このまま長引けばアサシンの勝ちは間違いない。
だがブラックスミスの女は攻撃全てを避けきろうとはせず、なおかつ体力も温存している。長期戦になりそうだった。

そろそろ夜も明けてしまう。
冒険者も一般人も起きてきてしまう時間だ。
「…今日のところは見逃してやろう。決着は次に…」

「へ、へ……」
マナはまだアサシンに斧を振り下ろした。
だが疲労故に力がこもっていない。
アサシンはそれを呆れながら、また軽く避ける。

「…!?」
「何が見逃してやる、だ…見逃して、ください、でしょ…」
マナは斧を手放し、アサシンに抱きついた。血が流れる腕で、決して離さないと言いたげに、堅く首根にしがみつく。
そのまま自分ごとアサシンを仰向けに引き倒した。

「な?…ッ」
起き上がろうとする彼の足に自分のものを絡める。
はたから見るとかなりマヌケな図だが、二人は必死に戦っていた。
このままでは人に見付かってしまう。見付かったところで、どうってことはないのだが、闇に紛れる仕事として後々面倒だ。

「動くな」
新たに知らぬ男の声が降ってきて、言葉を失った。

「れいぶぁちゃーん遅すぎぃ〜」
「こんな時間に、しかも里帰り中に呼ぶお前が悪い。」
ブラックスミスが耳打ちで仲間を呼んだのか。
なかなか来ないから誰も呼ばないのだろうと油断していた。

レイヴァがアサシンの腕を後ろ手に縛ると、マナはやっと彼を放した。
「一人でよくやった。」
「おう。ヒショウは誘拐されたけどね〜」
「…………は?」
彼の顎が外れた。

どうやらことの詳細は説明していなかったらしい。
宿に連れ帰ると、みんな安らかに熟睡していた。時間が時間なので当然と言えば当然。
だが無性に腹が立ったマナは腹いせにみんなを(文字通り)叩き起こした。





部屋の扉が叩かれ、返事を受けていないのに開かれた扉の向こうには、見知らぬローグがいた。
どうせこの建物にいる者達は皆知らぬ者たちばかりだ。
そちらに少し向けていただけで視線を外し、服の着付けを続ける。

「…見目はそこそこ良いんだがな…どうも旦那の好みじゃねえな。」
男に言われていることに関心など持たなかった。
今はもう、生きた心地もしない。

「…名前は?」
「ヒショウ」
聞かれたことに答えて、着付けも終えて、質素で狭い部屋に置かれた椅子に腰掛けた。
アサシン装束によく似ていたが、色は布地は漆黒、帯は銀で、頑丈なものでもなく、ただの飾りのような服。
アサシンであったその“玩具”の為に与えられた服だった。

「…ヒショウ。その名前を忘れないようにしろよ。」
「……。」
「仲間とかいたんだろ。そいつらのことも忘れないようにしろよ。」
「それが、ここでのルールなのか?」
ヒショウがそう聞いて見上げれば、ローグは目を丸くした。

数秒の沈黙の後、彼は口を開いた。
「…お前、本当に自分の意思でここに来たのか。
自分の意思で来るようにしろとは言われてたが…本当にそうくるとは、な…。」
ローグがなにやら呟くが、そんなことはもうどうでもよかった。

何も考えたくないのだ。
考えればすぐにルナティス達を思い出す。
探しているだろうか。きっとルナティスなら探しているだろう。

けれど彼はここを知らないはずだから、ここまで乗り込んでくるなんてことはないだろう。
互いに忘れられるとは思っていない。けれど、ヒショウもここから逃げるわけにはいかなかった。
ウォルスを苦しめた、その罪悪感で張り裂けそうだったから。

「用意しちまったからな、一応渡しておく。」
ローグが言って、突然ヒショウの膝の上に瓶を置いた。
栓のされた瓶の中には透明な水が入っている。けれど扱いからしてただの水ではないのだろう。

