『アイヴ、聞いてくれよ。レナのお腹に子供がいるみたいなんだ。』 『誰の…?』 衝撃を受け、呆然としながら聞いた。 だがうれしそうな彼の様子から、聞かずとも察しがつく。 『俺の子に決まってるだろ?』 『……。』 『なあ、なんでそんな顔するんだよ。祝ってくれないのか?』 自分は一体どんな顔をしていたのだろう。 正直に言って祝いたくなかった。 二人が幸せなのは喜ばしいことなのに、何故だろうか、ちっともうれしくなかった。 どうしようもなく不安になる。 『…なんでだろう。』 そんなことをルーカスに聞いても分かるはずもない。 暗い森の木の幹のような色の髪の色の男。 瞳のグリーンも木の葉にしては色あせた色をしている。 だが人の印象というのは色で決まるものでもないだろう。 ルーカスは笑顔の明るい豪快な男だった。 熱い森の鮮やかさのような男だった。 『…生まれてくるのは男?女?』 『男。多分。』 『多分?』 『まだ腹の中でデカくなりはじめただけなんだ、分かるわけないだろ?』 『ならなんで男だって言ったんだよ。』 『勘!』 わけの分からないことを言うので、つい可笑しくなってしまった。 『やっと笑ったな。』 額を人差し指で突かれた。 不意に浮かんでしまった笑顔はそう消えず、ルーカスと二人で笑いあっていた。 『今度、レナにも会いに来いよ。もちろん、うちの子にもな。』 『……OK。』 まだ不安不満は残っている。 だが笑ったらそれが少し晴れた気がした。 久々に会ったレナはずいぶんと大人になっていた。 きっと女性から母親になるからだ。 ルーカスとは対照的だがよく似合う柔らかい微笑み。 表情の少ない彼女だったが、人を癒す聖職者らしい優しそうな風情。 『…ねえ、アイヴはルーカスのことが好きだったの?』 『なんで二人ともそう言うのかな。』 突拍子もない彼女の言葉に大して驚かなかった。 『なんで、って…アイヴこそなんでそう言うの?』 『…さっき、君の恋人にも同じようなことを言われたよ。「お前、実はレナのことが好きだったのか」って。』 『あらま。』 レナは目を丸くして苦笑いした。 二人ともただ思いついたから口にしただけで、どちらも僕を責める気なんてまったくないのが分かる。 自分が誰をすきなのか。 そんなのずっと昔から分かってる。 『俺は二人が好きなんだ。二人といる時間が好きだった。』 『嬉しいわ。私も。』 『…ルーカスもそう言ったよ。』 『私たち、三人とも変わらないわね。』 それは幸せなことだった。 僕はずっと三人でいたかった。 幸せなルーカスの姿を見ていたかった。 幸せなレナの姿を見ていたかった。 二人というのは安定していると思う。 選択肢はない。 でも三人というのは不安定だ。 どちらが優先か、選択肢ができてしまう。 レナは俺よりルーカスを、ルーカスは俺よりレナを選んだ。 俺は一人置いていかれた、そんな風に思った。 だからといって二人を憎んだことなんかまったく無い。 二人はより幸せになれたんだから、それでいい。 …まだ少し、未練が残っているだけだ。 子供が生まれたら、二人は恋人ではない、家族になる。 俺のいる場所は完全に失われる。 だから、寂しかった。悲しかった。 三人は同じ籠の中で出会い、同じことをして、一緒に籠から逃げ出した。 なのに何が違ったのかと…もう二人は結ばれたのに、今でも無性に悔しくなる。 それほどに、二人が大好きだった。 激しい雨音。 遠くで鳴る雷の音。 何もかも不吉に見えた。 悲鳴。 レナが泣いている。 彼女を武装した男女が取り囲み、引きずる様に連れ去ろうとしている。 咄嗟に助けようと武器を構え、息を呑んでチャンスを窺っていた。 『アイヴ、駄目よ、来ないで』 レナの声が頭の中に響いた。 