頬を何が伝う。 唇が湿っている。 これは汗だ。 酷くうなされたから。 喉も酷く渇いている。 本当にそうか? これは血ではないのか。 頬を伝う温かみ。 唇に纏わり付くような感触。 血では… 「ッウゥ!!!」 眠りから覚めた猛獣のように唸り、枕を引き裂いた。 口の中は舌を噛まないように布が詰まっていて、声はたいして響かなかった。 頭部を帯が囲って口を押さえつけている。 「…ぐ…うっ…」 掻きむしろうとしたが、手も爪をどこにもたてないように布で巻かれている。 歯痒い。 その拘束感に気が狂いそうになる。 「…っ!」 ヒショウはおもむろに両手で布団を挟んで、足で押さえながらそれを引っ張った。 厚い筈の布が薄布のように破けたのはまだ彼の怪力は健在だからだろう。 布を何度も引き裂く。 暗い部屋では無造作に見えるそれには目的があった。布は細く、何本にも裂かれていく。 「首を吊るなら無駄だ。」 部屋に凛と響く声に、ヒショウは震え上がり動きを止めた。 突然声をかけられた上に意図を読まれたから。 誰かが入ってくる気配は無かった。 始めから部屋の隅にいたのだろう。 靴音も静かに部屋の影からヒショウのいるベッドに歩み寄ってくる。 その動きを幽霊でも見るかのように固まって動けないヒショウは視線で追う。 僅かな月明かりに浮かぶシルエットと声から、その人物はすぐに分かった。 「…首を吊るとなんで死ぬか知ってるか。気道圧迫からくる窒息死と思われがちだが それより先に動脈圧迫で脳に血がいかなくなってまず脳が死ぬ。 だから案外安らかなものらしいぞ、首吊り自殺は。やったことはないからわからないが。」 シェイディはまるで世間話をするように、そんな気まずい話題を淡々と静かに口にしだした。 「その点、今のアンタは本人の意思に関係なく24時間フルに働くエネルギー供給のおかげで 強固になった筋肉と鉄管みたいになった血管や神経のおかげで、首を吊っても胴体に縄括って吊ってるようなもんだ。」 本人にその気はないが、最大級に嫌味ったらしい。 だがヒショウはただシェイディがそこにいた、見られたという事情だけで思考は混乱していた。 「あと、出来るとすれば首の骨を折る、か。それには首に縄つけてウンバラのバンジーか。」 「……。」 「自分を責めるな…てのはマナさんとルナティスからもう言われただろ。…だから、ギルマスとしていわせてもらう。 死ぬのは諦めろ。死に走る前に頭が冷めるまで待て。」 「……ウ、ゥ…」 ヒショウの唸りは言葉にならないが、何を言いたいのかは分かった。 ただ『苦しい』と。 「アンタには全面的に非も罪もない。ただ罪悪感が辛いだけだろ。」 「……。」 「罪悪感はやがて消える。ルナティスの抱えた“殺人罪”と違って。」 「…っ」 そうだ、ヒショウもマナも傷は負ったが大罪は犯さなかった。 誰の命もその手で直接奪ったわけじゃない。 でもルナティスが人を殺したのだって、もとはと言えばヒショウが… 「っ」 ヒショウの額に濡れた手ぬぐいが押し付けられた。 「ただでさえエネルギー消費が激しい体だ、せめて動くな。点滴やら輸血の費用だって馬鹿にならない。」 そう言いながら、シェイディは全力でヒショウの頭を押さえつけてベッドに押し戻した。 「…罪は消えないが贖罪はできる。でもそれはそう簡単なことじゃない、誰かが隣で支えてやらないといけない。分かるな?」 転生のせいで一回り若くなったシェイディだが、その瞳には以前とは比べものにならないほどの力がある。 「今までルナティスに守られたなら早く戻って支えてやれ。あいつにはお前が必要だ。」 「……。」 「マナさんの悲しみは乗り越えるには時間が必要だが、アンタはそれより行動だ。自分が正しいと思うことを続けることだ。」 諭すように根気強く話しかけていると、不意にヒショウの動きが鈍くなった。 苦痛には波がある。その波が弱まったときだったのだろう。 『裏切った』 WISは直接声を出すわけではないから擦れたり震えることはあまりない。 そうなっていたとしたら、それは発信者の心理状態が関係しているからだろう。 