「…哀れなここの犠牲者タチに俺らが渡してやってる。どうしても苦しくなったら飲みな。」
「毒か。」
「いや。流石にお前さん達を殺しちまったらお咎めが来るからな。
だが強い幻覚作用がある。痛みも辛さも紛らわせる。」

それを聞くと、ヒショウは口元を歪めてそれをテーブルに置いた。
「…痛みも、辛さも、紛らわしていたらここへ来た意味が無い。
こんなことで罪滅ぼしになるか分からないが…俺は全部受けなきゃならない。」

ローグがどんな顔をしているか分からなかったが、それもどうでもいい。
この場で薬瓶を割ろうかと思ったが、思いとどまった。
「…そう、だな。貰っておく。…自害しそうになったら、飲む。」
昔から自分は精神的に弱かったと自覚しているから、そうでもしないとすぐにおかしくなりそうだ。

言えば、近くでため息が聞こえた。
あまりに自虐的なこの思考にあきれているのかもしれない。

「一応忠告しておくが、うちの旦那には男色の気なんて無ぇはずだし、奴隷を直々に選ぶなんて異例だ。
多分、ろくなことじゃないと思うぞ。うちの旦那は悪趣味の極みだしな。
…良くてその場で殺されるか、拷問される可能性だってある。」
まるで脅すように言われるが、それでも完全に諦めきったせいかなんとも思わなかった。
「…もう、どうなろうと…。」

あの大人しくて心優しかったウォルスが、あんな顔をするなんて、あんなことを言うなんて。
彼の受けた苦しみ、恐怖、絶望は壮絶だったのだろう。
ヒショウは奥歯を噛み締め、目元を手で覆った。

「…来な。部屋に案内する。」
ローグに言われ現実に引き戻され、息を吐いてから部屋を出た。

「アンタには必要なさそうだけど、一応な…」
そう彼が呟いて、腰から下げていた手錠を見せてくる。
やはりヒショウも抵抗することなく両手を差し出した。

手錠をかけられて出た部屋の外は、大聖堂に似ていると思った。
壁は白くて石造りの床が冷たく、どこか清らかなイメージだ。
ただ大聖堂とは違い、窓が小さく高い位置にあって外が見えず、そこに監獄のようなイメージが紛れ込んでいた。

どこを歩いても、同じ通路を歩いているようにしか感じられない。
そして思った以上に大きな建物だと感じた。

「ここだ。」
魂が抜けたように何も言わず、何も意識せずに歩いてしばらく立つと、前を歩いていた男が止まった。
視線を上げずにいると、なにやらまたため息をつかれた。
「…じゃあな。」

頷いて、開けられた木の扉奥へ足を進めた。





部屋の中は白。だが家具や装飾が多くて鮮やかに見える。
ヒショウが歩くと手錠がチャラチャラと音を立てた。
部屋に聞こえるのはその音と、何かを潰すようなグチャグチャという音。

「おいで。」
言われて向けた視線の先には、ヒショウより少しばかり歳下の見知らぬ青年がいた。
ベッドに座ってこちらを向いている青年に膝枕をされるように、女性が蹲っていた。

目を凝らして息を呑んだ。
青年の膝元に蹲っているのはゲフェン北のミョルニール山脈の森で捜索をしていた騎士団とヒショウ達を襲撃した女性だった。
あの恐ろしく早く、強く、獰猛だった、人間とは思えぬ女性。
だが彼女は青年に猫の様に撫でられている。

「…っ」
部下に促されるままに近付いて、彼らの手元にあるものに気付き、吐き気が込み上げた。
人の手。
二人のどちらのものでもない、白い手が青年の膝の上にあり、それに少女が食いついている。
途端に血の臭いが立ち込めた気がした。

吐きはしなかったが、思わず視線を下げて息を詰まらせた。
その様子を見てか、目の前でそのサバトの頭領が笑う気配。

「ルイ。…ほら、来たよ。」

そうしてその頭領は、自らの手の中にいる女性にそう呼びかけた。
ルイと呼ばれた女性が夢中になって噛り付いていた人間の腕から顔を上げ、ヒショウを見た。
“来たよ”と青年は言った。
そして嫌な思いが頭をよぎる。

