露染める 枯れた言の葉 絶えたるる

           照らして跡訪えよ 水霜の玉 



[水霜の玉.5]




白い、粉雪が降る。
僕の肌を壊そうと襲い掛かってくる。
けれど僕にはそれがとても優しいものに思えた。

この体も心も凍り付けて…僕を望む世界に招いてくれる気がして…



「こら、お待ちなさいな」
凛とした声に呼び止められる。
さっきからずっと追い掛けてくるアマツの女性だった。

「そっちは町の外です。大陸の方が出られない領域です。お役人にしょっぴかれますよ。」
僕には彼女の声が別の世界の異質なものに思えた。

彼女がどこかに身に着けているらしい鈴がチリンチリンとやたら鮮明に聞こえた。



…もう、誰も引き止めないで…
このまま逝かせて下さい…。

「ほら、凍えてしまいます。それにそちらに行っても崖しかありませんよ。」

やめて…
話しかけないで…
もう誰の声も聞きたくない…

その鈴の音も止めて…
鮮明に聞こえすぎて耳が痛い…



「―――!!!」

それを叫んだのは彼女だったか、僕だったか、分からない。
必死に何かをして、彼女はそこに倒れこんで、僕はそこから走り去ったのは分かる。

そして僕は自分の何かをそこで捨てたのを感じた。

もう彼女の声は聞こえなくなっていた。
鈴の音も聞こえなくなっていた。
自分の呼吸も心音も足音も、舞い散る粉雪の音も、一切が消えた。

白い雪の中を、足を踏み出すたびに僕から何かが消えていく。
凍り付いて崩れていく。



「………。」

不意に足を止めた。
涙は氷ついて崩れた。
ずっとあった胸の痛みも消えた。

…僕は何故ここにいるんだろう。
…僕は何故泣いていたのだろう。

何も感じない。
けれどそれがとても…心地よい。



「――― …ァ…エ、デ…さ…。」



無心に、僕は何かを口ずさんだ。

それがなんだったのか、僕自身ももう聞こえない。



辛いことなんか、何もない。
僕は走るのをやめて、ゆっくりと足を踏み出した。

早く、先へ進みたい。
完全に氷ついて…何もない世界へ。
そしてその先には、今はもう分からなくなってしまったけれど、僕が望んでいたはずの世界がある。



そして…終わりがきたのか。
僕の足元には何もなくなって

世界が暗転した。







俺はもう賭けるしかなかった。
慎重に候補の町を一個一個確認している時間はない。
フローがもし、最期に行くのならどこか。

船で行っている余裕などなく、その辺にいるプリーストにアマツ行きのワープポータルを持っているか聞いて回り、たどり着いた。
その広場では冒険者が雪の中でも屯していた。

「あれぇ…楓坊ちゃん?」
その冒険者の中の一人に声をかけられた。
それは見覚えのある、真っ白い髪に黒目のウィザードだった。

「雪か!」
「ですよぉ、お久しぶりです。やあ、更に大きくなられたんですねぇ坊ちゃん。」

彼は短期間、俺の家の使用人のバイトをしていた人だ。
けど懐かしむ余裕はない、さっさと去ろうとした。

だが不意に雪の胸元のエンブレムに気づいた。

「…雪、お前…そのギルドエンブレム…」
「え、ああ。ちょっと有名な大手ギルドですよね。傭兵みたいなものですが、しばらく所属させてもらってます。」
「そのギルドメンバー、今アマツにいるのか?!」
「はい。まぁここ何年か砦は同盟ギルドに任せて、アマツで活動してまして。」

これを奇跡と言わずになんと言おうか。
焦る気持ちは変えられないが、それでも少し希望が見えた気がした。

「加入権持ってるか!?」
「ふぇ、ええ、まあ。」
「入れてくれ!目的を果たしたらすぐに抜ける!」
「んー…まぁ、坊ちゃんがそういうなら。」

雪が懐から予備らしいギルドエンブレムを取り出し、俺の冒険者証に重ねた。
すると冒険者証にギルドの名前が刻み込まれ、俺の意識にもアマツの各方角にギルドメンバーの位置が浮かぶ。

『すいません、俺は雪の知り合いの楓といいます。
今、人を探してマス!多分このアマツにいる…と思うンですが
そいつを探すのに、どうか協力して欲して下サイ!』

大陸の言葉でギルドメンバー達に呼びかける。
すぐに皆がざわめき出したのが聞こえたが、マスターらしき声がそれを諌めた。

『随分派手なことする子ね。…そんなに急ぎ?』

滑らかな女性の声だ。
俺は必死に声を上げた。

『ハイ!…人の命が掛かってマス。
ソイツには、何の罪も無いのに…自害しようとしてるカモしれないンです!』
『うえっ、まじかよ』
マスターではない、別のメンバーらしき声がした。

