必死に何かを掴もうとした僕の手に残ったのは…



[水霜の玉]




「あらあら、こんなところに寝ていると風邪を引きますよ。」

顔を上げると、不思議な化粧をした…けれどとても綺麗な女性が立っていた。
女性は鮮やかで上品な模様の布を身につけて、艶やかな黒髪を見事な造詣で結い上げている。
それはアマツの民族衣装だった。
無我夢中で開いてしまったワープポータルは、消すに消せなかったアマツにつながっていたものらしい。

「アマツの言葉はお分かりですか?」
「……。」
「寒いでしょう、私の店にいらっしゃいな。なに取って食ったりはしませんよ。」

そっと冷たくなった僕の顔を指先でぬぐって、彼女は横から僕の腕を引いた。

「どうか、このままで…」
「おやまあ」

僕がアマツの言葉を話したからだろう、彼女は目をまるくして声をあげた。
今ではアマツの人も大陸の言葉をしゃべれる人が多いらしいが、彼女は違うようだ。

「このまま…ちゃんと…消えますから…」
「消えるというのは…雪に消えるということかしら、それともアナタの居場所へ帰るということかしら。」

雪に…消えてしまえたらいいのに。

「居場所は……」

ない。
僕にはもうなにもない。

でもここにいてはいけない。
僕はあの二人の故郷であるアマツの土を踏んではいけない。
でも…もうどこにも行きたくない。

…ああ、そうだ…
僕には始めからひとつだけしか居場所はなかったんだ。
それは少し前に行こうとして行けなかったけれど
もう止める人はいないから、今度こそきっと行ける…

ただ僕は彼女へ迷惑をかけないように立ち上がって…無心に北へ歩きだした。



何もないところへ…







紅葉が死んだ。
あんなに可愛くて優しい妹だったのに。

アイツは好奇心が旺盛で、大陸のことに興味を持っていた。
俺たちが止めたのに、アイツは家を出て行って知らない国の男と結婚したらしい。
家族の誰をも呼ばなかった結婚式の写真だけが送られ、俺たちはその事実を知った。

家族は妹の夫を憎んだ。
俺たちの妹を奪っていった。
俺はアイツの後を追おうと、遅れて冒険者になって大陸へ渡った。

けど、妹を見つける前にアイツは死んだ。



「どんなに身勝手なお願いか分かっています。」

妹の遺体が家へ返されたと聞いて、やっと大陸の言葉を覚えたのに俺は故郷へ戻った。
そこで見たのは家の戸の前で土下座をしているプリーストと、俺たちの父親だった。
プリーストは大陸の人間なのに、アマツの言葉はとても流暢だ。

「一目だけでいい、会わせて下さい!!」
「帰れこの人でなしが!娘に加え孫まで渡せるか!」

孫…紅葉には、娘もいたのか…。
アサシンになっていた俺はそっとクローキングで姿を消して二人の脇を通った。

「僕に父親の資格はないのは分かっています。だから、会うだけで…少し話すだけでいいんです!どうか…」

情けなく震える声で請う。
こんな男が、紅葉の夫だなんて。
こんな男じゃアイツを護ってやれるはずもない。

バシッと鈍い音がして、プリーストが地面に転がった。
短気な父だ、会って早々殴りかからないほうが奇跡…

いや、隠れて前に回って分かったが、プリーストの顔はところどころ青くなったり赤くなったりして既に殴られた後がある。
目の片方も異様に血走っているし、今平手で叩かれて鼓膜が破れたらしく耳を押さえて蹲っている。

「……地獄に堕ちろ」

ぼそりとつぶやいて、俺は家の中に入っていった。

もっと父も殴ってやればいい。
殴って殺してやればいいのに。
紅葉が死んで、アイツが生きているなんて許せない。



「紅葉…」

部屋に死装束を着て寝ている妹は綺麗だった。
とても死んでいるとは思えない。
脇に座って頬に触れると、昔よりも逞しそうな体なのに氷のように冷たい。

「…もみ…じ、ぃ…」

息ができなくなって、目の奥が熱くなる。
ずっと知らせが間違いならいいと思っていたのに。
動かない…冷たい…生きていない…生きていない…生きていない…!

「もみじいいいいいいい!!!!うああああああ!!!!」

最期に話すこともできなかった。
その姿を見ることもできなかった。
なんでこいつが死ななきゃいけなかったんだ。

冒険者は危険だというから俺が護ってやろうと思ったのに。
いや、なんで紅葉の旦那が護らなかった。
紅葉はこんなところで死んでいいやつじゃないのに…!!!





