ギルドを抜けろと言った四人は結局拒否した。
マナもルナティスも、信頼しているから皆をギルドに加えたのだ。
四人がサバトに関わってしまっても構わない、このギルドの隠れたメンバーのことを口外しない…そう言うのなら追い出すつもりはなかった。
そしてやはり四人は残ったのだ。

「じゃあ、突入の前にマスターに挨拶なー。」
サバト本部が隠れる森を突っ切ってきて、突然マナが足を止めて言った。
突入、ということはここは敵に察知されるぎりぎり範囲外なんだろう。

「もうマスター達は通信拒否解いたはずだから、冒険者証のギルド欄の空いてるとこに名前かけばギルチャで通じる。」
そしてマナは斧の柄で地面に名前を書いた。
“SHADY”
“SINLIR”
『おはようマスター、シンリァ。久しぶりー』

マナのギルドチャットの呼びかけに、返事を期待する後輩三人がやたら緊張している。



『おはよう。』
『おはよう、お久しぶり。』
聞き慣れぬ若い男女の声がした。

『キタアアアア!!!!はじめまして!!!!』
『うおーマスター!!!!なんか無駄に感動する!!!!』
『わ、わ、緊張しますわ!!!!』
後輩が口々に叫んで、途端にギルドチャットは賑やかになった。

まだ見ぬ二人も向こうで笑っている気配がする。
『初めまして。マスターのシェイディだ。』
『シンリァよ。緊張してるとこ悪いけど、もっと緊張してもらうわ。貴方達、もう奴らの標的になってる。』

突然のシンリァの言葉に、皆は声を上げるのも忘れた。
命の危険を突然知らされて冷静さを失った。

『この森全体がもう監視下だったみたいだ。』
『マスター達は今、皆の後ろで交戦中よ。合流は建物内になりそうね。』

『…私らはこのまま進んでいいか?』
二人の報告を聞いて、冷静に聞き返すのはやはりマナだ。
『後ろは俺達が守る。前にはギドとシンリァが付いてる。』
『遠慮なく突っ込んで。私達が全力をもって守るから』
頼もしい言葉に恐怖と緊張に固まりかけていた一同が少し肩の力を抜いた。

『…囮なんてさせてすまないな。』
シェイディのそんな何気ない謝罪。
皆再び足を止めた。

『…僕たち、囮だったんですか?』
思わずセイヤが聞いた。

『…マナから聞かなかったのか?』
怪訝に問い返してくる彼に、マナ以外の一同が一斉に『聞いてない』と言い切った。
当の本人は知らんふりしてずかずか進んでいる。





痛い。
痛い。
それしか考えられない。
四肢と首を絞めるように固定する革の錠ではなく、腕にいくつも刺さる細い針でもない。

絶え間なく聞こえる子供達の泣き声が痛い。
耳ではない、心か脳に聞こえる。
悲しくて寂しくてあげる声なら、同じく悲しく寂しくなるだけ。
でもこの心がこんなにも痛いのは、子供達がそれだけの痛みを今伴っているから。

「…殺して…くれ…」
そう呟くのはきっと、自分ではなく聞こえる声の主達だ。



「もう、殺して…助けて…」
周りの人間達は皆同じ顔して機械的に動く。
この声が聞こえる相手なんて、きっとここにはいない。
この世界にはいない。

ナラ、ナンデ、ワタシハ、ウマレタノ…



「…っ!!」
“ヒショウ”は突然我に返り、息を呑んだ。
今、何かが…誰かが、頭の中にいた。
泣き声は相変わらず聴覚にしっかり響いている。
あまりに悲痛で悲しい。

この白い冷たい場所が世界の全てではない。
教えてあげたい、開放してあげたい、助けてあげたい。
この世界から外へでることが幸せかなんて分からないけれど、そんな悲痛な声をあげるくらいなら。
ウォルスへの贖罪のつもりでここへきたけれど、彼と同じようにまだ苦しんでいる子がいるなら、助けたい。

けれど、この体はどうしても動かない。
無機質な台に括り付けられていて、それでなくとも体に力は入らない。
声すらあげられず、唸るような声が微かに漏れただけだ。

「…異常なし、変化なし。」
「また、無駄だと思うがな…。」
すぐ耳元に聞こえるはずの声なのに、男か女かも分からなくて、この子供の泣き声よりも遠くに聞こえた。
彼らはヒショウの体を二人がかりで起こし、自力でたつように促した。

