僕は初めて人の命を救いました。
僕は初めて人を殺しました。
[水霜の玉]
洗面台に映るのは随分痩せてしまった体、伸び放題のボサボサな髪、腫れ上がった目元。
顔を洗えば腫れぼったくて熱かった顔が少しスッキリした。
持っていたハサミで青の髪を掴んで、適当な位置で切った。
なるべく切り過ぎないようにして、肩下まであった髪を首元までにしていく。
首に残っている傷が露わになるけれど、それでいい。
馬鹿なことをした自分への戒めだ。
「ウワ、ナニその頭!!」
洗面所に入ってきてそう叫んだのはずっとお世話になっていたアサシンのカエデさん。
緑の綺麗な髪をした優しい人で、アサシンやローグは怖い人ばかりという僕の偏見を突き崩した人。
眠気覚ましに顔を洗いに来たかシャワーを浴びに来たらしい彼は
洗面台に散らばった青の髪と僕の頭を交互に見て溜息をついた。
「…女々しいですよね。」
「別にンなことないケド…勿体ねー…」
胸にチクリと棘が刺さる。
彼は“彼女”と同じことを言う。
それはいつものことではない、むしろ偶然なのだけれど…
どうしても“彼女と同じ”と思ってしまう。
「その髪、庭に埋めよーゼ」
「…何故?」
「なんか綺麗な青い花が咲きそーダカラ」
彼のそんな発言に思わず笑みが零れる。
少し前まで、僕は笑うことなんてできなかった。
けど、彼に救われたから…僕は少しは笑えるようになった。
「あ。その頭で外出るなヨ?乱雑すぎだっつーの。」
「そうですか?」
「後ろが段々になってる。後で俺が整えてやるから。とりあえず夜食食えよ。」
そう言って彼は僕の後ろで服を脱ぎ始めた。
彼は本当に優しくて、温かな人だ。
リビングへ出るとテーブルにポツンと置かれたお皿が湯気をたてている。
『粥ばっかでワリーな。病食はそれしかシラネーんだ』という彼の言葉がよみがえる。
僕はそのお粥というもの自体知らなかった。
薄味だけどなんとなく好きだった。
いつも二人だったテーブルに座って口をつける。
「……甘い。」
今まではずっとしょっぱかったのに、食べたお粥はお菓子のように甘かった。
明かりが弱くなった電灯だけだから気づかなかったけれど、牛乳や砂糖で煮込まれているみたいだ。
彼の随分痩せてしまった僕への気遣いだろう。
全て食べ終わる頃に彼が出てきた。
「どーよ、俺の新作粥!」
「…すごく、甘かったです。」
「甘いの嫌いか?」
「いえ、美味しかったです。」
彼はニッと笑って、僕のスプーンをとって一口食べた。
美味しそうに口を動かしているのがまた笑いを誘う。
…確かにおいしいけれど、甘すぎて最期まで食べるのは大変そうだ。
「…カエデさん、いつもありがとうございます。」
「いいっていいって、俺って昔からお節介だっつわれるからヨ」
「…僕はもう大丈夫です。」
「でもアンタ、なんかほっとけねーンダヨ。
またナイフで首切ったりしねー?
また何も食わないで泣き崩れてたりしねー?」
彼は人の恥をさらりと口にした、けれど全く不快に思わなかった。
彼が心配から口にしていることだと分かっていたから。
「…はい。だから…」
だから、もうお帰りになってください。
ちゃんと、言えたのか、分からなかった。
ずっと言いたくなくて、でも言わなければと思い続けて、もう2ヶ月引き伸ばしてしまった。
「………。」
カエデさんは何も言わない。
僕は、言えてなかったのかもしれない。
「そっか。」
しばらくして彼はそう漏らした。
顔を上げると彼は大して真面目な様子も無く考え込むようなしぐさをしてうなっていた。
どうしたのだろう。
「ねー、フロー」
僕の名前、フローズ。
“彼女”もフローと呼んでいた。
また胸が、チクリと痛む。
「俺さ、実は金なくてサ。」
「…は?」
「いや、その日暮らしはできるンだけど、帰る家はないし、でも一人で定住宿って寂しいジャン?
