「お姉ちゃん。妹が呼んでるわ、いいえ弟かしら?」 母の声、視界の先で淡い金の髪が靡いている。 外は雨季に入ったせいでずっと暗いけれど、木の壁一枚隔てた室内はとても暖かく和やかだ。 母が差し出す手をとると、そっとそのお腹に添えられた。 この中に自分の妹か弟がいる。 とても不思議だけど、でもまだ顔も見ていないその子はいい子に違いないと思って、可愛く思えた。 昔飼っていたウサギにするようにそっと母のお腹を撫でると、母は嬉しそうにこちらの頭を撫でてきた。 「マナ、この子のお名前は何がいいと思う?」 ずっとずっと考えていた。 そして妹にしても弟にしても、この名前がいい!と心に決めていた。 だが、今となっては母のその質問になんと答えたのか…覚えていない。 「まあ、素敵ね。」 母は名案だ、と喜んでくれたのに。 「…どうか…マナも、……も、幸せになれますように。」 曖昧な母の祈りだが、実に切実だった。 父と母が何かから逃げるように、怯えていたのは分かっていた。 街に出れば名工と言われるであろう腕を持つブラックスミスの父は、この山奥から消して出ようとしなかった。 街に出られるのは時々でも、街より山が好きだったからマナは満足していた。 ただ幸せだった。 両親がいる、それだけで変わらぬ幸せが彼女の手にあった。 美しい声の母だった 優しい声の父だった 髪や肌や瞳の配色をうっすら覚えている、が顔がはっきり思い出せない。 生涯のほんのわずかしか共に生きれなかったのだから。 でも何より覚えているのは、自分が二人を大好きだったことと―― 「…マナ…」 母が柔らかい温かい腕で抱きしめてくる。 その手は震えていた。 触れるお腹はもう大きくて固い。 もうすぐ自分の弟か妹が生まれるから。 そして家族が増えてもっと幸せになれる…筈だったのに。 「愛してるわ、マナ。生きて…っ…」 一際強く抱きしめると、母は娘を床下の奥深くに押し込めた。 「どうすればいいか、分かるわね?静かにね…?」 嫌だ。 どうすればいいか、分かる。 でも嫌だ。 その先で、自分は全て失って独りになることも分かっているから。 泣いて、母にしがみつこうとしたら…振り切るように扉を閉められた。 暗闇の中に一人、取り残される。 「お願いよ、マナ…!あなたは生きて!」 母の必死の叫びを最後に、辺りは静寂に包まれた。 母の言いつけを守りたくなかった。 みんなと一緒にいられないなんて嫌だ。絶対に嫌だ。 必死に、床下の物置にあるものを使って天井の扉を破ろうと葛藤した。 どれだけ時間がかかったかわからない。 一時間もかかっていないだろうが、それくらいもがいていた気がした。 ついに一カ所穴が開いた。 そこを拠点に穴を広げ、なんとか這い出し、そして狭い家から土砂降りの外へ飛び出した。 視界が悪いが、すぐそこに人影がいくつも見えた。 父はブラックスミスだった。 それ故に逞しかった腕は、今肘辺りまでしかなくなっていた。 斬られたのだとわかる前に…向かい合っていた人影が父にぶつかった。 ただぶつかったように見えた。 だが父の背から…銀色に輝く刃が飛び出す。 妻が雨の中で泣き叫ぶ。 娘は離れたところで呆然としていた。 父が、崩れ落ちる。 その間際、父は娘に気付いた。 だが何も言うことなく、訴えることも囁くこともなく、土砂の中に倒れこんだ。 「いやあああああああ!!!」 母が、こだまさせた悲鳴は金切り声のようだったが、不思議と美しく響いた。 悲劇を盛り上げる音楽のように響き、雨に溶けた。 その中心である彼女を影がいくつも取り囲んで、連れていく。 連れていかないで、マナは叫びながらおいかけた。 だが母との間に影が立つ。 見上げ、息を呑んだ。 背の高い、黒い肌、黒い髪の男。 その黒の中で、瞳だけが金に輝いていた。 「……っ」 その手にはカタールのような形の刃物。 赤くこびりつくのは父の血。 打ち付ける雨が、少女を、その父を、彼を殺した男をぬらす。 