数十分前に助けを求めてきた時と変わらぬ、必死な、泣き出しそうな声。 こちらに気づいたわけではないだろうが、先程助けを求めてWISを飛ばしたのだから近くにいるだろうと思って言ったのだろう。 『私より、ルーカスとマナを…』 ルーカス。 ルーカスは何処だ。 雨が視界を遮っていて彼の姿が見えない。 『お願い、マナだけでも…』 僕にとって大事なのはルーカスとレナだ。 けれどあの大人数に囲まれているレナを助けることはできない。 それにルーカスがどこにいるのか気になる。 木陰に身を隠したまま、土砂で足場の悪い坂道を駆け上がっていく。 間に合ってくれ!間に合ってくれ! どうか二人ともいなくならないでくれ!! 僕には二人が全てなんだ…!! 自分達が何の為に働いているのか分からなかった、あの個室の中。 僕達は、今俺達を追い詰めている者達の元で出会った。 僕は廃れた家の才のない末子、レナは金が無く教室の外から学を得た学院の下働き、ルーカスは路頭に迷う少年達のリーダー。 三人とも恵まれぬ暮らしをしていたところを、サバトに誘われた。 人を救う為の研究をしていると嘯かれ、長く研究に携わった。 僕達のような者でも誰かの為に働けると思えて、嬉しかった。 実は、多くの人を狂わせ、死に至らしめる薬や武器の開発に携わっていたと知ってしまった夜。 三人で肩を寄せ合い、悔しさに涙した。 『やり直しましょう。ここの研究を壊して、逃げましょう。』 レナは泣きながらも力強く言い放った。 『私達が害してしまった人たちの為に、すべて消して、そして生涯毎日祈るわ。』 彼女の言葉、強い意志、そんな彼女に僕もルーカスも恋をした。 『ああ、俺はお姫様にどこまでも付いていくよ。』 そんなことを言ってルーカスが笑う。 その前向きさ、笑顔に彼女も僕も励まされた。 『三人いればなんとやら…かな。』 悔しさは消えない、けれど唇の端を上げるだけでも笑うことができた。 三人いれば、乗り越えられる。 例え離れ離れになっても、俺は二人を忘れない。 ずっと繋ぎ止めておいてやる。 絶対に守ってやる。 『アイヴ…お前、に…もっと…話し、たい…ことが…あったのに…』 『喋るな、ルーカス!』 『…ぉ、れ達…結婚して、も…お前と…家族でいた、かったん…』 『分かってる、分かってるから…』 ルーカスの姿がダブッて見えるのは、彼を支える腕が震えているからか、視界が涙でにじんでいるからか。 我流だが才能があったのだろう、彼は立派な鍛冶屋になった。 その大事な腕と指がズタズタになっていた。 彼が苦しんで死ぬようにか、それとも最後に悔やむ時間を与えたのか、 即死を避けた致命傷の胸の刺し跡はいくら手を押し付けて塞いでも血は止まらない。 何度も血を吐いては、ルーカスは喋ろうと必死に喉を動かしていた。 『マナにも…の、弟にも…ちゃんと会って…お前のこと、おじちゃんとか…呼ばせてよ、ぉ…』 『……分かったから…会ってやるから…死ぬなよ…』 もう叶わないのに、これからの夢を死相の下で精一杯笑いながら話す。 あまりに痛々しく悲しくて、見ていたくなかった。 死ぬな、死なないでくれ。 奇跡を起こしてくれ。 無駄なことを必死に願いながら、二人でただ震えていた。 『ちゃん、と…お前とも…家族に…』 『悪かったよ…もう離れない、から…』 彼の胸に置いていた俺の手の上に、泥まみれになった手が重なった。 『…マナ、と……を…た、の…』 彼はもう、言葉を紡げなかった。 残酷にも思いを口に出せない時間が長く続き、もがき続け、息を引き取ったのはもうしばらく後で… 俺は最期まで『分かった』といえなかった。 最期まで馬鹿なことに、嫉妬していたんだ…二人の子供に。 ルーカスとレナに、最期まで思われていた子供達に。 そう、それほどにレナとルーカスを、俺は愛していた。 