていた。

「…足、片方、切られた…だけだし…まだ腕もあるから、良い方だ…」

この部屋の地下では、すでに両手足を切断されて身体を刻まれている子もいたのだ。
それを思うとこれはまだましだと思えた。
けれどそれは自分の足の痛みを誤魔化そうとしているだけで、本当は傷口にはまだ激痛が走り、そこからくる熱が全身にも回って頭がくらくらした。
額から吹き出す汗は両手を拘束されているせいで拭うことも出来ずに肌の上を何度も伝い落ちる。

「っ、手紙は…ちゃんと、外の人に渡しました、から…」

それを効いて、ほっと胸を撫で下ろした。
安堵から足の痛みも少し、ほんの少し和らいだ気がした。

「ありがとう…もう、思い残すこと、ない…」
「そんな…っ!ここから逃げるとか…!!」

彼にも分かっている筈だ、そんなことはもうできないって…。
身体に何かを仕込まれ、しかも今は片足がない。

「…それより、…話し相手に、なって、くれないか…時間ができたから、暇で。」

苦笑いは精一杯の強がりだった。
残りの死を待つばかりの時間は、この青年とのんびり過ごすことにした。
悔いはあるが、それでも、僕は全力で生きることができた。
誰かの為に、戦うことができただろう。

死んでも、快く成仏できると思った。




*  *  *





「…ぼ、僕、は…」

地面に転がった僕の体に突き立っている武器を呆然と見上げる。
槍に短剣、どちらも上級の冒険者が使うものだった。
虚ろになる視界を動かし、僕を切り裂き、焼き尽くし、殺そうとしたあの化け物じみた影達を見上げる。

それは、奇妙な影などではなかった。
人間だった、僕と同じ冒険者だった。

「ア、ァ…」

僕が応戦したせいで怪我をした冒険者達が、お互いを労い治療をしあっている様子を見ているうちに思い出す。
全て、思い出した。
僕は、この研究所の悪魔の研究を調べる為に侵入して失敗。
仲間にメッセージを残して、そして此処の犠牲者達と同じく人体実験の末に細切れにされて殺された。
そして、あの見張りの青年…この施設の駆除隊《リムーバー》だったあの青年は…


―― なんで、こんなことに…

沢山話をした。
自分のことをたくさん話して、彼のこともたくさん聞いた。

―― 貴方は強いですね…こんな所で、死んじゃだめだ…

もっと話がしたいと言った。
僕が好きだと、なんだかおかしなことを言うから笑った。

―― もう少し、耐えて下さい…オレが、助けるから…

助けたいと言ってくれた。
しかしそうするにはあまりにも時間がなく、結局俺には何度も残酷な実験を行われた。
実験を行われてから僕の廃棄まではあっという間だった。
まだ僕がなけなしの理性にしがみついている内にそれは行われて…

―― やめろおおおおお!!!!

まさに処分されようとしている僕を助けようと、暴れて、その場で殺された。



僕は亡霊、彼も、ここにいた少年少女達も、もう人ではなくなっていた。

世界が狂ったのではなく、僕らがもう狂っていたのだ。
世界が有害だから僕らが逃げられないのではなく、僕らが有害だから出られないのだ。
見渡せば辺りの研究施設はもう酷く老朽化して、とても使われている様子ではない。

そうか、もう
全て
終わって


よかった…





*  *  *




僕は檻を抜け出し、証拠写真を撮るべく施設の奥へ侵入しようとしていた。

「じゃあ、これを…頼む。」

食事を受け取るフリをして、僕は檻の中で書いた手紙と、一枚だけ撮れた写真を青年に渡す。
彼の瞳は決意を灯していた。
そっと手の中のそれを彼が読む。

「……名前、エレメスっていうんですね。」
「ああ。」
「綺麗な名前だな…。」

はじめてそんなことを言われて少し焦った。
それに彼が照れたように言うのがなんだか可笑しくて少し笑った。

「頼んだぞ…それを、セイレンという人物に…。」
「わかりました。気をつけて下さい、エレメス」
「君こそ、な。」






*  *  *







今日も本で世界を懐かしむ。
世界は滅んだのだという、僕らはその生き残り。
だから此処から出ようとすれば、死んでしまうのだと言われた。

誰に言われたんだっけ?