ヒショウが漏らしたWISは酷く弱弱しく震えていた。 『知らなかった』 「何を」 『こんなに、気持ち、悪い』 ヒショウは蹲り、腹を抱えるようにして額をシーツに押し付けた。 彼が情緒不安定なせいで、発する言葉は脈絡が無い。 けれど伝えたいことの一部のはずだ、とシェイディは無視をしなかった。 「誰を、裏切った。」 ひとつずつ、聞いていこうとすれば彼は懺悔の様に少しづつ答えた。 『ルナ、ティス…知らなかった…ずっと…』 頭を振りながら、額を枕に押し付ける様子が、駄々をこねる子供のようにも見えた。 『僕の、代わりに…こんな…』 「…っ」 思わず息を呑んでしまった。 今、一人称が“僕”になっていた。 子供のように見えたんじゃない、実際に人格が幼い者に入れ替わっている。 過去にもヒショウはシンリアという女性を見殺しにした罪悪感から逃げる為に子供返りしてしまったことがある。 一度精神分裂を起こした者は再び同じことを繰り返しやすくなるという見聞がある。 「アスカ…」 シェイディが呼んだことの無い名前を、本当ならルナティスしか知らない名前を思わず舌に乗せてみた。 『汚、い…苦しい…』 「お前…まだ、サバトにいるのか…」 『血が…たくさん…』 幼い頃、ルナティスはアスカの代わりに“売られていた”という。 しかしそれでも彼に寄る魔の手から守りきれないと知り、二人でサバトを抜け出した。 この少年の嘆きは、その時のものではない。 その時のアスカはまだ潔白で、でなければ今までずっとヒショウに何事もなかったことの説明がつかない。 このアスカは、つい先日の、あのサバト本拠地内部にいる。 シェイディがゴーストと†インビシブル†を率いて救出しにいく直前。 「…間に合って、なかったんだな。すまない。」 『助けて…痛い…』 ヒショウがサバトに行って、救出されるまで急いだが準備に手間取り1週間弱かかってしまった。 しかしヒショウがサバトに居たのはそう長くなかったと記憶していた。 覚えていたのはたった1晩、起きていたほとんど昼でそれが異様に長く感じたと漏らしていた。 けれどシェイディも当人も、ヒショウの話を聞いた誰もがその点を追求しなかった。 彼がいたあの部屋が、本来どういうものだったのか。 それを考えれば、彼が何をされたのか、そして拒絶し記憶から排除したのはなんだったのか、すぐに想像がついた。 『暗くて息が詰まる部屋― 扉が開かれる度にくる奴は全て鬼のように思え、絶えない地獄のようだった― 扉が開くこと自体が恐怖だった―』 ルナティスは死に行くアイヴに向かって自分のいた場所をそう話していた。 彼はアスカをそこへはやるまいと必死になっていたのに、結局… 今回、彼はそこにいた。 訪れる者は男、女関係なく そこに放り込まれた人間を 『いや、だ…きもち、わるい…いたい…たすけて…』 家畜のように、踏みにじるのだ。 「………。」 乱れた布団も、引き千切られたシーツも元通りになり、その中にヒショウは快適そうに穏やかな呼吸をしている。 おそらく夢も見ないほど深い眠りについている。 シェイディの手によって強制的に齎された眠りに。 ヒショウがまた第二人格を作り出し押し付けてしまった記憶は、知らぬ間に彼を蝕む。 きっとアスカをあの部屋から連れ出せるとしたらルナティスだけだろう。 不思議と彼には人の心を見抜いて何を望んでいるかがよく分かるし、何より今では唯一といえるアスカが知る人物だ。 けれどこれ以上二人に重荷を背負わせるのは酷。 だから、シェイディは仲間の為に初めて手を汚す。 苦しみ続ける少年の息の根を、止めてしまった。 精神だけとはいえ、初めて人を殺したのだ。たとえそれが救済だとしても。 腕にしていたブレスレットがそれを可能にした、かつてフェアリ・アレイが追われた原因である禁術の道具だった。 神か、それともその代行者たる者のみに与えられた『記憶改算』の力。 いや、『記録改算』という方が相応しいだろうか。 もう運命、過去として刻まれた事実、もしくは刻まれた記憶を書き換える力。 