シェイディが夜更けに訪れたのは騎士団の牢の中。 当然許可があるはずもない。 彼の顔は指名手配されているフェアリ・アレイと双子ゆえに瓜二つだ。 調べれば別人と分かることだがそんな面倒なことはしていられなかった。 「起きろ、アイヴ」 寒い暗い牢の中、中に置かれている毛布に包まりもせずに横になっていた男に声をかける。 彼は四肢を失い支えが無ければ起き上がることはできない。 だからただ横になっているだけかと思ったが、遅れて反応したあたりから眠っていたのだと知れた。 「誰だ…。」 暗くて見えなかったのか、息のように呟く。 「ゴーストの参謀。」 牢には鍵がかかっていたはずなのに、部外者がすぐ傍らにて座っている、その事実にさして驚く様子もない。 「…聞きたいことがある。話せるか。」 「…お、まえ…一人、か…」 「ああ。」 「あの、娘は…どこだ…」 搾り出された声は相変わらず痛々しく擦れていた。 シェイディは彼の声を何度か聞いたことがあったが、いつもこんな声だった。 潰れたのか、潰されたのか、潰したのか。 その声で、まだマナのことを諦めていないと言う。 「マナさんに君を殺させるわけにいかない。」 「…俺の、望みを…か、なえると…」 「言った。だがそれは俺や皆の望みと相反したようだ。」 卑怯な言い訳だと自分で思う。 それでも仲間を犯罪者にしたくない。 よりによってシェイディが思いを寄せるマナを。 「俺、の…あの娘の…のぞ、みだ…」 「だがすれば彼女は絶対に後悔する。不幸になる。人を殺すことの重荷を背負わせやしない。 人が長い歴史の中で制約してきたルール、それを破った者はつまり人そのものに背いたことになる。 罪悪感だけじゃない、他人や下手をすれば仲間にさえ虐げられることになる。」 シェイディがアイヴの顔の脇に手を付き顔を寄せる。 説得ではなく脅迫のような声音で 「大事な人達の忘れ形見をそんな火坑に陥れたいのか。」 「……。」 「アイヴ、君がマナさんの両親を憎んでいたとはどうしても考えられない。 やはり君は二人の仇じゃない、仇の振りをしていただけ…そうだろう。」 彼はゆっくりと顔を動かし、シェイディの方を向いた。 その瞬間、アイヴの目を見てピンと来た。 「…アイヴ、まさか目が…」 先日までは見えていたはずだ。 サバトに何かされたのか、それともマナに負わされた傷のせいなのか。 前者なら、これから進行していく可能性がある、命すら危ういのかもしれない。 「俺、の…欲しいのは…結論…」 「……。」 「今まで…何も、できな、かった…これからも…だから、最期は…」 シェイディの言葉を無視し、彼は話す。 あくまでマナに自分を殺させる、“仇”を殺させる、その意思に変わりはないと。 「それよりも、彼女の為になることがあるだろう。」 いくら話しても無駄と悟り、シェイディは話を本来の目的に戻すことにした。 「マナの、弟のことだ。」 「死んだ。」 やはりそれか、と言いたげにアイヴは瞼を下ろして即答してくる。 シェイディにもその答えはなんとなく予測できていたことだが、それでも彼に食いつく。 最悪のケース、だが諦めてそれを受け入れる限り希望はゼロから変わりえない。 「サバトにいた者は全部確認した、が、全員違った。死亡者は多すぎて調べようがない。 どこにいるか知っているんじゃないのか。…せめてどこで何故死んだかだけでも。」 「…逃げ出し、た。」 「逃げた?」 それならまだ生きている可能性も… 今の状況でシェイディが調べたのは20歳前後の生存者のみ。 サバトに関係したものはすべてリストアップされていたが数が多すぎてとても目を通しきれるものではなかった。 だが何とかその中で探し出し、死亡確認ではなく逃亡となっていれば… そう思って希望を見たのはわずかな時間だった。 