自分は“ルイの餌”としてここへつれてこられたのではないか…?
今食われている人間の腕のように。

彼女の真っ赤な瞳と、真っ赤に染まった口元に視線が捕らえられる。
息ができなかった。
まさに蛇に睨まれた蛙。

殺されても仕方ないと思っていたのに、いざそうなると知れればどうしようもなく怖くなった。
早く、あの騎士団のメンバーのように首を一突きにもぎ取ってして殺してくれればいい。
この恐怖に逃げ出してしまう前に。

そう思っているうちに、ルイはベッドからのっそりと降りてゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。
視線を合わせたまま動けなくなる。

本能的に視線を外してはいけないと思った。相手は人間ではない、猛獣だ。
そして退いてもいけない。

そこまで考えて、笑いがこみ上げた。
何をまた、生き延びることを考えている。
猛獣相手への対処を判断して何になる。
目的はただ一つなのに。
殺されるならそれでいいのに。

やっと、諦めたように目を閉じることができた。



「…っ…」
すぐ目の前に、ルイから香水のように香る血の匂い。

首にかかる重みに思わず目を見開いた。
温かい腕に抱きしめられている。
慎重さのせいで寄りかかるようにしかできていないが。

「…あっ…う、ぁ…」
「?」
抱きしめられたまま、耳元でうめき声のようなルイの声。
何を言っているのか分からず目を丸くしたが、彼女はもう一度同じように唸っただけだった。

「ルイが君を気に入っているというのは本当だったようだ。」
青年が言うのを訳が分からないまま聞いていた。

ルイに首にぶら下られるのが辛くて床に膝をたてると、ぎゅっと抱きしめられた。
ルイは犬のように頬や顎、唇と舐めてくるが、それを迂闊に押しのけていいのか分からない。
ヒショウが迷っているうちに、満足したらしい彼女は足元にしゃがみ、犬のように頬を擦り寄せていた。
顔から血のにおいがして気持ち悪い。

「気付かなかっただろうが、君がルイに初めて会った時に彼女には監視が付いていてね。
その彼から“ルイが殺すのを躊躇い、去った後も気にかけていた男がいる”と報告を受けた。
少し興味が沸いただけだったが…まさか本当にここまでルイがご執心とはな。」

視線を下げて、足元の女性を見た。
あの森の中で、確かに彼女はヒショウを殺せるはずだったのに殺さなかった。
去り際にヒショウを何か言いたげな目で見ていた。
大して気に掛けていなかったが、何故こんなに懐かれているのかさっぱりわからない。

それよりも、この女性は何者なのか、なぜこんな姿なのか、なぜ…人間を食うのか、それが知りたかった。

「そんなところに突っ立っていないで、そこのソファに座れ。ルイと一緒に。」
青年は“ルイと一緒に”を強調してそう言う。
まるで客人相手のような扱いに調子を狂わせながら、ヒショウは言われるままにベッドの脇に置かれたソファに座った。

「少し話をしよう。そうだな…君をここへ招いた理由をまず話そうかな。」







こんな大変な時だというのに、町はいつもどおり賑やかで、空はとても穏やかだ。
今頃、大切な先輩…いや、仲間がひどい目にあってるかもしれないのに…。

そんなことを思いながらも露店のお菓子から目を離せずにいるアコライトのセイヤだ。
いったいどこから出てきたのか分からないが、ギルドマスターのマナに大金を渡され、お使いに出された。
急いで済ませようと思っていたのに、先ほどWISが入り『ちょっとあんまお前らに聞かせたくない話してんだ、その辺で時間潰しててくれ。その金のあまり使っていいからな。』とか言われた。
その声があまりにも真剣で、セイヤは何もいえなくなってしまった。

そして言われるがままに露店を見て時間を潰している。
「…無駄な買い物してる場合じゃないよ…お使い頼まれたもの以外でも使えそうなもの、探そうっ…」
そうつぶやきながらもさっき見ていたお菓子は大量購入しているセイヤだ。