こんなものを所持していたことがバレれば、シェイディまで追われる身となってしまう。 さっさとはずし、月の光も届かないように鞄の奥底に押し込んだ。 「ゴーストのことはもうすぐ、何もかもケリがつく。あんたらもサバトの傷から開放されたいだろう。」 思考を取り戻しつつあるヒショウの瞼が、まるで肯定するように小さく動いた。 しかしそのブレスレットを使う必要がまだあった。 きっと冷静に考えればそうすべきではないと分かってはいたが、それでも 「ルナティス」 「ん?」 恩人であるから、救ってやらずにはいられない。 ヒショウと同じくサバトに苦しめられたルナティス。 しかし彼の場合は非常な仕打ちを受けた期間が長く、ヒショウも知る事実となってしまった。 あまり大きな改算はできないからせめて、彼が冒険者としての能力を失った原因を消し去ってやりたかった。 ブレスレットをつけた手をかざせば、彼は突然頭を打たれたようにガクンと倒れて気を失う。 彼が見た目以上に体格がいいことをすっかり忘れていて、危うく支えきれずに一緒に倒れるところだ。 すぐにルナティスを、今しがた出てきたばかりの部屋にひきずりこむ。 そこはマナがいる病室だが、彼女は鎮静剤を打たれていてしばらく目は覚まさない。 できればマナの隣にある空きベッドまで運びたかったが、それができるほどの腕力がシェイディにはないので仕方なく部屋の床に寝転がした。 部屋の扉に鍵をかけ、窓はカーテンでさえぎった。 神にはそんなものはお見通しなのかもしれないが。 日中なのに暗くなった部屋に少し安堵して、ルナティスの元へ駆け寄る。 一刻も早く終わらせたい、と焦っていた。 シェイディはルナティスの胸の上に、折り重なって寝るように蹲り額を押し付けた。 そしてブレスレットをつけた手は、彼の額に。 途端に世界は暗転する。 シェイディの思考を、幾億もの情景が駆け巡り、シェイディを通りすぎていく。 これはルナティスの記憶。 しかし記憶の区切りはランダムで、数は膨大。 目当ての情景は見当たらない。 ヒショウのときのように、最近のことなら、せめていつのことかが分かれば見つけやすいのだが… 今回は少し日にちが開いているし、シェイディにはいつのことなのかも正確に分からない。 シェイディはシャッターのように切り替わり、時にはスライドのように去っていく記憶の中を駆けだす。 そしてどれくらいの時間がたったか、一瞬のようにも何時間のようにも思えたが 不意に彼は目的のものを見つけた。 成功するか少し不安だったが、見つけられた。 何故なら、ヒショウといて幸せだった、ギルドメンバーといて楽しかった記憶が多い中で それだけが重く、鈍く、淀んでいたからだ。 それは、苦痛と血に塗れていた。 「まるで、あの部屋に戻ったようじゃないか」 楽しそうな壮年のセージが笑う。 解体された実験動物のように手術台の上で虚ろになっているルナティスを突き上げながら。 その一言と、吐き気がする男性の匂いで、幼い頃の記憶がリンクする。 あの部屋…飾りにもならない小さなテーブルと、牢獄のような部屋に似つかわしくないクッションのようなベッド。 そして腐敗を誤魔化すような強い香。 それは人の理性の殻を破り捕食者を凶暴にさせて、一方捕食される者の精神を冒す。 違う、それは要らない記憶だ、見たくない、とシェイディが必死に記憶をなぎ払う。 熱く不快な吐息が首筋にかかり、嘲笑ってくる。 ルナティスは拒まず、しかしただ吐き気を催す。 記憶の中のルナティスと同調していたシェイディは血の気が引いた。 激しい苦痛と嫌悪、しかし何よりそれを平然と受け入れているルナティスが信じがたい。 相手も自分自身も、そして世界も何もかもを卑下する冷たい感情しかルナティスは抱いていない。 お前はこんなにも冷酷になれる男だったのか。 こんなにも昏い精神を抱えて、お前は笑っていたのか。 ルナティスという人間を操り媒体として立っている悪魔。 それがこの男だと、そんなイメージを持ってしまった。 全ては、ヒショウがいる世界に立つ為だけにルナティスという人格が存在している。 