そうすると各地を旅しながらその日暮らしをするワケだ。
でも俺すっごいレア運なくてサ、弱いしサ、ヤル気もないしサ。
だからここ出てくと実はとっても貧しい暮らしになっちゃウの。」
…それはつまり。
「だから、ここに住まわして! …って言ったら、怒る?」
こうして僕は命の恩人と二人暮しをはじめた。
元々二人暮したったこの家には食器や生活用品はすべて二人分整っていた。
僕にその資格は無いけれど、彼の温かさをもっと感じていたかった。
だからあの時、彼と別れを告げようと思ったのに
彼が路頭に迷うからと自分に言い訳をして、彼を受け入れた。
ずっと生活していれば、彼もこの家のことや僕のことに気づいたはずだ。
二人分の生活用品の片方は全て女性のものだということ。
僕の指には婚約指輪がはまっていること。
僕は彼とであった二ヶ月前、首を切って自殺を図ったこと。
そしてこの家には…もう僕しかいなかったこと。
けれど彼は何も言わなかった。
自殺の理由も聞かなかった。
それは彼の“他人”としての礼儀だったのだろう。
「ねー、アンタの奥さんってどんナ人?」
だから、突然そんなことを聞かれて驚いた。
しかも、僕の支援の実践練習で来たフェイヨンダンジョンの中で。
久々に袖を通したプリーストの法衣の感触にまだ慣れてもいないのに。
「俺の妹がサ、結婚したらしいんだけど。あのダメダメでガサツで節操の無いアイツがまともな結婚できんのかと思ってネ。」
「…妹さん、いたんですか。」
「まーネ。でも俺家出してきたから式とか行けねーけど。てか行きたくねーけど。」
「…行ってあげればいいのに。」
「やだヨー俺アイツと仲悪いし、どーせどんな姿かも想像つくシ。」
「…花嫁さんは、予想以上に綺麗なものですよ。」
そういうと、彼はこっちを目を丸くして、葉っぱをくわえた口でニヤリと笑った。
「体験者は語ル、ってか。」
「…まあ。」
「で、アンタの奥さんは?やっぱ美人で優しくてしっかり者?」
「…うーん…どちらかといえば気が強い人でしたね。」
「あちゃー、アンタやっぱ尻に敷かれてたか。」
その通りで、苦笑いした。
「でも、とても心が綺麗で、一途で、誰よりも素敵な人でした。」
「ふーん。やっぱ惚れるとそーなるんかね。」
「…あと、とても潔癖な人でした。」
自分で言って、また胸がチクリと痛む。
潔癖、それは長所だと思う。
確実に自分の身を守れるから。
そんな妻の意思を僕が折れさせた。
だから彼女は…
「…殺して、しまった。」
思い出すと、罪悪感が湧き出して
言葉が溢れるように僕の口から出た。
「僕が、殺してしまったんです。あんなに優しかったのに…僕の我侭を聞いてしまって…」
「…どんな、我侭を?」
彼が初めて僕に質問をする。
いつもただ傍にいるだけで全く深入りしなかったのに。
ずっと心に溜まっていた黒いものを引きずり出そうとするように。
彼はいつも正しくて、いつも僕を助けてくれる。
だから、聞かれたら自然に答えていた。
「…子供を、産んで欲しいと。」
「当然の願いじゃないか。」
「でも、彼女は嫌がった…ッ…体が弱くて…不安要素、が…あるらしくて
リスクは犯したくないって…」
彼女はセージで、頭が良かった。
お願いしてから本もいろいろ調べていた。
けれど僕を動かすのは理屈よりも衝動だった。
「でもアンタはお願いした。」
「はい…彼女は、ご両親にも相談して…反対されて…でも、僕の為に悩んで…」
両親に怒鳴られたと言いながらも、彼女は妊娠や出産について調べることは止めなかった。