「あ!!!」
口にくわえていたお菓子を落として、セイヤは声をあげた。
道の反対側のアルケミストが開く露店に、お使いリストに載りながらも見つからなかった品が新しく置かれたからだ。
慌ててセイヤがそちらへ走り出すが、人の流れを垂直に掻き分けながらで10メートル進むだけでも一苦労だ。

そう四苦八苦している間に、どうやらそれを買おうとしているらしいホワイトスミスが斧を手にとってしまった。
思わずその三つ編みにされた白い後頭部をにらんでしまう。

「すいません!その斧下さい!!」

突然息巻いたアコライトが飛び掛る勢いで目の前に来て、それを売り出していたアルケミストが目を丸くした。

「ボクには早いんじゃない?これ60Mだよ」
苦笑いしながらそういうのはアルケミストの女性だ。
悪いが、手持ちは足りている。
それを買うための金を渡されたのだから。

「じゃあ、これ60M!」
「え、あ、いや、ちょっと待ってね。その斧はもうそっちのホワイトスミスさんが買っちゃったのよ。ごめんね。」
アルケミストがそういうと、セイヤはホワイトスミスの青年に向き直った。

その相手が思ったよりも美形で一瞬顔を赤らめた。
だがすぐに邪念を振り払って、セイヤは金をホワイトスミスに突きつけた。

「どうかそれを譲ってください!人の命がかかってるんです!多分!」
最後に"多分"とつけたのはひょっとしたらその斧を使うことなくあっさりヒショウ奪回ということもありえるからだ。
むしろそれが一番望ましいのだが。

「…訳、聞かせてくれ。」
青年は指でこっちに来いと示して、大通りから少し離れた路地に腰を下ろした。
そしてそこで席を作るように敷物を敷いて、ついでのように取り留めもないものを露店としてならべた。

「えっと…僕のギルドの先輩が、悪い組織に捕まったみたいで、それを皆で奪回に行くんです。」
「…その為にこの斧が必要だと?」
「僕にはその斧のことよく分からないんですが、マスターが今どうしてもほしいって。」

セイヤはまだホワイトスミスの手の中にある斧をじっと見つめた。
形から、血の跡のような模様から何から何まで禍々しい。
…血の跡のような模様というか、本当に血の跡なのでは。

「仲間を助けに行くならこの斧は要らない。」
「え…」
どうして、そう聞く前にホワイトスミスは答えた。
「これは殺す為の斧だ。助ける為の斧じゃない。」
そう言われると、斧の模様は確かに血の跡だ、と急に分かってしまった。

「この斧を使おうとするのは、君のマスターか。」
「は、はい。うちのギルメンで斧を使うのはマスターだけです。」
「じゃあ、マスターは人を助けるよりも、殺すことを望んでいる。」
「そんなことありません!」

セイヤは声を張り上げた。
「あの人はいつも楽しくて優しい人なんです!人を恨んだり、殺したりするような人じゃありません!人を殺すってことがどんなに罪深いことかよく分かってる人なんです!!」

セイヤの先輩でありマナの親友であるルナティスが人を殺してしまったと知った時、マナはメンバーの前で初めて泣いた。

『お前はきっと死ぬまで苦しむだろうな。お前が殺した二人の周りの人間が悲しみにくれるかもしれない。
それだけじゃない、二人が助けたかもしれない人や、二人から生まれたかも知れない何百、何千もの子孫達の命…それらをお前は奪ったんだから。』

彼女はあまりに繊細な刃のような言葉で、ルナティスの心を深く抉った。

『けど、お前もその二人と同じようにたくさんの人の命や感情を背負ってる、同じ人間だ。自分を責めることなんてするな。
それがお前自身だけでなく、お前の周りの人も傷つけて否定するってことはよく分かってるだろ?
あの自虐王のヒショウを好きになってずっとそばにいたんだもんな。』