「…あの男が殺したのよ。」

一頻り泣いて声も枯れた俺の肩を撫でて、母が忌々しげに口にする。

「紅葉の体が悪いのを知ってて…子供を産ませて死なせたのよ。
昔から子供が産めないって分かってたのに。
紅葉は頭がいいから、産もうとするはずないでしょう…?」

驚愕した。
紅葉はてっきり、冒険者として魔物に殺されたのかと思っていたのに。
それか、体の悪いのが悪化して病死したのかと…泣きながら冷静になろうとしてそう考えていたのに。

「あの、男は…なんだって?」
「そうだと言ったわ。自分が子供を産んで欲しいって頼みこんだ、って。
紅葉は嫌がったってハッキリ言ったわよ。」

悲しみは憎しみにかき消された。

「…あの男、殺す。」
「……楓、やめなさい。」

カタールを握った俺を、母が静かに止めた。

「あの男は憎い…けどお前に殺人者になって欲しくない。
それに…分かるでしょう?大陸の人間を殺せば
私たち天津人は明らかに不利な裁判にかけられる…。」

母はずっと娘の死に泣きながら、息子を慰めるように肩を抱いていた。








それでも我慢できなかった。
俺は母が泣きつかれて寝ると、すぐにまた大陸へ渡った。
その頃にはもう日が暮れかけていて、俺はすぐに仇を探して回った。

魔法都市ゲフェンにすんでいるというのは妹からの手紙で知っていた。
アイツがプリーストならゲフェンの教会で情報が得られるだろうと
閉まろうとしていたゲフェン聖堂に駆け込んで聞いた。

紅葉の名前を出してその夫を探していると言えばすぐにわかった。
先日妻を亡くし、その故郷のアマツに行くということで長期休暇を貰っているという。



プリーストの名前はフローズ。
俺はカタールを握り締め、フローズと憎しみを込めて口の中で唱え続ける。







「………っ」



それなのに、乗り込んだ家の中では凄惨なことが起きていた。

「フローズ…?」

始めて呼ぶその名。
相手はキッチンで壁にもたれて座り込んでいる。
その手には鋭い包丁が握られ、手も刃も真っ赤になっていた。
腹からもあふれている血が、床に流れて彼の下半身をぬらしている。

「…っ…うぅ…」

フローズはうなって、けだるげに包丁を持った手を上げる。
そして震える手で首筋に添えた。
腹を刺したのではなかなか死ねない。
動脈を切り、今度こそ確実に死のうと……

「やめろ!!!!」

咄嗟に俺は彼に駆け寄ってその手を止めさせた。
だが少し遅く、包丁は予想以上に深く彼の首を切り裂いた。
彼の首筋を手で押さえつける。
よかった、動脈まではいっていないようだ。

「おい…!」
呼び掛けながら彼の首の傷にポーションをかけた。
生憎と貧乏なので赤しかないのがもどかしい。

「…モ、ミジ…」

何度か傷にポーションを擦り込んでいると、フローズは微かに唸り、紅葉を呼んだ。

「…そいつは、いない…。」
フローズが紅葉の名を呼んでも、不思議と怒りは沸かなかった。
怪我と血だらけの体と、彼の涙を見て分かってしまったから。
紅葉が死んで、1番苦しんだのはフローズだったんだと。

彼は俺の声が聞こえたのか、小さく頷いた。
「…分かって、る…僕は…モミジのもとへは…行けない…」
「……。」

「地獄へ…」

彼が流した涙は目の出血と混じって赤かった。
血の涙、彼の望む死後、俺は息を呑んだ。

「……僕を…どうか…地獄に…っ!
最愛の人を…死なせた…!!
人をたくさん悲しませた…っ!!!」

「落ち着け!やめろ!!」
包丁を取り戻そうとする力は尋常ではなかった。
俺の方も死に物狂いでなんとかそれを彼の手から引きはがした。

「…っ。」
フローズは泣き崩れたまま、死んだ瞳の視線を漂わせていた。



「…なんで…僕に生きろなんて…言った…
神の身元に…君の元へ行けない…
この世界で生きて…いけない…
地獄しか行き場は無いんです…」

彼の姿を真正面から見て言葉を真正面聞いて
俺の方が泣きそうになった。

こんなに身も心も傷ついて打ちのめされて…
妻の遺体も子供も奪われて、殴られて

それでもフローズは誰も傷つけない。
自分を責めただけ。

こんなに悲しく、優しく、愛おしい青年を傷つける者が許せなくなった。



だが…それは自分自身だ。

父に殴られて倒れた彼に「地獄に堕ちろ」と囁いたのは紛れも無く、自分だ。
初めて自害したくなる程の自己嫌悪に陥った。



「……少し…休めヨ…」
苦手な大陸の言葉で出来るだけ優しく囁く。
そして彼の首を手刀で打った。
それはこれ以上彼の姿を見ていると罪悪感に潰されそうだったから。

あっさり昏倒したフローズの体を抱えて、しばし呆然としていた。

憎い仇だったはずなのに。
殺してやると思っていたのに。

「…ごめん、な…」

血だらけで、ぼろぼろになった青年を抱きしめ、青い髪に頬を埋めた。
血と土のにおい。
ずっとアマツの紅葉と楓の家の前に居座り続け、父に縋っては殴られていた。

思い出すと、胸が痛む。
何故あの時助けてやらなかった。



――― フローズという人と結婚しました。
    彼は、頼りになるんだかならないんだか分からないけど
    でもとても素敵で、一緒にいて幸せになる人とだけ言っておきます。
    妹バカ発揮してこっちまで乗り込んでこないでね、兄さん。
    私は今、フローといて幸せなんだから。



「…フロー…」

紅葉は、最期まで幸せだったはずだ。
夫に生きろと言って子供を産んだんだから。
彼女はちゃんとそれを手紙で俺に伝えてくれたじゃないか。

冷えてしまったフローの体を少しでも温められたら…と思いながら抱きしめた。



「…俺が、アンタを護るから…」

紅葉の代わりに…
せめてアンタは傷つかないように護ってやりたい。

そう思いながら、俺は彼の為に泣いた。












     続く