「逃げた者、は…皆殺し。ルイが、必ず…食って、いる。 リストに“逃亡”と、いう印は…ない。“サバト内に生存”か“死亡”だ。」 「だが孤児院の施設はいくつもあったんだろう。ルイで全て管理できている筈がない。」 「全て、密集して…彼女の、行動範囲…内だった。それに…」 「それに?」 光わずかな闇の中で、アイヴの瞳が揺らいだのを見た。 懐かしむように、悲しむように。 「俺は彼を知っていた。」 「何…?」 考えられないことではなかった。 アイヴがレナの…マナの母親とサバトで接触しなかったことはないだろう。 それなら彼女がそこで産み落とした子供を知っていておかしくない。 「数回しか、会えなかった。話も、殆ど…していない。傍に、いられなかっ…た。 ただ、逃げては…いけない、そう忠告した。だ、が…彼は、逃げ…そして、死んだ。」 友人の息子・マナの弟が逃亡したと知ったときも、アイヴは結局サバトの檻の中で、何もできなかった。 それを悔やんでいるのだろう、アイヴの擦れ声がいっそうひどくなった。 「…守りたかったのか。」 シェイディがそう聞くと、彼は下唇を噛んで眉をひそめた。 「…子供など…どうでもよかった、のに… 娘、も…息子も…親に…まるで生き写しだった… もう一度、二人を…守るチャンス、を、与え…られたと、思った。」 だが、結局二度も彼は大切な二人を守れなかった。 「…だから、殺してくれ…」 アイヴは完全に希望を失った。 残されたのはマナ一人、だがアイヴは彼女が苦しみ憎しみに生きる間何もできなかった。 だから唯一残った彼女の手で、終わらせてほしかった。 マナは唯一この世で残った、アイヴの大切だったものの断片。 彼女は仇を殺すことに全てを捧げた、だからアイヴはせめて彼女の望みを叶えて、そして終わりたかったのだ。 「…彼女には、弟は…ただ、死んだと。」 「……。」 「逃げ、出した…などと言うな…長く、悩ませる…ことになる。」 アイヴの言葉が、シェイディを洗脳するように響く。 ―― 弟は、10年前に死んだのだ。 殆ど人のいない石畳の通りを歩くシェイディは茫然自失していた。 まるで自分の身内の死を知らされたように。 あんなにも必死に戦い、ボロボロになったマナに、追い討ちをかけるように事実を告げなければいけない。 必死に戦い、そして守れなかった。 アイヴとマナは同じ境遇だと思った。 彼は本当にルーカスとレナが大切だった、あの悔しそうな瞳に偽りはなかった。 だから、マナが彼のようになってしまう気がして恐ろしかった。 「……。」 『シェイディイイイイイイイ!!!!!ヘルプーーーー!!!!!』 突然大音量でルナティスのWISがして、ビクリと体が震えた。 『なんだよ。』 『ヒショウが病院から逃げ出した!でもって止めようとしたマナの傷が開いた!』 『何!?』 一難去って、また一難。 いや、どの難も去っていやしない。 『ヒショウ追いかけたいから、早く戻ってきてマナの傍についてやって!』 『分かった、すぐに戻るからお前はヒショウを追え!』 今は、喉は渇いていない。 だがあの狂おしい程の渇きを覚えている。 死ぬほど苦しいのに死ねない、地獄だった。 だが何より苦しいのは、その渇きを癒すために自分が欲していたものが…血だという事実。 自分は獣になった、そう思った。 昔自分を頼っていた子達を裏切った、その子達への償いにサバトの手に戻ったというのに 自分に宣告された刑は、他人を糧にして兵器になることなのか。 人を苦しめたくない傷つけたくなかったのに、裏切って多くを死に追いやった。 その償いは自分を苦しめることではなく、他人を食い殺すことだなんて馬鹿げている。 だが自分は事実それをした。 「…っ…ぅ…」 吐き気がこみ上げる。 