真っ白い雪 雪 雪
昔から雪は嫌いだった。
あれは怖いものだった。
母親が暖かい家から放り出す。
そして冷たい扉が雪の中に閉じ込めてくる。
あけて
出して
ごめんなさい…
謝る理由もないのに謝り続け泣き叫び
凍えてやがて力尽きる
いつもは知らない優しい大人がどこからか冷たい雪のなかにやってきて
また家の中にもどしてくれた。
母親は迷惑そうな顔をするけど
暖かい家の中ならかまわない。
そこは天国だった。
けれど
いつかはくると思っていた
誰も助けてくれない日
今日はたぶんその日だ
助けられた日は運がよかっただけ
雪 雪 雪
ただ白い世界
体を切りつけるような痛み
泣き叫ぶ力もでない
いつもよりも深い雪の中に閉じ込められた
大人たちも手が出せない どこか遠く
死ということも知らなかった
ただ冷たい
これから永遠に冷たいだけだろうか
泣き叫ぶのをやめた
大人を呼ぶのはやめた
暖かい家に戻るのも諦めた
雪に横たわる
絶望も 悲しみも 全部閉じ込めて
もう何も辛くない
暖かい家を求め続けるから辛いんだ
もうこのまま…
ずっと…
「…ん」
寒さで目を覚ました。
焚き火はいつの間にか消えて、近くに獣の気配がする。
まだ眠そうにとろんとしている茶の瞳で、ぐるりを周囲を見渡した。
そして荷物かばんの中から古い時計を取り出した。
表面のカバーガラスに大きなひびがひとつと小さなひびがいくつもあるが、しっかりと動きカチカチと音を立てている。
それをすぐに荷物かばんにしまい、マントの肩に降り積もった雪を払い立ち上がる。
まだかすかに赤みを残す焚き火の炭をそのままに移動を始めた。
いくらも歩かぬうちに、すぐに林を抜ける。
雪原の中に孤立してあった針葉樹の小さな林だった。
そこでまた一面を見渡し、ため息をつきながら髪を掻き揚げる。
切るのを面倒くさがり、いつのまにか肩を超えたそれは茶の瞳に似合わぬ薄い青。
切るのは面倒くさがるくせに、元は瞳と同じだった茶をこまめに青に染めている。
本当は面倒くさいのではなくなんとなく切りたくないのかもしれない、と他人事のように自身のことを思った。
しばらくのんびり歩きながら、見かけるマリンやサスカッチを狩っていた。
その間ずっと、彼はせわしなく視線をめぐらせている。
冷たい洞穴から出て、サスカッチの徘徊する狩場の雪原へ向かう。
本格的に狩りに出るのは久々だった。
いつもは冒険者をさけて静かに隠れながらサスカッチを狩っていた。
同族に全く情けないと罵られることもあったが、それでも私には冒険者を避けねばならない理由があった。
けれどそうもいられなくなった。
同族を探さねばならない。
いつまでも洞穴に一人篭っているわけにもいかず、子孫繁栄に尽くさねばならない。
同族の雌に出会える確立自体著しく低い。
冒険者たちももこれまでにいくらか殲滅した。
もともと我等にとって餌であるはずの人間も私は食べることをやめた。
それも同族に罵られる原因である。
それでも生き方を変えられない。
そんな自分に内心ため息をつきつつ、考えを振りほどくように雪原を駆け抜ける。
「いたぞー!!!!」
人間の叫び。
振り返れば我等目当てと見える冒険者の集団が目に入る。
彼らは強い。
一人一人が緊張や恐怖を見せていない。
笑っているのだ、私を狩ることなど余裕だと。
気高い同族は退かないだろうが、私は退いていた。
いつもは。
だが雌を得るには強い雄であらねばならない。
私がそこにとどまったのはちょっとした意地であった。
宣戦布告の如く咆哮する。
鋭い瞳で彼らをにらみつけ、全身の感覚を研ぎ澄ます。
やがて体の表面が凍りつき、氷の鎧ができあがる。
それとともに周りの空気も、雪も冷たくなり
凶器となる。
次々と飛び掛ってくる冒険者にその凶器となった空気と氷の刃が吹き付ける。
「…ッ…」
一人、凍った。
だがその氷では肉体の芯まで凍りつかせることはできないだろう。
そしてその攻撃をかわしていたらしい騎士が切りかかってくる。
相手はこちらよりに比べたら赤子ほどの大きさであるのに、その雪の張り付いた甲冑の奥、ヘルムの奥の表情にこちらが恐怖してしまう。
その騎士と同時に咆哮して、こちらは力任せに騎士を蹴り飛ばした。
彼が斬りかかるより早くはじくことはできたが、相手は強烈な衝撃を受けつつもこちらの足に切り付けることは忘れていなかった。
切られた足の傷は深くはない。