自分の体ではないように思えたが、以外にも両足はしっかりと地面について体を支えていた。
けれど歩くように促されるとおぼつかない。
「…覚醒するまえにさっさと放り込め。」
そんな支持が周りの白い服の人たちに出されて、ヒショウは朦朧としながらも言いようのない不安を感じた。

視界は暗い。
左右を人に挟まれて、冷たい廊下を裸足でひたひたと歩く。
進む先に、あの泣き声が強く聞こえている。
処刑台へ進まされている気がしたが、早く助けにこの先へ行きたいとも思った。

「…っ…」
左のこめかみがずきりと痛む。
廊下を進むごとに痛みは増す。


そしてある部屋に足を踏み入れた瞬間に、痛みは四散して視界も戻ってきた。
「―――っ!!!!!!!!」
部屋の中には、頭の中に響いていたのと同じような子供達の悲鳴がしていた。

全身の血がざわめく。
助けなければ。
その気持ちだけで、力が入らなかった足を動かした。

「…おい!?待て!!」
部屋の奥には、子供達が檻に入っていた。
だがこの声はこの子供達ではない。
皆、薬を打たれたのか、視点の定まらぬ目をくりくりさせてヒショウを見たが、何も反応を示さない。
彼らの向こうにガラスの壁があった。
その奥で、何かが光っている。
明るい部屋で尚、輝き帯電して踊る、小さなプールに入れられた水。

その中止で、子供が一人、浸かったまま尋常ではない泣き声を上げている。
その声を聞いた瞬間、脳天を金づちで叩かれたような鈍痛がした。

『嫌だ助けて!“食べられる”!助けて助けて!!死にたくない!!死にたくない!!!』

子供が悲鳴の下で叫んでいる言葉。
「っ!」
係員が後ろから止めにかかる前に、全力でガラスの壁を叩き割った。
それはあっけなく崩れ落ち、人が二人くらい通れるような穴を開けた。
そこを抜けて、ふらつきながら必死にプールに駆け寄った。

係員が必死にヒショウを止めようと部屋に足を踏み入れる。
『止めるな。』
そうした途端に、部屋に男の声が機械ごしに響き窓ガラスを震わせた。
サバトの頭領が、監視部屋から見ているのだろう。

『新しい実験結果が取れるかもしれない。』
平淡な頭領の声に、係員は迷いなく従い、割れたガラス壁の外へ出た。
その部屋では何が起こるかわからないからだ。

ヒショウはふらつきながらも何とかプールにたどり着き、倒れ込むように飛び込んだ。
「……!!!!」

一瞬出た悲鳴は、声にならなかった。
痛みとは違う。
何かが身体の中を突き破ろうとはいずり回る。
早くここから出ないと、この身体は粉々に吹き飛びそうだ。

声を噛み殺し子供に近寄った。
まだ10にも満たない少年と間違うような女の子だった。
目が痛くなる光の中で、身体の中から溶けだしてしまったように、目、口、鼻、耳から鮮やかな血を流している。
血の気が引いて、その子を引き寄せて腕の中に閉じ込めた。

腕を引いただけで、ちぎれやしなかったかと心配になったが、確認する余裕もなくすぐに外へ出ようと水の中を歩き出した。
だがすぐに動けなくなる。

水が突然、氷になってしまった。
いや、なっていない。
固まってしまったのは、身体の方。



「っ!あ…あ!あ あ あ!!!!」


痙攣した喉で掠れた悲鳴を上げた。
身体の中で、何かがうごめく。
脳を突き刺してくる。
血が逆流する。

足元に何かが集まってきて、身体に入り込む。

「ッアァ!く、るなあああああああああ!!!!!!」

叫んで、死に物狂いで足を動かした。
一歩、二歩。
進んだ瞬間、身体にはい回っていたそれが、音を立てて割れた。

ヒショウの身体ごと。

「―――……ッ…」
彼は子供を抱えたまま、水の中に飛沫をあげて崩れ落ちた。
光を失った瞳で水の中に何を見たのか。
唇は震えるように、でも確かに動き誰かを呼んだ。



ルナティスとレイヴァを先頭に一同は“侵入”した。
まだ建物の外だと言うのに、敷地のあらゆるところからわらわらと武装した者達が現れる。
正式な冒険者か知る所ではないが、その技術を修めたもの達で、一気に皆ピンチに陥った。

