「本当は…俺は、アンタを好きになっていいような男じゃないんだ…」
それはアマツの言葉で、浮かされた熱の奥で聞こえた、悲しげなカエデさんの本心。
僕がアマツの言葉を知らないと思って言ったのか。
それとも…知らなければいいと思いながら言ってしまった彼の心なのか。
どちらでもいい。
どんな人であろうと、僕はもうカエデさんを放せないから。
[水霜の玉.3]
もう一年が終わる。
プロンテラに雪が降り始めて、息は真っ白になった。
絶望に沈んでいくしかないと思っていたのに…
なんだか今年は大切な一年になった気がする。
大きなものを失って、大きなものを得た。
そして…とても悲しかったけれど、とても嬉しいこともあった。
僕は大陸の行事を、カエデさんはアマツの行事を互いに教えあって、たくさんいろんなことをした。
その度にカエデさんはおかしなことをして僕を笑わせるし、とても嬉しいことをしれ僕を泣かせもした。
彼は僕の泣き顔が好きだとか言っていたけれど、悲し泣きをさせたことはない。
「……霜…いや、水霜カナ…つゆ…月…たる…」
「カエデさん、何してるんですか?」
「歌作ってんの。」
寒いのに窓辺に座ってお茶を飲みながらカエデさんはブツブツ言葉を口にしていた。
歌…そういえば、カエデさんが歌ってるの聞いたことないな。
僕はしょっちゅう賛美歌なんかを職業柄歌うけれど。
「あ、別に音程とかリズムとかある歌じゃないぞ。アマツの言葉遊びみたいなものだから。」
カエデさんは僕の心を読んだようにそう付け足した。
「そうなんですか?」
「ああ。アマツの言葉は一つの単語にたくさん意味があったりする。
その知識を使って、決められた次数やルールの中で関連した複数の意味を持つ詩を作るんだ。」
「…難しそうですね。」
「うん。めっちゃ難しい。そして俺は最大級に下手。」
そう言ってからカエデさんはまた頭を抱えた。
でもどこか楽しそうだ。きっと歌作り、好きなんだろうな。
「…一年がもう終わるなぁ。」
「そうですね。」
「フロー、アンタに話しておきたいことがあるンだ。」
窓辺にお茶を置いて、カエデさんは僕の手を両手で握ってきた。
「…フローは、今年はどんな年だった?」
そう聞いてくる彼の眼は相変わらず優しい。
少し前まで何を思い出しても辛かった僕は、その瞳を見ていると穏やかに思い出を語れる。
「大切な年です。大切なものができて…けれど全て失って…悲しいことばかりでした。
でもカエデさんに会えて、また失ったものを取り戻せた。」
「…そうだな。俺もなんだ。」
手を引かれ、椅子に座る彼に寄り添うように膝をたてる。
手は彼の頬に引かれていった。
「俺も大切なものを失った。護りたかったのに、消えてしまった。」
思わず思考を止めて、彼の言葉に聞き入った。
そんなことは聞いたことが無い。
むしろ彼の素性を聞いたことが無い。
「フローみたいに、俺は優しくないカラ…泣いて絶望はしなかった。
俺は怒り狂って、全部を憎んだ。…壊してしまいたかった、殺してしまいたかった。」
「……。」
何を?誰を?
僕がそう聞くことはなかった。
それば僕の知るところではないから、僕はただ彼の感情を受け止めてあげられればそれでいい。
彼が僕にそうしてくれたように。
「同じ境遇だったアンタは絶望して、泣いて、自分を追い詰めたナ。
でもその後アンタは俺を見て、俺が手を掴んだら小さく笑った。」
覚えている。
一人で死んでいこうとしたのに、突然カエデさんに引き止められた。
そして血を失って冷たくなった体に温かい彼の手が触れて…
無性に嬉しかった。
人はこんなに温かいものだったと、この温かさを昔ずっと感じていたことを思い出した。
「カエデさんの体と心の温かさがとても懐かしくて、嬉しくて…失いたくなくなったんです。
一人はあまりに寂しくて、土に還ってしまえば楽だったけど
この世界にカエデさんのような人がいると思ったら離れるのが惜しくなりました。」
「俺もだ。フローみたいに優しい人が、まだ悲しんでる人がいるのに
振り切って怒り狂ってただ憎むだけなんて、馬鹿だらしい思ったんダ。
…失ったアイツの様に…イヤ、それ以上に今はアンタが大切なんだ。
ダカラ、絶対に悲しませない、ずっと護ってやりたい。」
言葉一つ一つが温かい。
僕は彼の手を握り返した。
「それだけは、絶対だから…。」
「はい。」
強くつながっていた手はそのままに、彼は立ち上がった。