反対から凍りつけられていたはずのモンク。
彼らの必殺技は受ければ致命傷となることを知っている。
そちらに狙いを切り替えて、さっきまで静寂の雪原の中にあった雪を踏みつけ、走り出す。
その瞬間にモンクが笑った。
焦って馬鹿正直に突っ込もうとしたこちらを嘲笑ったのか、相手はさっきの騎士よりも速くこちらの目を目掛けて爪のついた武器で切りかかってくる。
『…っ!』
切られたところからサッと血の気が引き、すぐさま熱くなる。
間一髪で目をつぶされるのは避けられた。その間一髪にゾッとした。
「いくわよぉ!」
さっきの二人とは違う女の声。
モンクの向こうに見えるウィザードだった。
このモンクではなく、主戦力はウィザードであったようだ。
次にくる大魔法を耐えて近くのモンクをまず噛み砕くか、それともなんとか彼女の護衛につく冒険者に挑みあのウィザードへ向かっていくか、思い悩む。
だがすぐにそれらはかき消された。
この戦陣には参加していないらしい者の姿がその向こうに見えた。
一瞬周りの敵が見えなくなり、青い髪のアサシン一人に焦点が絞られる。
冒険者たちの声も、私に襲い掛かる大魔法の気配も。
“彼”が私を狩りにきた冒険者達を避けて横へ走る。
条件反射で私も横へ走った。
「うそ逃げちゃう!!追ってー!!」
「ハティーが逃げるとか有り得ないだろ!!」
冒険者の声が後ろに聞こえる。
ただ“彼”を追う。
そして…
彼は止まり、こちらに向けて両手を広げた。
「おいアンタ危ないぞ!!飛べ!!」
冒険者達のその言葉はアサシンの青年に向けられていた。
だが言われた彼はそのままカカシの様に立ちすくむ。
そして私がそれに突進するようにすぐ脇を走り抜けると、その首根にしがみついてくる。
彼を捉えるのに必死だった私も、私を捉えるのに必死だった彼も、冒険者達の声は聞こえていなかった。
そのまま白い世界を駆け抜ける。
次第に消えていく人の声、生き物の音。
世界が二人を残して凍ったようだった。
真っ白い世界。
肌に打ち付ける雪が冷たい。
歩いて出るには途方も無く広く感じたこの世界も。
“彼”と一緒なら抜け出せる気がした。
この力強く雪を踏みしめ、風の如く駆け抜ける足と一緒なら。
しんとしていた広い洞穴の中にハティーと呼ばれる氷の身を持つ巨大な狼と、それの背に乗ったあまり重装備ではないアサシンが入ってくる。
ハティーは青年を洞穴の真ん中に下ろし、自分はさらに奥にある枯れ草やボロ布で作られた寝床に伏せた。
一人と一匹は一回り二回りという程度では表せないほどの大きさの差がある。
だがアサシンの青年は自分の何倍もの大きさの相手にひるむことなく、親しげに擦り寄った。
ハティーの体を覆う氷の刃は鎧を脱ぐように剥がれて消えていく。
そうして姿を現したのは温かみはないがやわらかい青白い毛。
それに顔をうずめるように青年が隣に座り寄りかかった。
『まさかまだ探しているとは思わなかったぞ。』
「…また会いたくなったから。」
洞窟に響く重低音のうなり声と、それに答える小さな声。
静寂の中で二つは洞穴内に響き渡り、外に漏れることはない。
『キラ、何度言えば分かる。私とお前は』
「でも会いたかった。」
キラと呼ばれたちっぽけな人間は単調な言葉でそう主張するばかりだ。
もう何度もハティーは彼を追い返している。
だが雪の中で凍死しかけていた少年のキラを知っているため雪の中に放り出すことはできなかった。
気まぐれで人間の子供を拾い、一晩暖めてやり雪のない町へ送った。
それで縁が切れると思いきや、成長した子供はここらに生息するモンスターを倒せるほどに強くなってきていた。
そしてついに再会したとき、彼はここで暮らすなどと言い出した。
キラがそう言い出した相手がこの獣でなければ、とっくに彼はハティーというモンスターの腹の中だ。
『…どれくらいあの雪原で探していた。』
「三日くらい。」
『他のハティーに出くわしたらすぐに食い殺されるぞ。』
「もう10回くらい出くわした、けどちゃんと生きてる。」
唯一の救いは彼がハティーの見分けがつくというところか。
違うハティーと分かればすぐに飛ぶように彼自身が言いつけた。
『…お前も人間としての大人の歳になるんだろう。いつまでも私にくっつきに来るのはやめろ。』
「でも……会いたかった。」
何度言ってもキラの答えは変わらない。
こんな押し問答をもう何年続けている。