肉体をどれだけ痛めつけられようと、嬲られようと、ルナティスの精神は昏い感情に固められていて揺らがない。 ヒショウにその姿を見られた時でさえ、ただ彼が傷つくことを案じたくらいで絶望はしなかった。 なぜなら端からルナティスに希望という字はない。 だからどんな屈辱を受けても、それを受け入れられるだけの精神はルナティスにあった。 そしてセージが、ヒショウまでも貶めようとした時 初めてルナティスの精神は動く。 全く、躊躇うこともなく それが当然だと言わんばかりに殺した。 憎くて殺したのではない。 ため息を尽きながら「仕方ない」と腰を上げ、刃物を手にした。 セージを刺殺した。 ヒショウに手を出そうとしたのだから、当然だと。 全く、迷いがなかったのだ。 確実に死ねと、思いつく限りの急所をそれで突き刺す。 何度も、何度も。 恨みでも、怒りでもない。 ヒショウに手を出そうとした罰。 そしてルナティスの中で罪人となったセージは死に絶え その男と常に一緒にいて、セージと同じことをしていたアルケミストもまた罪人だと見なし切り裂いた。 どこまでも、ルナティスは昏く、純粋だった。 彼らには、当然の報いだったのだ。 だからルナティスには罪悪感はない。 ではなぜ、ルナティスは自身の心で自身の力を束縛してしまったのか。 その答えは、数分後に現れた。 『ルナティス…』 視界に映ったヒショウは、今にも泣きそうだった。 ルナティスが心を痛めない分、彼が傷ついていた。 ルナティスが浴びた血は、すべてヒショウがその心に浴びてしまったと知った。 「ごめんね…」 呆然とルナティスが、呟く。 謝罪は、ヒショウに。 彼の心を傷つけ、汚してしまったから。 それだけが、ルナティスが感じた唯一の罪悪感だったのだ。 深く、深く自分を卑下して、ルナティスの精神は初めて混沌に墜ちていった。 『…罪は消えないが贖罪はできる。でもそれはそう簡単なことじゃない、誰かが隣で支えてやらないといけない。分かるな?』 シェイディは先刻、ヒショウにそう言ってきた。 ルナティスが罪悪感に苦しみ、贖罪するならばヒショウが傍で支えてやれと。 けれどそうじゃなかった。 ルナティスはあの殺人を罪と感じていない。 一般常識を持ち合わせている彼は自分が罪人であるという自覚はあっても罪悪感はなかったのだ。 先ほど追い払った幼少の記憶を垣間見たのは間違いか、正解だったのか。 あの記憶がそもそもルナティスという人間を狂わせた元凶だ。 幼い頃、アスカという少年に親のような優しさを受けて懐いた。その時、少年の中にはアスカと自分以外に価値は無かったに違いない。 しかし、あの記憶が、アスカを庇い身代わりに強姦と暴力を受ける日々を送らされ、そして自分自身の価値も無くなった。 残ったのはアスカのみ、ヒショウのみ。 シェイディが“消す”べき記録は見つかった。 消すべきなのは殺人の記憶ではない。 あの時、見てしまったヒショウの顔を。 ルナティスの代わりに、殺人の罪に心を痛めたヒショウの姿を。 其処だけを切り取り、消し去った。 そしてシェイディは逃げるように、記憶の海から浮上する。 「っ…!!」 現実に引き戻されると、身体が何十倍も重くなったように感じた。 背中まで汗がじんわり滲んでいる。 「………。」 体勢は、力を使う前となんら変わりなく、自分の下にはルナティスがいる。 いつもと変わりない、少し力が抜けたようなルナティスの表情。 ほんわかして人懐っこい印象を与える顔つき。 それなのに、それが完全なる仮面と知り、寒気がした。 レイが、以前これを多用した女は遂には発狂して誰とも接触できなくなってしまったと言っていたが、その気持ちがよく分かってしまった。 こんなにも混沌とした感情を持つ人間がいる。 他にも、他人は計りきれないほどに邪悪であったり、悲愴であったり、壮絶であることもあるだろう。 他人の記憶、感情とは、一人の人間には抱えられないものなのだ。 「………。」 それでも、これでルナティスが少しは楽になるのなら。 それが非人間的な方向なのだとしても、恩を少しでも返せるのならいい。 