『…その人の名前と特徴を教えて。』
そう言ってくれるということは、協力してくれるのだろう。
俺は雪にもかまわず走りだしながら、マスターに向かって呼びかける。

『フローズ、職業はプリースト、青い首くらいまで伸びた髪して、瞳も青くて、身長は平均的です。
あ、あと、右の首に切り傷の痕があります!』
『分かった。皆、今のを元に知り合いに聞いたり、そのへんを回って…』
『ますたーますたああああ』

マスターが俺からの情報を元に指示を出しているときに、さっき少し声をだしていた男がまた発言した。
まさか彼が見つけたのかと期待した。

『あのあの!さっき俺の彼女が変なプリーストがいたって言ってたんですけど、それじゃないですかね!?』
『…変って、どう変なの。』
『なんかボロボロに泣きまくって、フラフラと北に行こうとしてたらしいんスよ。
止めたら喚いて走って逃げたとか。』

胸が、痛んだ。
やはり…また自分を責めて泣いていたのか、フローズ。

『ソレ、どのへんか分かりマスか!?』
『えーっと…彼女の店の近くって言ってたから、東の外れの広場ッスよ。』
『ありがとう!行ってみる!』
『あ、俺も彼女と二人でその広場で待ってるから!』



走って吸い込む空気は冷たくて、肺まで凍りそうだった。
でも、早く、早くフローズのところまで…








一瞬、世界が…終わったと思った。
僕はもう消えたと思ったのに…徐々に世界が形を取り戻す。

足元には何も無い。
下には…遥か下には断崖絶壁と岩が飛び出している海。
僕はその上で振り子のようにぶらぶらと揺れていた。

状況がいまいち理解できないまま視線を上げていくと、僕の腕は誰かに掴まれている。

「……?」

僕の腕を掴む人は何かを叫んでいる。
けれど…何も聞こえない。
視界には白い靄が掛かってよく顔が見えない。
ただ…何かを叫んでいるのだけは分かる。

僕にはそれが聞こえない。
何を叫んでいるの…?

「フローズ、フローズ!!」
聞こえない…

「…っ、俺の腕を掴め!」
聞こえないよ…

「頼む…フローズ!!」
何も…



「俺は…もう誰も失いたくない!」
聞きたくないから…

「紅葉を失っても…アンタだけは失いたくないんだ…!」

僕を、過去の記憶のように
あの女性の声のように
あの鈴の音のように繋ぎ止めるのは…僕を引きあげようとするこの腕。

これを振り切れば…

「…フロ…っやめ…」
右手首を掴む彼の指をもう片手で掴み、無理矢理開かせる。
僕の手首は、彼の手の中からずり落ちていく。



「…っ、やめろおおおおおお!!!!」



手が、離れた。
やっと…楽になれる。
僕は全身の力を抜いて、目を閉じた。








――― フロー…



優しく、名前を呼ばれた。
その声は凍りついた僕の記憶や感覚を溶かした。

「…モミジ…っ」

一気に戻ってくる、記憶、僕の思い、回りの音、視界。
気持ち悪い浮遊感で世界は奇妙に回っているように思えた。

そんな中で僕が見ているのは…
白い空、舞い散る粉雪。
そして…何故か懐かしい、優しい緑の瞳。

凍りついた体が、温かい腕に腕に包まれている。
この温かさ…僕はよく知っている。

いつも僕を温かく包んでくれた腕。
もう永遠に感じることはできないものだと思ったのに…
カエデさんはまだ僕に優しさと温かさをくれる。

僕は今、自分が彼と共に死の境地に立たされていることを忘れて、彼の背に腕を回した。

「…カエ―――」



けれど、僕が彼の名前を呼ぶ前に
彼が僕の名前を呼ぶ前に

体が破裂するような激しい衝撃に襲われた。



そして僕らは……―――











――― フロー…

モミジの声がする。
ずっと…聞きたくてたまらなくて、でも二度と聞くことを諦めていた声。

近くに、彼女がいる。
そう思い、探したくてたまらないのに瞼が眼球に張り付いて持ち上がらない。
手探りででも探したいのに腕が鉛のように重くて持ち上がらない。

「モミジ…!モミジ…!」

声は声になったのか、自分でもわからない。
けれど必死に叫んだ。
喉が裂けたような痛みが走った、けれどどうしても彼女に会いたくて叫んだ。



――― フローズ…

また名前を呼ばれたが、今度はモミジの声ではない。
とてもよく知っている、モミジと同じくらいに愛しく思った人の声。

「カエデさん…」

何故か、背筋に冷たいものが走った。
彼がモミジと同じところへ…僕にはもう手の届かないところへ行ってしまった、そう感じたから。
あのとき、崖から落ちた僕をカエデさんは追いかけて飛び降りてきた。

二人とも死んだなら…僕は天国へいけない。
モミジとカエデさんと同じところへいけない。



「…あ、ああああ!!」

嫌だ…こんな別れ方…!
僕は最後まで大切な人を殺してしまって…!!