だが、まだ戦わぬ内から敵陣で戦闘不能者が続々と出ていた。
皆バタバタと倒れ、勝手に皆が混乱する。
それに乗じて、ルナティス、マナ、レイヴァが先陣を切って突っ込み、メルフィリア、ウィンリー、セイヤがサポートに回る。

それ以外に、何者かがいる。
そう誰かが気付いた時には遅い。
敵の一人がルアフを唱えると、音もなく、しかし凄惨に人間を切り伏せていく暗殺者が二人舞っていた。
もうその二人も、囮であった敵陣すら止める力はその場にいた者達には残されていない。

なすすべなく、明らかな戦闘力の差の前に、サバトの人間達は伏した。



「清掃」
「完了」

決め台詞とばかりに、静かで凄惨な暗殺者二人は、呟いて短剣の刃から血を振り払った。
きっちり仕事をした風だが、その場に倒れている人間は皆唸っていて、誰も絶命していない。
その光景に、ただの殺戮を見た以上に驚く一同だ。

雰囲気からアサシンと分かるが、まだ見慣れぬアサシンクロスという上位職を目の前にするだけで緊張が走った。
不意に、黒い肌のアサシンクロスの青年はまた風のように忽然と姿を消した。
そして同じアサシンクロスの女性がインビシブルのメンバーに歩み寄った。
いや、彼女もインビシブルメンバーである。
その胸元には白い鷹を模ったインビシブルのギルドエンブレムが光っていた。

長く艶やかな黒髪と大きな黒い瞳と、白い肌のコントラストが美しい。
さっきまで敵陣をかけていたとは思えないほど、人形のようにかわいらしい若い女性だった。

「久しぶり、とはじめまして。さっきも自己紹介したけど、アサシンクロスのシンリァよ。」
ふわりと桃色の唇に笑みを浮かべると一層綺麗で、その場の誰もが思わず見惚れた。
だがそれを掻き消したのは彼女自身だ。
「さて、あまりゆっくりもしていられないわね。」

シンリァは静聴を促すように笑みを消した。
「皆には固まって行動し、敵を撹乱してもらうわ。さっきもう一人いたアサクロ、ギドがその隙に虱潰しにヒショウを捜す。
マスターが追い付いて合流し次第、私も捜索に回るけれど。」

「やっぱうちらだけじゃ危ないか。」
マスター・シェイディの配慮かもしれないが、マナがあまりの過保護な指示を怪訝に思った。
「…過去のサバト討伐記録は見たのよね。」
「話に聞いただけだが。」
「じゃあ、あの惨劇が少女一人の仕業だというのは?」

思わず言葉を失い、知らなかったという返事代わりになった。
「私達が警戒してるのはその少女…今は多分成長してるでしょうけど。あれと遭遇したら、私達でも太刀打ち出来るかわからないわ。」

緊張した面持ちで言ってから皆が黙り込んだのに気付いて、無闇に怯えさせてしまったかとシンリァは慌てた。
「まあ、最善は尽くすわ。私達だって今まで何とか乗り越えてきたし、頼りになるマスターがいるしね。」
さっきとは打って変わって明るく言う。

彼女はルナティスの肩を手で叩いた。
「いつまでもルナに心配かけさせてるあの子を連れて、さっさと帰りましょう?」
ヒショウのことだろう。
ルナティスは言われて、不安は拭えないが自分に言い聞かせるように強く頷いた。

『シンリァ、奴と接触した。』
『ギド!!?』
なんとか場を明るくしようとして、早々それか。
シンリァはまさか彼がやられやしないかと、不安になって強く名前を呼んだ。
“奴”、それは皆が警戒している少女の呼び名だからだ。

『クローキングしているが、気付かれてる。場所まで分かっていないようだが、獣並の直
感だな。』
『場所は!』
『入ってすぐだ。まともに建物に入れば飛び掛かってくる。クローキングをしても、動けば一発だ。』

シンリァは小さく舌打ちした。
それを皆がまた不安そうに見てくるが、今度は気遣かっている余裕はない。
『ギドと“奴”が…例の少女が接触。互いに牽制中のようよ。』



少し遅れてシェイディからの言葉が返ってきた。



それから僅か3分後には―――
「………。」
一同は沈黙の中、命のやり取りをしていた。
目の前には唸り食いつく機会を伺っている獣。
それはギドとシンリァが“奴”と言っていた、彼女らがもっとも警戒していた少女だ。