三人の体をぬらすと同時のその場の空気も凍りつかせていく。 少女は恐怖に動けずにいたが、耐え切れずに大声を上げた。 「うあああああああ!!!!!!!」 怖い、憎い、悔しい、思いが溢れ、飛び掛かることもできずに泣き叫んだ。 「おとおさん、おかあさあああん!!!!」 悪夢、酷い、昨日まで、朝まで、何もなかった。 幸せだったのに。 それでも、目の前の仇には手も足も出せず、恐怖と憎悪に葛藤しながらその場で泣き叫ぶしかできなかった。 金の瞳はただちっぽけな少女を見下ろす。 だが、不意に興味ないとばかりに背を向けて歩き出した。 少女は雨の中で、ずっと泣き叫んでいた。 あの金の瞳、父を貫いたあのカタールのように鋭い。 あの黒い肌、髪、あの土砂降りの空のように昏い。 忘れるものか、死んでも忘れるものか。 いつか、成長して強くなったら、父の仇を…そして母を取り返すと誓った。 あの男を殺すために、無力な自分を殺して…。 「…お前を殺す為に、私は生きて、きた…っ」 涙が溢れそうだった。 あの悲劇を思い出してか…やっと出会えた仇に歓喜してか。 『マナ!』 『マナさん!』 仲間達がギルドチャットで口々に叫ぶ。 『殺すな、マナ!そいつは』 マスター・シェイディの声がした途端に、マナは腰につけていたギルドエンブレムを冒険者ライセンスごと引きはがし、地面にたたき付けた。 仲間といて楽しかった日々も、冒険者としての機能・保護も今のマナには邪魔だった。 「うあああああああああ!!!!!」 彼女は一気に踏み込んだ。 あの日、あの雨の中で泣き叫んだのと同じように声を上げて。 でも今度は無力に泣き叫んでいるわけではない、強く早く敵の方へ踏み込んでいる。 その一歩が、先ほど地にたたきつけた彼女の冒険者ライセンスを踏み潰し、砕いた。 血塗られた斧を叩き下ろす。 相手は酷くふらついた様子でそれを避けた。 だが繰り出してくるカタールは弾丸のように綺麗な起動でマナに突き刺さる。 彼女は少し体を反らしただけだった。 カタールの切っ先は彼女の肩に突き刺さる。 だがそれを受け流すこともなく、真正面、骨でまで受け止めた。 「くたばれ!!」 マナの悲鳴混じりの怒号で、腰にもうひとつ携えていた斧が繰り出された。 先程手放した血塗られた斧とは対を成す癒しの斧。 それは女の憎悪と殺意をともなって男の腕に突き立った。 避けない。 この戦いの先に生きることを見ていないから。 それは二人共に同じであると、互いの動きから察した。 斧を受け止めた男の腕が、ボトリと落ちた。 浅黒い肌を纏う腕。 無機質な人形のようだがちゃんと血も流れ出ている。 マナがマントのフードに隠れた顔へ頭突きを繰り出した。 両手共に斧を手にして塞がっていたからだ。 不意を付かれて男はそれを受けてしまったが、即座にくるであろう第二撃は喰らえば命はないと、それは飛んで避けた。 激しく風を切って、赤い斧が男の目の前を掠り、翻ったマントを切り裂いた。 肩を骨まで砕く傷を負いながら、両手でなければ扱えない斧を片手づつで扱っている、マナは正気ではなかった。 ブラックスミスのスキル、オーバートラストとアドレナリンラッシュ。 共に術者にバーサーカーのような状態を齎すものだが、規定がある。 術者が理性を保てる限度と正気に戻れる限度。 彼女はもうそれを完全にオーバーするまでにスキルを発動していた。 鍛え上げられていたが女性らしく滑らかだった肌の下に、血管が浮き上がり、白目も赤く染まって瞳孔が開きっぱなしだ。 歯茎から血が出る程に噛み締めた歯がギリリと嫌な音をたてた。 それは憎悪が育んだ魔物のよう。 「…来い。」 低く掠れた男の声に挑発されたようにマナが踏み込む。 彼女の早さは、段々と増して男に匹敵する。 その度に彼女の骨と筋肉は軋み悲鳴を上げたが、脳までその声は届かない。 マントを翻し、マナの一撃を手の無くなった腕で受け止めた。 