僕もそれを追って自然と立ち上がる。
「じゃ、年越し姫始めしよっかな♪」
突然楽しそうな口調でそんなことを言う。
僕はなんのことだろうと思って目を丸くした。
けれど彼が向かいだしたのが寝室であることに気づけば、何をするのかはすぐに分かった。
「っていきなりそれですか。」
「いいじゃん。どうせ突っ込まれんの俺なんだろ?フローはヤラれるの嫌なんだろ?」
「そうですね。」
「……即答なんだ。僕が抱かれてあげますとか言わないんだ。」
「まぁ、いつも何かと泣かされているからこうゆう時くらいは、と。」
正直、カエデさんになら抱かれていいと思う。
だけどこうゆう場になると僕は彼を抱きたいと思って、カエデさんも抵抗しないからそのまま事が進む。
二人とも了解してるから特に立場が逆になるきっかけがなかっただけで
むしろ無理に逆にしたいとも思わないので自然と二人の役割は決まったままでいるだけだ。
「…澄ましてるけど、フロー、顔真っ赤。」
「っ…そうさせるのは誰ですか。」
「俺だねー、嬉しいナ。」
熱が上がって、でもじゃれ合うような空気のまま、ベッドになだれ込む。
「―――露染める…」
高ぶった熱を一度冷ますように、体を重ねながら静かに二人呼吸を合わせてじっとしていた。
そんなときに耳に流れ込む、カエデさんの声。
とても穏やかで…色っぽくて…何故か悲しい声。
「枯れた言の葉…絶えたるる…」
それは何故か僕を慰めるように優しく悲しく響く。
つながった熱。
それと対照的な声。
「照らして跡訪えよ………水霜の玉……」
そっと下から抱き込まれて、与えられる体温に慰められる。
こちらからも求めて軽く彼を突き上げる。
反応して、抱きしめる腕を強張らせる彼が愛しい。
モミジとは“夫婦”という思いが強くて、体を重ねることは神聖な儀式のように思えていた。
けどモミジはずっと躊躇っていた。
僕に触れたいと思うけど子供ができることが不安だと言っていた。
強いのに、体の中が弱かった彼女。
モミジの体がもっと悪くなってしまったら…。
僕はそれが不安で、何か彼女をつなぎとめられるものが欲しかった。
だから子供を望んだ。
彼女との愛の証が欲しかった。
そうすれば彼女ともっと強くつながっていられると思った。
その結果は僕を打ちのめしたけれど。
カエデさんとは子供を望めない。
けれどそれでいい。
モミジへの思いは切れることはない。
モミジとのつながりは遠くの地で確かに生きている。
だから今の僕はカエデさんと一緒に、ずっと一緒に生きていければ。
彼の過去も、僕の過去も、気にすることなく
平穏の中で一緒に生きていければそれでいい。
それはモミジへの裏切りかもしれないけれど…
「…ミジ……」
さみしい。
こんなにもさみしい。
だから僕はまた生きた愛を求めずにいられなかった。
まだ寝ているカエデさんの為に彼の好物のお粥を作って、僕は掃除をしていた。
年末に家具や部屋などを大幅に移動したからまだ少し違和感がある。
それに部屋のいたるところに見慣れない小物や本が増えた。
カエデさんがアマツから持ってきたもので、彼の思い出の品でもあるらしい。
年末まで彼のかばんに押し込められていた。
なんとなくそれらにはあまり触れないようにして、床や棚を掃除し終わる。
そうしながら、どの棚や引き出しに何を入れたのかあまり思い出せなかったから、確認しようと思った。
「あ」
木棚を開けたら、カエデさんが片付けて適当に押し込められいただけのものが落ちてきた。
マントやかばんや物入れの比較的使わなそうな方が入っていたらしい。
幸い割れ物はなかった。
拾い上げて畳みながらちゃんとしまいなおそう。
かばんを棚にしまおうとした時、床に硬いものが落ちた。
木でできた手のひらサイズの板。
拾い上げるとそれがパカッと開いた。
「……。」
中には写真があった。
見覚えがある、よく見ていた写真。
僕とモミジの新婚写真だ。
「なんで…」
なんでこれをカエデさんがもっているのだろう。
確かこれは居間の写真立てに飾ってあったはず。
年末の大掃除に持ち出したのか、でもどうして。
それがもともとあった場所を見ると、そこには同じ写真が置いてある。
「……。」
思わず息を呑んだ。
僕の家にあった写真はまだそこにある。
なのに何故もう一枚同じ写真が…カエデさんのもとにあるのか。
同じ写真は他に誰に渡したかと、記憶を探った。
『この写真、家族に送っていい?