結局、ルナティス達も全面的にその少女と対峙している。
だがみんなを守るようにアサシンクロス二人が獣へ対抗して野性的な殺気を以て牽制している。
だから未だ衝突もなく向かい合うだけで済んでいる。





『突っ込め。』
それがシェイディの判断だった。

声に冷たい印象を覚えた。
だがヤケになってるわけではない。
真剣に悩んでの決断だ。
彼の決断はいつでも間違いは無かったことをシンリァは知っていた。

『今回はギドとシンリァはどちらも欠かせない。なら合流し、見晴らしのきく建物内で待て。』
『万が一、突破出来たら?』
『それでも待機。ギドがヒショウ捜索する以外は、入口で待機しろ。』
『わかった。』

『無理に突破するな。30分持たせろ。』
シェイディが言い聞かせるように強く、ゆっくりとそう告げた。
『30分?』
聞き返したのはルナティスだった。
シンリァはただ参謀であるシェイディの指示を黙って聞くという習慣が身に付いていた為に聞き返そうとも思わなかった。

『ここ最近の水死体に悩まされている自警団と、サバト討伐に失敗し惨敗した時代の奴らにタレ込ませた。
あと僅かで後ろ盾が来る。30分で陥落とまでは行かないが、優勢になるには30分で十分だ。』
『30分てのは、短いようで長いけどね。』
シンリァが皮肉げに言うが、やはり彼の読みを不信に思っているわけもなく、すでに万全の戦闘態勢に入っていた。




そしてこの場に至っている。
ギドとシンリァも全神経を張って警戒する中、誰もが動けなくなる。
30分持ちこたえろという指示はつまり時間稼ぎを優先しろということ。
戦わずに済むならそれに超したことはない。



だがそこに波紋を打たれた。


「……っ!!!」

ルナティスが身体を震わせた。
頭に響いた、悲鳴にならぬ悲鳴。
今まで、何度も聞いた。
もう聞くこともないと思っていた。

ヒショウ――アスカの悲鳴。
彼の精神が無意識に送る、WISに近いものだ。

ルナティスは咄嗟に走り出した。
「ルナ、待て!」
シンリァが止める手に止められたが、投網にかかりもがく魚のように彼は暴れる。

「アスカが!アスカが!!」
ルナティスが必死に叫ぶ。
だがその声は次には呑み込まれた。
ルナティスの目の前で鋭い鉄の鉤爪が突き出され煌めいていたからだ。
あの赤い髪の女性はルナティスを引き裂こうとしていた、だがシンリァに首元に短剣の刃を向けられ阻まれた。

一瞬崩れた沈黙が、また再び訪れた。
シンリァの心臓が酷く煩く鳴る。
こんな牽制がこの“獣”にきくとは思えない。
姿が見えぬ程の動きの前ではシンリァの速さも技術も無意味。

さっきまでは、間合いの外であったからなんとか均衡が保っていたのだ。
ここまで近づいた時点で、もうシンリァの負けだ。
負けのはずだった。

だがまだこうしてシンリァが刃を向けたまま沈黙を保てるのは、“獣”が戦意を喪失しかけているから。
彼女は緊張に鼓動をならしながらも、頭の隅で「何故この番犬の少女が襲いかかってこないのか」と怪訝に思っていた。

「…ぁ、うぁ…?」
ルナティスを血のような瞳で見つめながら“獣”は唸った。
それにルナティスが目を見開いた。
合わさった視線には、敵意は感じない。

「…アスカを、知ってるのか。」
彼女の唸り声を、ルナティスは『アスカ』と聞き取った。
彼がそう聞くが、彼女は刃を向けたまま呆然としているだけ。

「ア、ウアァ!」
もう一度、泣き叫ぶように彼女は唸った。
さっきのルナティスのように、必死に。
そして背中を向けて建物の奥に走り去っていく。
あの脚力だ、シンリァが反応する間もない。

「なん、だ…あの女…」
シンリァは解けた緊張に思わず安堵のため息をついた。
「…アスカのことを知ってた。彼女にも、悲鳴が聞こえたんだ。」
「…悲鳴…。」
シンリァが手を放すと、多少は落ち着きを取り戻したルナティスだが、すぐにまた足を踏み出した。