『お前が殺した二人の命を無駄にするな。お前が奪った分の命を生かせ。
さっさと回復魔法とかもできるようになれよ。
んで、お得意の感染症プラス思考で周りの人間を助けてろ。
せっかくプリーストの法衣着てんだ、それ生かして一人でも多く人を助けることを考えろ。
…そうすりゃ、少しは罪悪感もまぎれるだろ…お前はそんな悲嘆に暮れた顔するよりも、バカみたいに笑ってる方が似合うんだよ、ルナティス。』

『てゆーかこれ以上このギルドの空気重くすんなよ。ヒショウ的キャラはもういらねーんだよ。』

ルナティスの心を深く抉り、その奥に新しい種を植えた、そんな感じだった。
許されたくなかった、でも責められたくなかった、そんなルナティスの心を誰よりもよく分かっていた、聡明なマスターだ。
セイヤはあの時、感動にうち震え涙したのを今でも覚えている。

優しくて、あんな言葉を発することができるマナが、人を殺すことを望むはずがない。
このホワイトスミスの言葉はなんて侮辱かと思った。

「……。」

セイヤの威圧に押される様子はなく、もともとぼーっとしたようなタイプだったホワイトスミスは視線を宙に浮かせ、何か考え込んでいる。
そして突然斧をセイヤの方に放り出して、脇に置いていたカートの中を探りはじめた。

「あの…。」
「その斧は譲ってやる、60M。」
突然そう言って手を出してくる。
セイヤは少し遅れて、握ったままだった札束の入った袋を差し出した。

「こっちはやる。」
袋と入れ替わりでまた渡されたのは、また違う斧だった。
十字架のような鋭くもどこか神秘的な斧だ。
なんだかものすごい高そうだった。

『セイヤー、待たせたな、もう戻ってきていいぞ。』

突然マナから入ってきたWISに慌てた。
「あ、マナさん、分かりまし…………」
慌てたせいで、WISに切り替えて話すのを忘れた。
当然、マナに聞こえるはずがない。

「誤爆、なむ。」
苦笑いしながらそういわれて、セイヤはうなだれた。
「…なむ、ありがとうございます…。」

一刻も早く動きたかったセイヤだから、すぐに立ち上がり、走り出そうとした。

「じゃあ、僕はこれで失礼します。…あ、この斧は…」
「さっきのとは対極のヤツだ。君のマスターを戒める意味でも、彼女に渡してやれ。金はいらない。」
「え…あ…そうだ、貴方のお名前は?僕はセイヤです。」
「…エス、だ。」

「エスさん、じゃあちゃんと無事に戻れたら、こっちの斧は返しに行きますから!」
「…そうだな、じゃあまた会おう。」
「はい!」
セイヤは斧を二本と、雑貨袋を抱えて宿へ走り出した。



そしてしばらく走ったころ、あのホワイトスミスを思い出して顔を赤らめた。
なかなか男前だったなとか、貫禄の割りに大分若かったとか思いながら。

転生二次職というのは一度体の最盛期まで若返るらしいからそれで若かったのだろう。
元はきっと熟練のブラックスミスだったはずだ。
彼は今フリーなのだろうか、年下の少年アコライトには興味ないだろうか、なんて思いながら、セイヤはエスにWISを送ってみた。

だがそのメッセージは全く届くことはなかった。







「…これだから、アサシンは嫌いだ。」

マナは吐き捨てながら、白と赤の体液に汚れた手を床に落ちていた布切れに擦り付けた。
鍵がかけられ、カーテンが閉められ、昼なのにランプの明かりがともった薄暗い部屋。
そこにいるのは血に塗れたナイフを指先で弄ぶマナと、四肢をそれぞれベッドの端に括り付けられて猿轡を噛まされている男。

男は時折轡の奥から嗚咽を漏らしている。
けれどその目は責め苦が始まってから一度も開くことなく、涙を流すことも全くない。薬を大量に入れて、全身の五感は鋭く澄んでいることだろう。
「まさかこんだけされてて、ずっとヨかっただけなんてことないよなぁ?ひょっとしてアタシ、変態マゾを2時間喜ばせてただけ?」