忘れられない、血肉の味。 体は歓喜し、精神は悲痛に泣き叫んだ異質な糧。 悪夢から逃げ出したくて、ただ走り続けていた。 孤立するように建っていた病院は丘に建っていて、その四方は森に囲まれていた。 だからいくら走っても森ばかりが続く。 「………。」 ふと彼の足が止まった。 『ルナティス…森はモンスターも出るから、危ないよ…』 『でも突っ切るしかない、急いで』 『そうだけど…もっと静かに、逃げた方が』 『ホームの人が言ってた、森にはいくら皆が隠れても絶対に見つける番人がいるって。だから急がないと』 二人の子供の会話がフラッシュバックする。 記憶の中、ヒショウは手を引かれ金髪の子供に引きずられるように走っていた。 どこまでも続く暗い森。 あのときも、逃げたくて森を走り続けた。 今もそうしている、だが 「……ルナ、ティス…?」 森は深く、風も届かず、ざわめきひとつない。 何も聞こえない。 次第に耳には自分の心音が届いてくる。 目の前にいるはずの人がいない。 何故いない。 何故自分は一人で逃げてきた。 悪夢から逃げたかった、獣になった自分を誰にも見られたくなかった。 そうだ、ルナティスからさえも逃げてきた。 気づけば、心に平穏が訪れる。 今は一人、この森はルナティスとでなければ抜け出せなかった。 今は一人、だから抜け出すことはできない。 望んだ結果だ。 誰にも知られぬ内に、誰も知らぬ所で… 「見ィつけたァアアアアアアアア!!!!!」 「っ!?」 背後に突然ルナティスの声と気配が発生した。 ヒショウは心臓が口から出るのではないかというほど驚き、咄嗟に声とは反対の前方へ走り出した。 「逃がすかァアアア!!!!」 「っぐ!?」 突然首を絞められ止められた…そう思ったが違った。 投げ縄で首を捕らえられていた。 …いつだったかもこんなことをされた記憶がある。 「……」 首を絞められた、と感じたものの、全く苦しくない。 これも自分がおかしくなったせいだろうかと、ヒショウは人知れず唇を噛んだ。 「ヒショウ!逃げるなよ!?この縄僕の首にもかけたからな!?逃げたら僕が窒息するからな!?」 「は!?」 妙なことを言うルナティスを怪訝に思い、振り返った。 そしてヒショウの首にかかっているのと同じような輪を、ルナティスが自らの首にかけているところだった。 確かに、これだとヒショウが逃げたら相乗効果でルナティスの首も絞まる。 だが結果的に苦しいのはルナティスだけ。 ヒショウなら自分が苦しいよりも痛い効果がある。 ヒショウは呆れながらも彼の悪知恵に負けた気分になった。 「……。」 「……。」 二人はしばし睨み合った。 そしてヒショウが二人の間でやや張っている縄を掴み、引きちぎった。 麻縄は綿で作った紐のように簡単に切れてしまった。 だがルナティスは睨みを緩めることなく、今度は鉄輪のついた鎖を取り出した。 そして先手必勝とばかりに自分の首に輪の片方をかける。 また二人が睨み合う。 「……お前は…」 「本気で僕と戦ったら勝てないってことだよ。」 周りから見れば間抜けな戦いだが、いつも明るいプリーストの目はいつになく真面目で鋭い。 確かにヒショウがこの状態で逃げてルナティスに投げ縄で捕らえられたら、その瞬間ルナティスの首がしまる。 しかも今の脚力なら、かなりの力で絞まって首の骨が折れるかもしれない。 「ヒショウ、もしお前が僕達から…僕から逃げたいっていうなら…」 ルナティスは構えを解いてゆっくりと彼へ近づく。 そして距離が詰まる。 「…僕の足を蹴ってからいけ。」 「…は?」 「手加減したら許さないからな。」 「何を馬鹿なことを言ってるんだ。」 そんなことをしたら、簡単に足が折れる。 