カタールで受けたなら刃ごと砕かれていた。 間合いに踏み込み彼女の腹へ刃を突き出した。 男の“生”を乗せた渾身の一撃。 だがそれは彼女の腹に突き立つことはなく空を切った。 「……。」 彼女は男の頭上を舞っていた。 ブラックスミスとして似つかわしくないその舞いは、暗殺者のそれだ。 彼女が憎み続け、万別なく睨んできたその動き。 よく戦いで空を舞っていたのは、彼女の傍に1番長くいたアサシン、ヒショウだった。 男が肩ごしに振り返る。 その金の瞳の奥には…何もない。 「っぐ、ぉぉおおお!!!!」 男から漏れた獣のようなうめき声が部屋をはいずり回る。 足が膝から完全に切断され、軸を崩して男は倒れこむ。 だがその体が地に伏すことはなく、執念で手をつき残った足でマナの足をけり崩した。 もう勝負はついたと油断したマナにそれは有効だった。 彼女の体がわずかにバランスを崩し、それを見逃さず男は彼女に飛び掛る。 「っ!」 交差したカタールがマナの首を狙う。 完全によけることも武器で防ぐことも不可と判断し、彼女はとっさにまだ動く方の腕を首の前に出して盾にした。 カタールが彼女の腕に突き立つ、だがそれを切り落とすことはせず、その形のまま腕を挟んだままマナの首を狙おうと突き出される。 マナが重さに耐えられず仰向けに倒れ、その上に覆いかぶさるように男がカタールを突きつけたまま倒れこむ。 刃先はマナの首の左右を薄く抉って地面に突き立っている。 「っ…。」 虫ピンで刺されたように動けない。 絶命の危機に陥っていることもあるが、何よりも… 目の前にギラつく男の瞳から目が離せない。 何故こんなにも妖しい色をしているのか。 そしてその奥には生気も殺意も何もない。 鋭く光っているのに、奥は髪と肌のようにただ昏い。 刃を首に突きつけられている以上にそれが怖かった。 マナの硬直しただ死を待つだけの様を楽しんででもいるのか、カタールの刃はそれ以上動かない。 ただ視線で彼女を突き刺すだけ。 「…お前の、父は…」 不意に、蚊が飛ぶような深いな掠れ声がした。 「もっと…強、かった…」 父の土砂に崩れ落ちた最期の姿がフラッシュバックした。 そうだ、忘れていた父の顔。 泣いていた。 悔しそうに、悲しそうに。 母の顔はそれ以上に崩れていた。 やっと思い出せた両親の顔なのに、そんな表情しか思い出せない。 「何故、殺した。」 マナの声は音というよりも空気漏れのようだった。 だが至近距離にいる男には十分聞き取れようで、すぐに応答した。 「奴、は…我らの、脱走者、だ…」 なんとなく予想はした答えだった。 だがそれで終わればよかった。 マナの憎悪からくる闘志という火に油を注ぐように、男は付け足した。 「一度、は…見逃したが。」 ならば、何故また追いかけて殺したのか。 その答えを、彼はマナに執拗に言い聞かせるようにささやいた。 「俺、が…お前の、母を…欲しかった。」 頭に血が上った。 全力で膝とカタールの盾にした腕で相手を突き飛ばした。 カタールが引き際にかすかに彼女の首を切り裂いたが致命傷にはほど遠い。 腕は刃に自ら食い込み、相手を押し返すことは出来たが再起不能。 だから反対の骨までやられて動かない筈の片腕にただ動けと任じて斧を握り締めた。 痛みなど認識してやらない。 「うああああああああああああ!!!!!!」 突き飛ばされたが片足を失った為にバランスをとれず、後方へ倒れようとしている男に斧を振り上げた。 彼は全く動こうとしない。 その斧が体に突き立つのを受け入れようとしているように見えた。 ――― マナさん、どうかアンタは血に汚れないでくれ。 殺すことを躊躇い、マナは斧の軌道を逸らせた。 「―――!!!!」 声なき悲鳴。 勝負はついた。剣戟などない、命を捨ててただ殺し合う、死に合う者の、肉と武器のぶつかり合いだった。 その殺し合いの結果、男にはもう残る片足もない。 