これも一種の刷り込みだろうか。
「あ…傷…アレ持ってきた。アレ。」
『なんでも指示語で済ませるのはやめろ。お前、本当に人間と話しているのか。』
「そうかも。」
『……。』
青年の言語能力のほとんどは人間ではない親によって培われてきたようなもので、当然会う回数が少ないので成人してもその能力は拙い。
長く生きた上今までも何度か人間と接触を持ったことのあるハティーが異様に人語が流暢というのも異常だ。
ハティーの傷を治療すべく荷物鞄から白スリムポーションを取り出して口に咥え、鞄から更に綺麗な布を取り出す。
『いらない、舐めておけば治るさ。』
「ん」
いらない、と言われればキラはすぐにそれを鞄にしまった。
そして躊躇うことなく血があふれ出す後ろ足の傷口に顔を埋め、思いっきり舐め始めた。
『ってお前が舐めるのか。』
「んー」
返事といえるような返事もせず、キラはまるでこぼれたジャムを舐めとるように抵抗なく生臭い血を舐めとる。
人間には血など美味くもないだろうに。
それに舐めたからといってそうすぐに傷がふさがる筈もない。
『わかった、私が悪かった。白ポーションを使ってくれ。』
「ん?」
キラは相手の意図など知らず、支持されるままにしまった白ポーションをまた取り出した。
また昔のようにまるまったハティーに包られたキラはポツリポツリと小一時間話してからしばらく黙っている。
やっと眠ったか、とハティーは目を閉じて眠ろうとした。
「ハチ」
直後に突然呼び起こされる。
別にハチが彼の名前ではない。
まだ幼い彼が『ハティー』と言えずに『ハチ』と呼んでいたからだ。
『ハティーと呼べ、ハティーと。』
と何度も言っているのに、彼は未だにハチという。
「ハティーじゃたくさんいる。」
ハティーは種族名であって彼の名前ではないから、とキラはそう呼ぶことはしない。
もう何度も言い続けたことなのでいい加減にどうでもよくなってきている彼だ。
『それで、なんだ?キラ。』
「なんで、冒険者と戦ってたんだ?」
キラはハティーの温度のない毛並みを撫でながら聞いた。
この機会に番の雌を探すことを話し、彼を自立させようと思い立った。
一度彼を揺すり起こして少し移動し、キラと視線を合わせた。
初めてあったときよりずいぶんと変わった。
体は大きく、強くなったし、茶色かった髪はハティーの毛並みに似せたつもりか青白く染めあげている。
けれど瞳は変わっていない。
どこも見ていないようだがハティーだけはまっすぐに見つめている、彼以外の希望を失ったままの瞳だ。
『私はもう十分な大人になる歳だ。だから番の雌を探す為に強い雄であろうとしていた。』
「…つがい?」
『夫婦ということだ。ハティーは雌の方が気性が荒い、発情期なら尚更。私のように人間と戦いもせず、食いもしない雄は雌を得ることはできない。』
「…それで、戦ってたのか。」
『そうゆうことだ。私はいつまでもお前にかまっていられない。雌を得なければならない。』
キラは頷くが、相変わらずとろんとしていてたいした決心もしていなさそうだ。
むしろまだ離れる気がないように思える。
「…ハチが雌を見つけたら、もう会えない…のか?」
『ただしばらく通い交配するだけだが、我等は群れを嫌う。雌も雄も、同族は遠く離れた雪原に隠れて出会うのは稀だ。下手をすれば雌を探しだす間にお前は死んでしまうかもしれない。人間の寿命は短い。』
「…大変なのか、ハチ。」
口には出さないが、どんどんキラの表情が曇っていく。
おそらく人間には気づけぬ、狼に近い感情の顔への表し方だ。
『キラ、それはお前もそうだ。他の人間のように強くあろうともせず、ここへ自力でこれるようになってからは私を探すばかりの毎日だったろう。お前も妻を捜さねばなるまい。』
そういった瞬間、キラがバッと顔をあげた。
「そんなのいらない。」
そしてきっぱりと言い切った。
その言葉にハティーは目を丸くしてしまう。
自然に生きる彼らにとって、雌を得られない雄はいても、雌はいらないなどという雄はいない。
理解できぬ意思だった。
『生き物は皆、子孫を残す為に生きている。お前もいらないなどと駄々をこねてはいられない。』
「俺はハチがいい。」
またもやハティーは目を丸くさせられた。
必死に訴えるキラの瞳はいつになく力があった。
「ハチと一緒がいい。」
『……。』
呆れながら鼻先をキラの胸に押し付ける。