間髪入れずに彼にマナの拳が飛んだ。


サイドから頬に全力で叩き込まれ、倒れはしなかったがふらついた。
「頭冷やせ馬鹿。ヒショウが心配なのは分かるが、さっきのはあの女も冷静だったらシンリァとお前の命はなかったぞ。」
「………。」
「以降、シェイディの指示通りにするぞ。私らは待機だ。」
「……分かった、ごめん。」

彼の目に涙が滲むのは、殴られて腫れかけている頬のせいではないだろう。




彼は幼い時から傷付いてきた。
もう、誰にも傷付けさせないと決めたのに。









光る水の中に沈んだ男を、サバトの頭領はじっと観察していた。
あの水に浮力はない為、彼の様子は水の奥に消えて確認できない。そして誰もあの水に触れることはできない。
あそこに今まで、子供から大人まで何人も放り込んできたが、あそこから出てこれた人間は一人しかいない。

それがルイだ。
精神の崩壊だけで、彼女はあの水の中から生還し、尋常ではない力を手にしてきた。
文献の通りに。
何故、彼女だけが生きてあそこから出てこれたのか、それを調べる為に努力してきた。

ルイが同調した相手ならばと思ったが、どうやら彼はただの人間。

「また、駄目か…」
今回も失敗。
あのまま水の中で溶けて消えるのを待つのみ。
落胆の溜め息をついた。
その時。

「!!」
水が脈打った。



光の中、あの男が、起き上がり水から上半身を出している。
頭領は防弾ガラスに手をついて覗きこんだ。

周りにいた部下も身を乗り出して凝視している。
皆、この実験の目的も知らずに人間をあそこに放り込む単純作業をしていた。
その結果が現れようとしているのが気になるだろう。

「…よく見ていろ。」
彼が言った言葉は部下にだけでなく自分への言葉でもあった。
「再来だ。」

ニブルヘイムより持ち帰られた文献の一つ。
多くある魔の泉の一つ。
それはかつてニブルヘイムの王を生み出し、あの死者の国では今なお亡者をモンスターと化して生み出しているという。
そして生み出されたニブルヘイムの王は…元は生きてその泉に沈められた人間であったという説だ。




「っ!!!」
気が付けば必死に水をかいてプールからあがっていた。
水を飲んだはずなのに、不思議と息は詰まっていない。
だが異様に身体が重い。

次に感じたのは酷い喉の渇き。
情けなく口を開けて、喉で息をした。
さっき必死に助けた子供はちゃんと腕の中にいる。
いるのに、紙のように軽い。

『その男を殺せ』
「っ!?」
突然部屋に拡声器で響いた声に身を震わせた。
ガラスの向こうにいる頭領を見たが、視点が合わなくて怒っているのか笑っているのかわからなかった。

指示に従ってヒショウが割った方のガラスと、その脇にあった入口から武装した者達が入ってくる。
皆、冒険者証はないがその力は得た者達だ。
二人程、弓矢を放ってきた。
それをバッスステップでサイドへ避けた。

「?!」
少し動いただけで頭がくらくらした。
だがそれよりも、自分が予想以上に跳んで部屋の隅にまできてしまったことに唖然とした。
いや予想以上なんてものではない。
ありえない距離。
向こうまで何メートルあるのか。
だがその距離がやけに短く感じた。
「っ!」
子供を抱えて、その距離を一足飛びに。
風を切った。

敵一人に体当たりをすると、その男は怪物に突き飛ばされたかのように隣の部屋までガラスを突き破って吹き飛んだ。
そして出来た退路に駆け込んだ。
「……。」
一瞬、ヒショウは隣の部屋で捕われとなっていた子供達を見て悩んだ。
彼らはもう正気ではないようで…檻を開けてやってもヒショウにはこの人数を助けてはやれないし、彼らも自ら逃げ出すこともしないだろう。

そして彼らを助けることは諦めて振り切った。
悩んだのはほんの一瞬。
逃げ出したヒショウにすぐさま敵のハンターが矢を放つのには十分な時間だった。

だが矢が放たれ突き立ったとき、もうヒショウはそこにいなかった。
クローキングやハイディングではない。
走って逃げたのだ。

一連のやりとりを見て、サバトの頭領は笑っていた。
「やはり…同類だったのか…。」


「……っ」
喉が、カラカラだ。
眩暈がする。
思わず走るのを止めて白い床にはいつくばった。

何故こんなにも苦しい。
体は異様なまでに軽いのに。

「いたぞ!始末しろ!」
霞む視界の向こう、進路先に敵が見えた。戦いたくとも腕の中にいるこの子供を抱えたままでは無理だ。
後退しかない。

「ギャアアアアア!!!!」
突然、敵側で悲鳴が上がった。
ヒショウは振り返り止まった。

「ルイ、何故…きゃあああああ!!!」
サバトの人間を、ルイはまた“あの時”のように食い散らかしていた。
目の前で、剣をへし折られた女性が血飛沫を上げて床に転がった。
一気に死臭が立ち込めた。