マナは男の後ろに立ち、しばらく蠢いていた身体を覆うマントを引き剥いだ。 現れたのは先程みたシンリァとギドに似たアサシンクロスの装束。 だが甲冑はなく、傷だらけで衰えの見える身体は、幼いマナに恐怖と絶望を植え付けた男とすぐには繋がらなかった。 ゆっくりと顔を上げてマナを横目に見る。 その顔は転生の副作用で予想より若く三十路半ば程だろうが、それよりも酷い隈とこけた頬で老けて見えた。 だがマナの目にはあの雨の中で見た姿しか映っていなかった。 しばしその姿を見て、あの日の感情を思い出した。 今、この男の命を刈り取る為に、一瞬覚めた憎悪をまた煮やす。 「…母さんは」 止めを刺すために、先ほどの好機に首ではなく足を狙った。 見れば足は切断とは行かなかったが、もう修復は出来ないほどに筋肉を両断していた。 「……。」 「母さんを、何処へやった。」 彼女の質問に、男はすぐに答えた。 「子を生み、死んだ。」 マナを見上げ、呟いた彼には哀れみも申し訳なさもない。 全身の血が、固まった。 後に、逆流する。 彼女は木を斬るかのように力いっぱい振り上げ、男の胴を狙った。 「マナァァア!!!」 やっと部屋の前にたどり着き、シャッターも破壊した仲間達が背後で叫んでいた。 仲間の言うことなんて分かっていた。 マナが逆の立場でも止めた。 だが彼女にはどうしても譲れない復讐心がある。 「マナ」 耳元で囁かれ、後ろから抱きしめられた。 振り下ろした筈の斧は、無くなっていて腕が落ちただけだった。 「……っ…」 肩からの失血で冷たくなった身体が、背後からのびてきた腕に温められる。 懐かしい声。 よく覚えている。 「…シェイディ…」 マナは呆然と背後にいる青年の名前を呟き、そして脱力した。 彼には、見られたくなかったのに。 「…っ…う、っく…」 涙腺が決壊し、涙が頬を激しく流れ落ちる。 「遅くなって、すいません。」 シェイディはその少し背伸びをして彼女を何とか包むように抱きしめる。 マナの記憶と変わらず長いままの銀髪が彼女の肩に滑り落ちた。 仇を殺しシェイディ達と決別するか、それともシェイディ達をとるか。 彼女は前者を選んだ筈なのに、いざ仲間達を、シェイディを前にすればそれができなくなった 。 「…頼む…私は…っ!この男を殺す為に、沢山のものを捨ててきた!ずっと、殺す瞬間を夢見てきた!あの日に誓ったんだ!!」 殺したいのに、周りにいる仲間とシェイディのせいで目の前の男の首を絞めることも、顔を踏み潰すこともできなくなって、必死に叫んだ。 ずっと、その復讐の誓いを糧に生きてきた筈なのに、叫ぶだけで体は動かなかった。 「今でも、それが1番なんですか。」 シェイディが彼女の耳に、言葉を強くたたき付けた。 「それから生きて、もっと大切なことが見つかったでしょう。」 「……。」 「一度誓ったからって、手に入れたものを全てまた捨てるんですか。」 「……っ。」 「マナ、俺を…置いていくかないでくれ。」 あの日、冷たくなった父に「置いていかないで」「死なないで」と泣き叫んだ。 シェイディの声はそれにどこか似ていた。 そして置いていかれた自分の空白を埋め、寄り添ってくれたのは… 今まで笑いあった仲間だった。 捨てられなかった。 マナは地に伏す男に歩みよる。 顔を見れば、20年追い続けてきた憎い男の面影。 手にした斧を振り下ろしたい衝動を押さえつけ、唇をかんだ。 「…っ母さんは…出産してから、死んだんだな…。」 「…男子を。」 激しい出血で今にも絶命しそうだった男に癒しの斧の方を向けた。 淡く光りその傷を少しづつだが癒していく。 そうしながら質問を続けた。 「その子供は何処にいる。」 「サバトの元の施設、に。」 「何処の施設だ。」 「わからん。…だが」 呼吸が苦しいのだろう、だが男は何とか整え、質問に答えようとしていた。 遺言のように。 「…15歳以上の、者は皆、ここへ集めて、いる。