そう言い聞かせてシェイディはまたブレスレットを鞄の奥にしまいこんだ。 「…お前にとっては、俺も、ギルドのメンバーも、姉であるマナさんさえ、無価値なのか…?」 呆然と呟く。 ルナティスの優しさに救われた、それは自分だけではない。 シンリァも、自身の姉であるレイも、元はといえばルナティスの優しさに助けられたようなものなのだ。 それに応えるのは、ブレスレットでルナティスの精神とリンクしていたシェイディ自身。 答えは『YES』 そして更に脳髄で冷たい声が響く。 ルナティスが無償の優しさを振りまくのは『それをヒショウが望むから』だと。 彼がもし一声、ギルドの壊滅や誰かの殺害などを望んでしまえばルナティスは笑って武器を手に取るのだ。 そんな答え、知りたくなかった。 ブレスレットを処分したのは、それからたった数分後のこと。 それでも、シェイディの記憶に重ね書きされたルナティスの記憶は処分できない。 じわりじわりと、青年の心を黒く侵食していくようで… 「…っ…ぐ…」 それだけではない、ヒショウが精神を分裂させてまで思い出すまいとしたサバトでの陵辱をも記憶してしまった。 唯一の救いはそれが他人の記憶だという事実だけ。 しかし感触と痛みまで、覚えている。 陶器の洗面台にしがみつき、何度目かの胃液嘔吐。 「……立て…」 虚ろな声を腹から搾り出す。 奥歯をかみ締め、立ち上がる。 蹲れば思考が沈む。 「…俺は、ゴーストの参謀だ。俺が崩れれば、皆も崩れる。挫折と失敗は許されない。常に立ち続けろ。」 それはシェイディという青年ではなく、ゴーストの参謀に科された使命だった。 けれど、それで割り切りたくはない。 ゴーストの参謀たる男、シェイディという人間でいたい。 それくらいの男でなければ、精神が崩れでいきそうだ。 「15年、俺は逃げ続けた。そして初めて戦い始めてからまだ逃げた分の半分も戦っていないんだ。 守られ、救われ、逃げてばかりで堪るものか。俺はメンバーの命を預けられてきたんだ、これくらいの傷を受けて耐えられないでどうする。」 視線は虚空。 しかしそこに鏡があって、自分に言い聞かせているように一点をずっと見つめている。 次第にその言葉に奮い立たされていくように、姿勢を正し握り締める拳に力が篭る。 いずれゴーストのメンバーの贖罪は済み、許されて“ゴースト”そのものが無くなっても シェイディの中にある参謀としての気高さは既に魂に染み付き、消し去れないものとなっていた。 「シェイディ、どうしたその火傷…!?」 ヒショウが抱えていた本を床にバタバタを落として、驚愕の声を上げた。 思わずしがみついたシェイディのこめかみから頬にかけてやけどで赤く腫れあがり、まだ熱を持っていた。 付き添っていたマナはヒショウを無視して辺りを見回している。 「ルナ!ルナどこだあああ!!!」 「…マナさん、そんな必死に呼ばなくても」 「これが叫ばずにいられるか!!顔はお前の長所だぞ!!」 遠まわしに「私はお前の顔で付き合ってやってるんだ」といわれた気がして少し寂しくなった。 痛みに疼く顔を手で押さえつけたいのを我慢しつつ、部屋から飛び出してくるルナティスを見た。 なるべく彼を変に意識しないようにしているのだが、若干顔が引きつりそうになった。 「シェイディ!?どうしたのその顔!」 「製造で火の粉を顔にかぶった…」 「ええええっ…よりによってレイヴァもセイヤもいない時に!」 本当はこんなに火傷をするつもりはなかった。 けれど少し疲れていて、炎に顔を近づけすぎたという痛恨のミスをした。 それでも最終的にはルナティスにスキルを使わせられればいいのだが。 「ルナティス、ヒール頼む。」 言った瞬間、ルナティスは眉根を寄せた。 無理だと言うのを遮り、目で懇願する。 自覚は無いだろうが、彼を縛る罪悪感という鎖は無い。 出来ないと刷り込まれたからやろうとしないだけで、今はもうやろうと思えばスキルは使える状態だ。 「ルナティス」 促すようにヒショウが言えば、しぶしぶといった感じでルナティスは一歩前に出た。 冒険者証を介して他人に声無きメッセージを送る方法はいくつかある。 