此処の住人は物忘れが激しい。
ふらりと居なくなったかと思うと、何かを忘れてふらふらと出てきたり、数日前と同じ行動をしていたりする。
なんだか痴呆症みたいだ…。
それは僕にも言えることだけれども。

けれどしっかりと覚えていることもある。
故郷の土の香り、風の優しさ。
僕の故郷はそうだ、高地にあった…名前はたしか、ジュノー。
指先は壁一面に広がる本棚の中からジュノーの話に辿り着き、そっと背表紙を引き出した。

なんだかそれを読まなければいけない気がした。

「……いつもここに居て…本、好きなんスね。」

突然声をかけられて、思わず背を伸ばした。

見ると彼は冒険者ではなく、ここの清掃員の格好をしていた。
清掃員といってもラフなものではなく、万が一の“外界”の毒を清掃するために頑丈な防護服を着て、毎日そこらを徘徊している。
彼は付けていたガスマスクを外して、頭を下げる。

少し童顔で、けれど端正な顔をした好青年だった。
綺麗なブラウンオレンジの瞳に綺麗な白髪をしていた。

「こんにちは」
「…こんにちは」

明るい笑みの青年、こんな廃墟のような世界では珍しい。
しかしこの青年、どこかで会ったことがある気がする。

きっと、私は
また

“忘れて”

しまったのだろう




*  *  *





『危険 引き返せ
写真裏に記した部屋の本棚に、証拠写真を隠す
それを持って 逃げろ
                    ・・・・・   』

削れてしまっている手紙の差出人の名前を、不意に思い出した。

「…エレ、メス…?」








:end less:








あとがき+謝罪


分かりにくかった方はページ末を反転してください。

投稿する前に文章チェックしたら、リム君(仮)がエレメス助けようと「やめろおおお」と叫んでいたところが「やめてくろおおお」になっていました。(修正前が「やめてくれ」だったので)
そのまま投稿するか、直すかちょっと悩みました。

生体ネタのでっちあげであることを先に注意書きすべきか悩みましたが
ちょっとミステリアスホラーで、最後に「おいいいい!!!」というオチありみたいな作品にしたかったので、敢えて注意書きなしにしました。
根気強く呼んでくださった末に、最後の最後で気分悪くなった方にお詫び申し上げますorz

なんかもう本当にスランプで自分が何書いているのか分からない状態の近頃です。
でも小説書くの大好きなので自嘲いたしません。←

それでも呼んでくださる方、レス下さる方、温かく見守ってくださる方には心からお礼申し上げます。
いい歳していつまでも厨二病な私(爆)にお付き合いくださいましてありがとうございます(*´д`*)

09,08,08 ふー。




解説+要

(過去/濃い赤)
・エレメス(アサクロ)はギルドの仕事で生体研究所(活動中)へ潜入
・仕事失敗で捕まるが、見張りの青年A(後のリムーバー)に一度逃がしてもらう
・ギルドの仲間(セイレン(ロードナイト))に調査の結果と危険を知らせる手紙を残す
・そのままエレメスは研究所で殺される。
・おまけに青年Aも殺される
(・セイレンやそのほかの仲間は、結局エレメスを助けに来てそのまま犠牲になっている)

(現在/明るい赤)
・エレメスは亡霊(mob)になっている
・@自分が残した本棚の写真で研究所の危険を確認→A逃げ出そうと暴走するも逃げられない→Bそのうち一般冒険者(エレメスには怪物に見える)に倒される→@に戻る
 というサイクルを繰り返している。
・リムーバー青年も同じく倒されては復活を繰り返すが、現状を望んでいるのでエレメスと違って毎回記憶はリセットされない。
・研究所内の亡霊は皆、倒されては記憶リセットを繰り返している。
・セイレンも研究所内で亡霊になっている(青緑)