カンに障るように言って、赤い線が歪に刻まれた胸、その中央の赤い突起に指を沿わせる。
そこにはもう裁縫用の針が通っていて、ぐっと動かせば赤い血が挿し穴から僅かに滲んだ。。

「…さっさと吐けよ、ずっとてめえの汚い姿見てたくなんかねえんだよ。」

猿轡の奥でくぐもった声がする。

『クソアマが』

聞き出したいサバトの情報の代わりにWISで返されたのはそんな答え。
マナは反対の手で掴んでいた短剣をアサシンの腕に突き刺した。
2本の骨の間を縫って肉を裂き、切っ先はベッドに突き立った。。

「…もー時間ないし、仕方ない。これがラスト。」
短剣を手放し、カートからだした斧を持ち上げ、アサシンの首に添えた。
次で答えなければどうなるか、言われずともよく分かった。
アサシンはそれでも目を開かず、怯えた様子も見せずにいる。

「ほんっとアサシンて嫌い。貧弱なくせにすばしっこくて逃げ足速くて、捕まえてもスカしてばっかだし。」
マナは苛立たしげに声を上げて、アサシンを見下ろす。
だが相手は相変わらず目を瞑ったままで、まったく感情を見せない。

『…殺せ。サバトに行き着く前にお前が騎士団の牢にぶちこまれるがいい。』
「ああ?もしかして、それで殺されるわけがないとかタカくくってたの?
その前にアンタズタズタにして海に放り投げて今流行りの水死体にしてやるよ。」

恐ろしく冷たい声音。
アサシンは目を硬く閉じていたが、もし開けていたらマナに驚愕していただろう。
その氷のような視線、影が差し恐ろしく変わり果てた表情。

「私はあるアサシンを殺す為に20年生きてきたんだ。残酷に、凄惨に殺す為に。
せっかく丁度イイ、アサシンの練習台がいるのに、時間がないのが惜しいな。
せめて殺してからたっぷりヒドくしてやるよ…。」

壊れたように笑いながら、マナは構えた斧を振りかざす。

「…ああ、そうだ。最期に聞いておこう。」
まだ振り下ろされない斧に、アサシンが息を呑んだのが聞こえた。

「モロク地方のアサシン…浅黒い肌に黒い髪、鮮やかな金目のアサシン、歳は…今は40近くだ。知ってるか。」
「………知らない…。」



「ふん」

マナの短い吐息。
そして振り下ろされた斧の鋭い風切り音とおぞましい轟音。

「…っ!」
斧がベッドを深く切り裂いた。
だがアサシンの首には触れず、その脇に刃を食い込ませただけだった。
ベッドに繋がれた男は肉塊と化してはいない。

始めてアサシンが肩を恐怖で震わせた。
猿轡を外されても、引き締めた唇を開くことができずにいた。

「知ってるな、お前。」
そこに追い討ちをかけるようにマナが切り込む。
「てめえが一人前のアサシンなら、私が聞いたとき『知らない』と即答したはずだ。」
「……。」
「死の恐怖に最期の最期で冷静な判断を失ったな。」
「……殺せ…。」
「お前みたいなヒヨッコ殺す気になれねえ。」

斧をベッドから引き上げカートに投げ入れた。、
「これ以上は聞きだせないだろうしな。勝手にどこにでも尻尾巻いて逃げるがいいさ。」

「…っアサシンを、憎んでるんだろう…殺せ!」
「ガキじゃないんだ、片っ端からぶっ殺してるわけないだろ。
私が殺したいのは一人だけだ。お前なんか眼中にない。」
「…っ殺せ!!殺せ殺せ殺せえええ!!!」

喚くアサシンのこめかみを斧の柄で強く打ちつけた。
鈍い、嫌な音がして、彼は意識を手放した。
全身に醜く残るまでの傷をいくつも刻みつけたのだ、もう息も絶え絶えになっておかしくなかったはずだ。

「…喚くな…本当に、殺したくなる…。」

マナがうなるように呟く。
斧を投げ捨ててその場に蹲った彼女の頬には涙が伝う。

「…ごめん…だめだった。」

彼女が呟く相手は、ここにはいない。