僕を裏切っていなかった、最後まで僕を思ってくれたカエデさんと、こんな終わりを迎えるなんて…!!
体は相変わらず動かない、けれど僕は必死に叫んだ。

声はでなくなった。

それでも、僕は叫ぶしかできなくて…
ただ、ひたすら声をあげた。

僕という愚かな人間が殺した、最愛の人達を求めて
ただ、何十回も、何百回も、何千回も、二人の名前を叫んだ。

永遠に止むことのない悲しさを抱えて…











――― ………。

もう、僕の全てが枯れ果てた。
そんな時に、不意に何かが耳を掠めた。

遠くで何かが聞こえる。

……鳴き声?

……いや、泣き声?

……赤ん坊の、泣き声…。





「露染める…枯れた言の葉…絶えたるる…」

滑らかに楽器のように鳴る女性の声が、聞き覚えのある句を紡いでいる。
恐ろしいほどに重く、動かない体は今までと変わらない。



けれど…不思議なことに視界だけがはっきりとしていた。
木造の屋根。
ためしに瞬きを意識すると、視界もちゃんとパチパチとシャッターが切られた。

……僕は、生きているのか?

「照らして跡訪えよ…水霜の玉…」

少し続いて、そして途切れた女性の声。
僕は必死に首を動かして声の主を探そうとした。
けれど首を動かすだけで全身に激痛が走って、僕は顔をしかめた。

「…まあ、だんな…目が覚めましたか。」

木造の天井ばかりの視界に、アマツの民族衣装を着た女性が割り込んだ。
とこかで…見覚えがあるような気がする。
けれど思い出せず、僕はただ目を丸くするばかりだった。

「一週間寝込まれて、ずっと魘されてましたよ。もうだめかと思いました。」
女性は柔らかに微笑んで、僕の額に手をのせてくる。
…温かい。

「…ここは…」
「アマツの遊郭宿です。こんなところですいませんねえ、他に連れて行けるところもなかったので。
でもお香の匂いはこないようにさせていますから、幾分か寝心地はいいでしょう?」
現状がいまいち把握できていない僕には、彼女に対する返答は浮かばなかった。

けれど、少し冷静になればすぐに聞きたいことが浮かんだ。

「カエデ、さんは…?」
「カエデ…ああ、雪さんが坊ちゃんと呼んでいた方ですね。
あの方は…だんなと一緒に助けられたとき、ご家族の方が駆けつけてきて連れて行ってしまいましたよ。」

そんな…。

「どちらももうだめなんじゃないかと皆思ってましたね。
でもだんなが生きているなら、あちらさんも生きていますよ。」

…でも、カエデさんは…モミジと一緒にいた…。
あれが、僕にはどうも夢に思えない。
あれは…永遠にも似たあの長い絶望の時間は…夢ではなく、死。

「………。」

目を瞑っても、にじんだ涙は抑えきれずにボロボロと溢れて流れ落ちた。

どうして…僕は死なないで、優しい人たちばかり死んでいってしまうのだろう。
僕はもう…死んでいいのに…。





「……ねえ、だんな…この歌に覚えはありますか。」

僕が泣き出して、ずっと黙っていた女性がつぶやくように聞いてきた。
歌…?
僕は彼女の方を見た。

見てから、少しづつ体が動くようになってきているのに気づいた。
長い間眠っていて、体の動かし方を忘れていただけみたいだ。
彼女はにこりと笑って、言葉を紡ぎだした。

「露染める…枯れた言の葉…絶えたるる…
  照らして跡訪えよ…水霜の玉…」



覚えている。
あれは……

カエデさんが、僕に抱かれているときに口ずさんだ、彼が作ったアマツ流の歌。

「その歌…どこで?」
「誰かがだんなに宛てて送ってきた歌ですよ。
響きは綺麗だけどまあ下手っぴな歌ですねえ。」

クスクスと彼女は笑うけれど、その歌自体をあまり聞いたことがない僕にはその歌の質が分からない。

「僕に…宛ててきた、とは?」
「雪さん…ああ、だんなの言う楓さんが昔雇っていた使用人さんですね
彼が貴方宛の手紙を持ってきたんですよ。
まあ手紙というにはただの紙切れでしたけどねえ。
なぜだか、雪さんが歌って紙はそのまま燃やしてしまいましたよ。」

カエデさんが作った歌を、カエデさんの元使用人さんが持ってきた…。

「…カエ、デさ…っ…生きて…」

生きているのだろうか。
分からないけど…生きていて欲しい。
貴方が生きているなら、もう何もいらない。
僕は一人でいい。

今度はちゃんと…どんなに寂しくても我慢するから…
貴方を巻き込んだりしないから……

「さあ、だんな…希望が見えたならそれを掴みに走らないと。
けれど今のだんなには走る力がない。
だから早く体を良くして、歩き出しましょうね。」

「………はい。」

祈るように瞼を閉じると、僕の意識はあっという間にさらわれて
穏やかな眠りが訪れた。





     続く…けど次あたり完結にしたいデス…!