ここにいなければ、もうこの世には、いまい…。」 「……。」 マナは質問を止めたが、治療は止めなかった。 彼女が仲間の元に戻る為にも、殺人に手を染めてはいけない。 「…もうすぐここは陥落できる。そうしたら弟を捜しましょう。」 そう言ってシェイディがマナの手を強く握りしめた。 喉の渇きで視界がぐらつく。 「いたぞ!」 「男の方は抹殺命令が出てる、やれ!!」 それでもしっかりと働いている聴覚と視覚で四方から飛んでくる矢を避けた。 いつものように軌道の予測を立てて避けるのではなく、しっかりと飛んでくる矢を見てその場その場で避けている自分がいる。 異常なまでの反射神経。 今はそれを疑問に思うよりも、生きるために酷使した。 周りがしてくるのは弓矢や魔法の遠距離攻撃のみ。 こちらにいるルイを相手に、近距離では勝ち目がないと思っているのだろう。 そのルイは敵襲に遭ってからは常に真横に並んでいる。 いつでもヒショウを守れるようにとの配慮だとわかった。 「ァゥア」 いつものうなり声と同じ語。 だがはっきりとヒショウに向かって呼びかけていた。 彼は何かと彼女を見るより先に、走る先に道がないことに気づいた。 単調な廊下はひとつの扉に向かって続いていて、開け放たれたその扉にはサバトの人間たちが構えている。 だがルイの足は止まらない。 人がいてもかまわない、彼女はあそこを強行突破するつもりだと知れた。 そう知っても不思議と恐怖はなく、彼女と共に戦いに行く決心がつく。 矢を構えるハンターは5人、通路をふさいで並んでいる。 統制はなっておらず、まちまちに矢を放ってくるが数が多くてこのままでは避けられそうにない。 ルイが跳ぼうとしているのを前に見て、模倣して跳んだ。 そう低くないはずの天井なのに、体が浮いている間手で天井への激突を防いでいた。 軽々と猫科の獣のように跳躍し、敵を見下ろしているのだ。 その事実で、己に起きている異常が疑惑から確信になった。 「ぎゃあああああああああああ!!!!!」 「うわあああああああああああ!!!!!」 ヒショウが一瞬呆けている間にルイは敵陣に突っ込んでいた。 響く悲鳴、阿鼻叫喚。 突っ込んでたった2秒、もう血飛沫が舞っていた。 紅が、輝く。 それを見た瞬間、ヒショウの視界に赤い靄が掛かる。 全身が総毛立った。 妙な思いに捕らわれていたのだ。 アレが 欲しイ。 引き寄せられるように、ルイと一人の男が戦陣で暴れる。 駆逐するように。 そうするのは、まるで二匹の怪物だ。 ヒショウが蹴り飛ばした騎士の甲冑は呆気なく砕け散り、甲冑だけでなく胸の骨をも砕かれていた。 男の口から鮮やかな赤が溢れ出す。 突き出した足を戻し、体を返しながら反対に立っていたモンクの肩先にこぶしを叩きつけた。 ヒショウは無自覚だが、それはモンクの肩を砕くだけでは飽き足らず吹き飛ばす前から鋭い風切り音を発する程に早かった。 悲鳴と共に男の肩があったところから血が迸る。 異様なまでの喉の渇き。 分かった、分かってしまった、一体自分が何を欲していたのか。 目の前で散る、人の赤い体液。 違う、こんなものは欲しくない。 自分はまだ、人間だ。 欠片だけ残る理性で必死に血から目を背け、それに喉が鳴り、舌を伸ばしたくなる衝動をこらえる。 だが躍動し敵の体をつぶすのは堪えることができない。 堪えたらすぐ敵の攻撃に倒れるのは事実だが、それ以上に体が止まらない。 力を抑制できない。 軽く突き飛ばすような動作でさえ、敵の骨に届くような衝撃になっている。 何がなんだか分からないまま、ただルイが進む方向へ、敵を突破しながら走った。 何人、素手で切り払ったか分からない。 だが時間にしてみれば十数秒。 たったそれだけで二人の背後には血の海ができようとしていた。 ヒショウは辛うじて致命傷を避けて攻撃できたが、ルイは容赦なく爪と牙で食い荒らしていった。、 そんな違いはあるが、二人の動きの速さは互角。 