「………足を折って『このままここに放置させたらここで飢え死にする』と言って俺に皆のところまで運ばせるつもりか。」 「ザッツラーイト☆」 今の怪力ではうかつに彼を殴れない。 だから地面を蹴り上げて目潰しをしたが、やはり加減ができずに土の塊を彼に豪速で蹴りつける形になった。 だがルナティスは目を庇いながら前へ飛んで、ヒショウのすぐ目の前に。 彼の腕を掴んでいた。 ふざけたことを言っても、ヒショウを逃がさないという思いは真剣だ。 「…ヒショウの考えてること、手に取るように分かるよ。」 悲しそうな顔をして、ため息をつく。 そして溢すように呟く。 「いつまでも、お前は僕を信じてくれないな。」 「信じてないとか、そういうことじゃない…。」 「そういうことだ。逃げたじゃないか。」 「俺が、お前にこんな自分を見せたくなかっただけだ。」 「僕がお前を軽蔑すると、怖がると思ってたんだろう。」 「違う!」 ルナティスを振り払いたいのに身体が動かない。 この身体は人間じゃない、武器だと思っているから。 軽い一振りで、ルイのように人の肉を毟り取ってしまう。 息をすることさえ、怖くなる。 「…俺が、辛いんだよ…」 こうしてルナティスに見られているだけで辛い。 自分は変わり果てて人間の形をしていない気がする。 それをルナティスに見られている、彼は優しいからそんなことを口にしないだろう。 「辛いのは嫌われるのが怖いからだろ。ヒショウは臆病でも情けないプライドなんか持ってないからな。」 「……。」 それは確かに事実。 今まで仲間だった人達に離れるのが怖い。 全ての人間に嫌煙されるのが怖い。 「皆、確かにヒショウのことを怖がるかもしれない、騎士団なんかサバトの兵器の1つとしてヒショウを片付けるかもしれない。」 ルナティスの口からあらためて言葉にされると寒気がした。 身体が更に萎縮する。 「でも僕は絶対にそうしない。僕が一番怖いのは、何か分かるだろ?」 「…わからない。」 「…もう20年近く、全身全霊で伝えつづけてきたのにかよ。」 彼が伝えてきたこと。 ルナティスにとってヒショウが他のなにより大切だということ。 ヒントを得て彼の言いたいことは察することができた。 「…でも、俺は変わってしまった。そのうちまた暴走する。人を殺す。ルナティスも危険だ。」 「やっぱ全然分かってないじゃん。」 「分かってる…!」 少し声を荒げることでさえ躊躇われた。 怖くてこの身体を少しも動かせない。 動かせばきっとルナティスを傷つける。 「お前は俺の為なら死ねる、一緒に死ねる、人を食う俺さえ受け入れて、俺の為に人を殺すことさえする、そういうことだろう…!!!」 悲痛に言うヒショウと対照的に、彼は穏やかに笑って見せた。 その微笑みはどこか慈愛に満ちて恐ろしく思えた。 「それが嫌なんだ!!」 泣きそうな彼を見ながらルナティスはずっと満足気で、「分かれよ」と苛立ち混じりに呟かれる。 それでも笑うのは「分かってる」という返事か。 「ヒショウは、俺のことを信じてくれてるんだな。」 「……信用してる、分かってる。…だから、一緒にいたくない。」 「俺もヒショウを信用してる、だから自分を信用しなよ。」 ルナティスは視線を下ろし、ヒショウの腰に手を伸ばした。 彼が掴んだのは外に出るときに条件反射で持ってしまった短剣だ。 ヒショウは硬直したまま動けずにいた。 目の前でその順手から逆手に持ち変えられた。 「ルナティス!!」 「アスカ、お前は昔から誰より強くて優しかったんだよ。」 そんな自分は遥か昔に捨ててしまった。 そしてルナティスが変わりにそうなって、自分を受け止め支えてくれるようになった。 心の中で否定して、そして分けが分からぬままに… 「っ!?」 目の前でルナティスが自身に短剣を振り下ろすのを見ていた。 |