5人ほどいた。
皆、一瞬で物言わぬ残骸となった。
「……。」
ヒショウは近寄ってくるルイを呆然と見上げた。
不思議と、あの床に広がる血溜まりも、ルイから香る死臭も不快に思わなかった。

「助けて、くれたのか。」
サバトを裏切って。
ルイの表情が無表情のはずなのに柔らかに笑った気がした。

ルイが背を向けて進む。
そして着いてこいと、ヒショウをまた振り返った。







一同は順調に、ばらばらに押し寄せてくる警備を潰しながら援助を待っていた。
殆どが、ここの“番犬”任せだったのだろう、彼らの統率はなっておらず楽につぶせている。
しかしその数は実に少ない。
数年前に教会の驚異であった組織とは思えなかった。

「“逃走してる何か”に夢中で“侵入してる何か”には気が回ってないのかな。」
ルナティスはチェインを振り汗を拭いながら呟いた。
「余程大切なものか、とんでもないものが逃げ出したんだろうな。」
マナが彼の呟きに付き合い、伸びを一つした。
敵は手強くはないし散っているが、数がいる。
二人だけではない、シンリァ以外は皆疲れが見えていた。

「…シンリァ。」
少々不安に思っていた。
シンリァは汗ひとつかいていない。
体力があるのもそうだが、彼女の動きが悪いのだ。
何か他のことを気にかけている。

『鼠がついているわ。』
不意にシンリァが口にした言葉は、やはりシェイディを頼っていた。
『…殺気も生気もない…まるで空気か幽霊だわ。』
彼女のそれに返すシェイディの声は冷静だった。
『ギドをまた呼び戻す。それで警戒体勢で待機だ。』

了解。
そうシンリァが言葉を飛ばした瞬間、影が走った。



常に警戒していたシンリァは刹那に反応し、小ナイフを弾丸のように僅かな動きで繰り出した。
それは音もなく壁に突き立った。
そこはマナの傍ら。

黒いマントがマナの前で跳躍を止めて翻っていた。



「―――…。」

マナの瞳孔が開いた、それに誰も気付かない。
いや、ただ一人はそれが見えただろう…今彼女に飛び掛かろうとした黒いマントの張本人。

黒の中に、鮮やかな金の瞳が揺れていた。



「マナ!!!!」
敵は退いたのに、マナはすぐに駆け出していた。
勝手な行動をするなとルナティスに説いていたのはマナなのに。
慌てて全員が追いかける。

白い広くないまっすぐな通路で、目標の男の後ろ姿は黒く目立った。
「待て、罠だマナ!!!!」
シンリァが必死に叫んだ。
左右の壁際に敵が潜んでいるのを彼女は察したからだ。
だがマナの足は止まらない。
シンリァの手が、彼女の靡く髪を掴もうとした。

「っ!」
だがそれを阻むようにナイフが、シンリァの腕に突き立った。
反射的に退くの自制し、それでもマナを止めようとした。
だが左右に潜んでいた敵が、シンリァに向かって切り掛かってくる。

やむを得ず彼女はマナを止めるのを諦め、両手の短剣で左右からくる剣劇をそれぞれ促した。
右に体格の良いローグの男。
左に若いローグの女。
その奥からモンクの女が姿を表した。

「マナ!!」
ルナティスが叫ぶが、彼女は振り返ることもなく、その敵三人の向こうへ消えた。
「何で、マナさんを!」
セイヤが一人でみんなに支援をかけながら叫んだ。

「べっつにー、あのねーちゃんが好みだったからァ?」
男ローグがニヤニヤ笑いながら言う。
それに向かい側の女ローグがため息をついて、シンリァ達に答えなおす。
「…お前達が知る必要はない。」











「やっと…」
息が整わないのは疲労のせいではない。
興奮。
それが怒りからくるのか、喜びからくるのかはわからないが。

「やっと、見つけ…た…」
マナの唇がくっきりと笑みに浮かぶ。


だが瞳に浮かぶのは―――