開かれた道を二人で進む。 通路の先は、ホールになっていた。 建物の最下層から天井まで、何階分あるのか分からないがすべてが吹き抜けになっていて、それに加え建物は純白な為、異様な迫力があった。 今にもクラシックミュージックが流れてきそうだが、聞こえるのは悲鳴と怒号と武器を構える音と追いかけてくる足音。 二人が出たのはおそらく最下層から5,6階ほどの高さだ。 そこをルイは躊躇いなく飛び降りた。 ヒショウは飛び降りる前に腕の中に抱えたままの子供を見た。 まだ息はあるはずだ、だが体が痙攣しているのが気がかりだ。 「!!!!」 飛び降りる直前に肩に激痛が走る。 小さな矢が1つ、刺さっていた。 普段ならここまで痛みを感じないだろうに、脳天を貫かれるような痛みが走った。 身体機能、反射神経が異常に向上した際に、痛覚まで鋭くなったのかもしれない。 歯を食いしばって、予想以上に遠い白い地面を見下ろした。 「ヒショウ!!!」 「――!?」 飛び降りている最中にはっきりと聞こえた、近づき、そして離れていった聞き覚えのある声。 声の主はルナティスのものに違いなかった。 自分が彼の近くを通り過ぎた。 この吹き抜けのホールの途中にルナティスがいたに違いない。 思わず見上げたせいで着地でバランスを崩したが、たいした衝撃は感じなかった。 …本当に、体が軽すぎる。 「…っ…」 突然、視界が揺れて、吐き気がこみ上げた。 吐き出してしまいたかったのか抑えたかったのか分からないが、唇をかみ締めて天井を仰ぎ見た。 すると、ルイとヒショウが飛び降りてきたすぐ下の階で、ルナティスが手すりに乗り上げて、誰かに止められているのが見えた。 馬鹿みたいにヒショウ、ヒショウと叫びながら飛び降りようとしている。 その様子が可笑しくて、喉の渇きから少しばかり気が紛れた。 やっぱり、来てしまった。 いつまでも彼を引きずってばかりの罪悪感と、妙な嬉しさを感じて、自分を叱咤した。 でも、唇には笑みが浮かんで、涙が滲みかけた。 だが感傷に浸る間もなく、すぐ近くに人の気配を感じあたりを見回した。 高級感あふれる造りだが、あまりに白すぎて偽物の城のように見える。 造りからしておそらく二人がいる最下層は地下1階か2階程度。 この建物の出口はもう少し上だろう。 その上へ続く階段からと、二人のいる階の2つのみの通路両方から、足音がする。 ルイがヒショウをかばう様に傍に寄ってきた。 聴覚が、音を拾う。 過剰に。 だから余計に迫る足音に圧迫感を感じた。 恐怖に腕が震え、思わず腕の中にいる子供を抱きしめ…その存在を遅れて思い出した。 覗き込めば…痙攣も止まって、息もしていない。 子供の体温もずいぶん冷たくなっている。 まだ間に合うかもしれない、急がなければ。 武器は手元に無いが、戦いへの心構えをした。 だが今は素手で十分に戦える自信がある。 心配なのは相手を殺してしまうこと。 それでもやらなければ、この子を助けなければ。 ただ漠然とした罪悪感でここまで着た、でもここでやらなければならないことは見つけられた。 まだ生きてここに捕らわれている子たちを開放したい。 それでウォルスに許されるとは思えないが、でも助けたいと思ってしまった。 ヒショウはルイと自分の間に、その子供をそっと横たえた。 全力で戦う決意をし、姿勢を低く構えて両手の指先にまで力を入れる。 わずかに開き薬指と中指をつけ、手を鉤のような形にする。 打撃ではなく急所を抉り肉を千切る為の素手の構え。 使う機会など今までほとんどなかったが、ヒショウとしては使いたくもない、暗殺者という職業上習得させられた体技だ。 攻撃態勢に入ったが、動くことはできない。 足元にいる子供から離れるわけにはいかないからだ。 だから「来い」と構えながら、ヒショウは低く唸った。 その姿が、人を食い殺したルイに酷似していることに、彼自身は気付いていない。 |