親が望まない結婚だけど、せめて花嫁姿を写真でくらいは見て欲しいから。』
そうだ、モミジはそう言っていた。
同時に2枚とった写真の片方は彼女の家族へ。
それ以外は無い。
「………どう、して……?」
『え…私の家族に挨拶…?や、やめておいた方がいいわ。
皆愛国心が強くて、大陸をよく思ってないのよ。いびり殺されるかもしれないわよ?
え、家族?えっと…潔癖な母に、厳格な父に、思い込み激しい兄がいるわ。』
『俺の妹がサ、結婚したらしいんだけど。あのダメダメでガサツで節操の無いアイツがまともな結婚できんのかと思ってネ。』
息が詰まった。
思わず口を押さえて体を震わせた。
まさか、そんな筈はない。
そんな偶然……
偶然?
僕が家族に会いに…僕とモミジの子供に会いに行って
そして大陸に帰ってきて自害を図ったその時にカエデさんが来た。
僕以外誰もいない、暗い静かな家で死のうとした僕の元へ。
本当に偶然なのか。
『俺も大切なものを失った。護りたかったのに、消えてしまった。』
カエデさんがモミジの兄だったら。
もし彼が失った大切なものが…モミジだったら。
『俺は怒り狂って、全部を憎んだ。…壊してしまいたかった、殺してしまいたかった。』
彼が憎んだのは、壊したかったのは、殺したかったのは…
あの時、僕の元にカエデさんが訪れたのは……
「……っ」
なんて、ことだ。
どうして教えてくれなかった。
いや、教えられるはずが無い、これが事実なら普通は教えない。
僕は本当に…彼に愛される資格のない人間だ。
彼に憎まれるべき人間。
いや、本当に憎まれていた。
あの夜、彼は僕に復讐しに殺しに来たのだから。
カエデさんのあの温かさも、あの優しさももし僕を引き上げ、再び陥れるためだったら。
人がもっとも苦しむのは裏切りだ。
全てはカエデさんの策略だったら…?
考えはどんどん悪いほうに傾いていく。
怖い。
涙が込み上げる。
これはただの皮肉な組み合わせか。
それともカエデさんの憎しみの中で出来上がった策略なのか。
どちらにせよ、あるのは絶望だ。
「フロー?」
心臓が、大きく脈打った。
いつものカエデさんの少し寝ぼけたような姿。
昨晩ベッドで体を重ねた人の姿。
それがとても怖くなった。
僕は写真を抱えたまま、彼から思わず後ずさった。
彼の視線は僕を追い、僕の手の中の写真入れに向く。
彼の表情は…一瞬こわばって、無表情になった。
「フロー…」
「……貴方は…」
知りたくない、けれど知らずにはいられなくなった。
知らないまま、のうのうと生きていられたら。
カエデさんを何の疑いも無く愛していられたら。
たとえそのまま殺されていても…そうできていたら、どんなによかったか。
「貴方は…モミジの兄…だったんですか。」
彼は何も言わない。
でもそれは無言の肯定。
そして
「カエデの名前の意味、知ってるか?」
彼は視線を落として、どこか自嘲気味に笑う。
「モミジ…アマツの木、もみじの紅葉する前のやつの名前なんだ。」
「……っ…」
間違いなかった。
彼も認めてしまった。
僕が殺した妻の兄。
知らずと僕は愚かにも彼を妹の次に愛した。
彼はそれをどう見ていたのだろう。
僕の泣き顔が好きだと言った。
あれも…僕が苦しみ泣く姿を嘲笑っていたのか。
「貴方は…僕を…」
殺そうとした
憎んだ
裏切った
違う、聞きたいのはそんな事じゃない…
本当は愛してなかった?
「……っ」
聞けない。
僕はそんなことを聞いてはいけない。
モミジのお兄さんに…
「…フローズ!!」
僕は逃げ出した。
冒険者として常備している魔法石を砕き、ワープポータルに飛び込んだ。
最後に聞いたカエデさんの声は、僕をいつもと違う、他人の呼び方をした。
もう…彼は……
傷口が開くように
心身に穴が開いていくように
僕の何かが再び壊れていく
着いた先はただ白い世界。
何も見えない。
ただ冷たい。
冷たい地獄に落ちたような静けさ、絶望。
「…っ、ぅ」
蹲れば氷の粒が顔に張り付いて、この顔を凍りつかせ崩そうとする。
「ふ…ぅあ…ああ…うあああああああ!!!!!
最愛の妻を最低の形で裏切った
最愛の人は最も愛してはいけない人だった
繋がりが切れていく
繋ぎ止めようとしていたのに
それを切ってしまったのは僕自身の手だった。
ポータルの着いた先…雪の積もった人のいない静かな広場で
僕はこのまま雪に解けてしまいたいと…泣き叫んだ。
まだちょいと続く。