お腹に授かった子供を殺そうとしなかった。
彼女も子供を産みたいという意思はあったのだろう。
だからずっと悩んでくれた、そして産むことを決意してくれた。
「彼女と子供はどうなった?」
「妻は……死に、まし…た。」
声はとても小さくなってしまったけれど、この静かな洞窟内ではちゃんと聞こえただろう。
子供をやっと産んで、けれど血が止まらなくて、彼女は衰弱して
産んだ子供の指をそっと握ったまま、白く冷たくなった。
「子供、は…無事に、生まれたけれど…ぼ…僕が、頼りない…から
ご両親が引き取って…うっ…会いたい、けど…その資格が…僕になく、て…」
情けなく泣き崩れる顔を見せたくなくて、蹲って、少し声を上げて泣いた。
顔を膝に埋めて、目を瞑り口を開けて、唸っていた。
背中が冷たく感じた。
頭痛が酷い。
眩暈がする。
「自分を追い詰めんのヤメなよ。」
隣にしゃがんだ彼が、僕の肩に手をかけてた。
「アンタ、全部自分のせいだって言うネ。
自分が悪いんじゃない、って思うことはただの言い訳だって思ってるよナ。」
「……。」
「言い訳じゃないヨ。この世の中、誰が悪いってことはないんだ、多分。
どんな悪人だって広い目で見れば悪いのはそいつの周りにいた奴らとか環境なんだ。
んでもってその周りにいた奴らにもおんなじことが言える。俺はそう思うわけだヨ。」
「けど!僕が、我侭を言わなッければ…彼女は…死なずに、済んだんです…!!」
息を切らしながら叫んだ僕は、どこか八つ当たりめいていて情けない。
「それも広い目で見てみよーゼ。アンタが子供を産みたいって思わなけれバ?
奥さんは死なずにすんだカモ?確かにそーかも。」
「……っ」
「だけど子供は殺された。生まれることなくネ。
そしてアンタらは幸せな夫婦でいられても家族にはなれない。」
「……そんなの、言い訳です…。」
「言い訳じゃねーヨ。事実だ。
アンタは彼女を愛してるカラ子供が欲しかったんだろ?
奥さんもアンタを愛してるカラ子供を産んだんだろ?
互いに愛し合って出た当然の結果だよ。
それを言い訳ってゆーのはアンタが自分を苛めたいからだ。
悲しくて、悲しくて、それを誰かにぶつけたくて、憎みたくて
だから自分を憎んでルんだろ?」
「…っ…」
貴女を殺した自分が何より憎い。
殺してしまいたかった。
「でもさ、誰かをやたらに憎むってゆーのがよくないなコトって…
聖職者のアンタなら分かってんだろ?」
「………はい。」
「だったらさ、許してやりなヨ。んで。その憎いヤツ…楽にしてやんなヨ。
そーすれば、そいつもアンタも楽になれる。
晴れてハッピーエンドじゃん、何が悪いのサ。」
すべて、僕のことだけれど
そう言われると…それらしく聞こえて…
楽になった。
涙を流すのが、辛くなくなった。
涙とともに悪いものも流れていく気がして…
「俺がもっと、早く…アンタに会えてたらナ…」
早く会えていたら…どうなったのだろう。
カエデさんが何故そんなことを言うのか分からないけれど
抱きしめてくれた彼の胸は誰のものよりも温かかった。
彼とはいつも軽い話しかしなくて、とても穏やかな時間を共有する関係。
けれどどこか定期的に深い話を彼は求めてくる。
妻のこと。
子供のこと。
僕のこと。
僕が傷つきそうな思い出を思い出させる。
けれど実際にはそうではない、僕の思い出は辛いものばかりじゃない。
それを分からせてくれる。
そうする度に…
その定期的にする儀式のようなものをするたびに