そしてそのどれもはよく似ている。 誰に宛てたメッセージか、それをイメージして頭の中で話しかける。 イメージを失敗すると、誰にともなくもれてしまうことがある。 しかしそれでも全く赤の他人に届くことはない。 何故ならかけらもイメージされないから。 逆に言えばその人にとってイメージしやすい関係にあたる人物、つまり家族仲間恋人相方そんな関係にあたる人々には誤ってメッセージが漏れ出てしまったりすることがある。 伝えたくもないこと、伝えるべきではないことを理性を保てなかったり、感情と共に溢れさせてしまうこともあるだろう。 『裏切った』 「え?」 WISは直接声を出すわけではないから擦れたり震えることはあまりない。 そうなっていたとしたら、それは発信者の心理状態が関係しているからだろう。 突然に届いたヒショウのWISは酷く弱弱しく震えていた。 思わずルナティスは誰もいない部屋で声を漏らしてしまった。 そして遅れてWISであることに気づき、WISで別室に隔離されているであろうヒショウに返事をしようとした。 『知らなかった…こんなに、気持ち、悪い』 けれど、直感した。 彼のメッセージは、ルナティスに宛てられたものではない。 彼が意図せず、感情のままに溢れさせているもの、もしくは目の前にいる誰かに話しかけようとしていること? ルナティスは、何も言えなくなり、ただ誤って送られ続けるメッセージを受け取る。 『ルナ、ティス…知らなかった…ずっと…』 「???」 突然名前を出されて、やはり自分に向けたメッセージだったのかと首をひねる。 そして今度こそ応答しようとした。 『僕の、代わりに…こんな…』 「…っ」 その瞬間に、また遮られた。 思わぬ言葉に… “こんな”? なんのことだ、サバトにされていた仕打ちなら既にヒショウは知っている。 けれど、先ほど“気持ち悪い”と言った。 『汚、い…苦しい…血が…たくさん…』 追い討ちをかけるようにヒショウが…いや、アスカが呻いていた。 すすり泣いていた。 病室で誰かが彼を害している? そんな筈は無い、サバトは壊滅した、部屋は危険だからと医師さえ入れないように鍵をかけている。 鍵は、シェイディに…… 「………。」 シェイディが、彼に何かをしているとは思えない。 それにもし彼がルナティスと同じ目に遭っているのだとして、だからこそ今現在暴力を振るわれているのではないと分かる。 こんな弱弱しく声を漏らすだけでは済まないことを。 『助けて…痛い…』 喉が張り裂けんばかりに泣き叫んで、口を塞がれても頭の中で狂おしいまでに絶望の声を上げるしかできない。 今のことではない、思い出して苦痛の海でおぼれている。 過去の体験を思い出してか、最愛の人の苦しむ声を聞いてか、ルナティスの腕が震えた。 座っている椅子から立てなくなる。 『いや、だ…きもち、わるい…いたい…たすけて…』 見開いた瞳を閉じることが出来ない。 耳に当てた手は声を聞きたくないからではない、頭皮に爪を立てて自らの柔らかな金髪を掴む。 嘘だ、嘘だ、まさかアスカがあんな目に遭っていたなんて 自分の犠牲は無駄だったなんて では自分は何のためにあんな目に遭った、全くの無意味、無力。 『もう大丈夫…守るから…君の苦しみは全部、引き受けてあげる』 ずっと、そうしてきたつもりだった。 いつ、誤った。盲点はどこにあった。 後悔しても誓いなおしても遅いが、せめて今は安心させてやりたかったからそう話しかけた。 しかし返信したのが悪かったのか、それとも落ち着きを取り戻したのか WISはそれきり途絶えてしまった。 募る怒りと殺意はどこにも向ける場所が無い。 ブチッと音を立てていくらか毟ってしまった金髪と、こめかみから流れ出た血が指先に絡み付いている。 それでも身体の震えと憎悪は収まらない。 けれども、どうにもできない。 アスカが傷つけられた事実、制裁する相手がいない事実。 彼のためになにも出来ない事実に呆然として そして瞳に、心に、仇の取れない憎悪を住まわせる。 それすら、笑顔という仮面で覆い隠せるけれど。 |