僕は彼に対する信頼を深められた。
「なあ、フロー。折り入った話してイイ?」
それは、その“儀式”の合図のようなものだった。
ああ、そろそろそんな時期か、なんておかしなことを思って、僕は笑う。
心の準備をして、うなずく。
食後の紅茶をテーブルにおいて、向かい合って座る。
彼の顔はいつもどおりなのに、この時はどこか真剣味を帯びる。
「俺、アンタのこと好きだ。」
「…あれ?」
なんて妙なことを口にしてしまったのは僕。
だって…こうゆう時はいつも彼は質問から入る。
それなのにいきなり結論を言われた。
「えっと…それは、どうも。」
自分の妙な反応と、彼の妙な切り出しに苦笑いする。
嫌いな相手とこんな長期間同居なんてできないでしょうに。
「うん、こんなに好きになると思わなかったんだけどナ。
まーなっちゃったモンは仕方ない。
アンタが既婚者とか、子供がいるとかどーでもイイくらい好きだ。」
…あれ、なんだか…
雲行きが怪しくなって…
「で、イロイロと我慢できなくなりそうだから、アンタが嫌だったら俺はここ出てく。」
僕の頭はどうも彼の言葉を断片的にしか拾えていなくて
心臓がドクンと鳴った。
“俺はここ出てく”という言葉だけが頭の中に響く。
「嫌です」
「Σ( ̄Д ̄;)うっわ俺ソッコーで振られタ!!」
何故か彼はものすごくショックを受けた様子で机に突っ伏した。
「行かないで下さい」
「…へ?」
男のクセに情けないけど、僕は涙腺が弱くて…
悲しいこと、怖いことがあるとすぐに泣いてしまう。
怖い。
彼が出て行くのが。
「カエデさん…に、傍にいて…ほしいです…」
「…えーっと…“嫌です”って
俺が出て行くのが嫌ってこと?
俺のことが嫌ってワケじゃないよネ?」
「そんなことありません!カエデさんにはとても感謝しています!
僕を救ってくれたのはいつもカエデさんでした!」
そういうとカエデさんは微笑んでくれた。
けれどまたすぐ真顔になった。
「でも、アンタは俺がキスしたり抱きしめたりしてイイのか?」
「え…?」
「俺がさっきイロイロ我慢できなくなるっつってたのはそーゆーコト。
アンタをイイ同居人じゃなくて、恋人にしたいってコトだ。」
「は…?」
言われていることがわからなくて、しばしカエデさんを見つめて固まった。
緑色の艶のある髪。
目もとても綺麗な緑。
すごく綺麗な人だなと思う、男の人だけど。
でも、恋人…?
………恋人……?
「ヲイ!!しっかりしろ!!
脳の迷宮から帰って来い!!!」
「ふ…ふあ…」
唖然としたまま僕はトリップしていたらしく、カエデさんに揺さぶられて我に返った。
こんな、あまりに突然すぎて、僕は話についていけない。
「あー、ゴメンゴメン。いきなりすぎたよな。
まー、アンタが「さっさと出て行け」って言わないならも少しお邪魔するからサ。
ゆっくり決めてくれ。俺けっこー気ぃ長いカラ。」
「は…はい…」
「期限一週間ナ。」
「気短いじゃないですか!!!」
どこまで本気なのか分からないほど、彼はまたいつもどおりの彼に戻っていて
笑っていた。
僕は彼にずっとそうやって笑っていてほしい。
彼が出て行って僕がまた一人になるなんて…考えたくも無かった。
一週間の間、彼はずっと僕を引きつけ続けていく。
彼を恋愛の対象とできているかわからないけれど、彼は僕には必要な存在だった。
カエデさんはもっとも僕が心を許せる人になっていた。
だから…
一週間後…彼が迫る決断に、僕は躊躇いながらも頷いた。
続く