それに答えるように彼はハティーの顔を撫でて抱きしめた。
『お前はまだ心が子供なのだな、キラ。けれどお前もすぐに大人になるさ。だから我慢するんだ。』
「違う。大人になっても、ハチと離れたくない。」
いつになく相手は強情だった。
遥か昔に実の親に何度も捨てられていた、それと同じ絶望を今感じているのかもしれない。
それでももうハティーは発情期を迎えている。
同胞も雌を探して多くが交配し、子を育てている雌もいる。
「俺より、雌がいい?」
『それは基準が違うだろう、キラ。』
「……。」
よく彼は意味を解していないようだが、ハティーもどう説明していいものか困ってしまう。
しばらく困惑して言葉を捜していると、キラが震えていることに気づいた。
彼の腕の中から鼻を離し、彼が泣いている事に気づいた。
『キラ』
キラが泣くのをはじめて見た。
母親に捨てられた彼に初めて会ったときも、来るまでに酷い傷を負った時も、凍傷で足の指をひとつ失ってしまっても、泣いたことも悲しみや痛みを顔にはっきりと表したこともなかったのに。
「ごめん…我侭、言った。」
彼はしばらく啜り泣きしていたが、意を決したようにポツリと「我慢する」と言った。
これで良いのに、言われた瞬間胸が軋んだ。キラも、ハティーも。
「幸せに、なってくれ…ハチ…」
『……。』
雌を得るのは自然の摂理で、キラといる時が一番心休まるときだった。
キラがそばにいる時が“幸せ”だっただろう。
それを言うと、キラの決心を鈍らせるだろうと言葉を呑んだ。
鼻先をまたキラに押し付ける。
さっきよりも強く抱き返してくる。
自分が人間だったら、人間の体を持っていれば、もっと違った形でキラと触れ合えただろうか。
この場でキラを心行くまで抱きしめて分かれることもできだだろうか。
それともこのままキラを番にしてしまうこともできただろうか。
無いものねだりはすぐにやめて、また寝床に伏せ、キラへ隣へ寝るように促した。
初めて会ったときに幼い彼にしたように。
ハティーの傍ではすぐにぐっすり寝入っていたキラも、その夜は彼の体に顔を埋めたまま明け方まで起きていた。
夜明け。
キラは寝付くのが遅かった為にまだ寝ている。
ちゃんと彼が旅用の傍観具を付けているのを確認し、ハティーをそっと立ち上がった。
外は相変わらず雪が降っていたが、明るい。
別れは昨晩十分にした。
自身の決心まで鈍ってしまわないように、キラを振り返ることなく雪原に走り出した。
雌もハティー達の狩場となっている雪原に現れることが多い。
当然雄も多いが、それ以上に多いのは人間だ。
すでに遠目に何人か見かけている。向こうもそれに気づき、すぐに背を向けて走り去っている。
追いかけるべきか。
すでに何人も見過ごしていたが、人間も餌の内に入るし、何より自分達を狩る天敵だ。
“ハティー”としては躊躇わずに狩るべきなのだ。
『行くか…』
自分に言い聞かせるようにつぶやいた。そうしていること自体が魔物である自分にはおかしいことなのに。
雪の中に消え去ろうとしている冒険者の後を追う。
相手があげる悲鳴。追いかける。
あれを爪で引き裂き、頭を噛み砕くことを想像する。
いつも食っていたサスカッチと同じ。
追いつく。
その爪を小さな背にかけて押し倒した。
甲高い悲鳴。
どうやら女だったようだ。
対峙しようとしなかった時点で未熟な者なのだろう。
「ユピテルサンダー!!」
脇から別の女の声。
本当に突然現れた気配とその魔法に対応しきれず、体を少々飛ばされてしばらく体がしびれていた。
痛みにうめき、全身を流れる電流が消えるのを堪えた。
『ハティー発見!テレポでドンピシャよー!』
女のウィザードは彼女の仲間にしか聞こえない声で叫び、無邪気に笑いながらハティーと自らの間に火の壁を作り出す。
ハティーが全力で走り、そして雪の上で燃え盛る火壁を飛び越えようとした瞬間
「ユピテルサンダー!」
待ってましたとばかりにウィザードが音を聞くだけでゾッとするような電撃の光球を放ってくる。
先ほどと同じ衝撃、だが2発目は流石に少々痛手となった。
右の頬、首、肩にかけて毛と肉の焼ける臭いが立ち上がり、眩暈がする。
だがまだ戦える。
すぐにハティーも魔力で大気を揺るがし、氷つかせる。
雪も尚凍り、大気も氷となり、それが刃になる。
ウィザードが舌打ちをし、これの効果範囲から逃げようとする。
だがそれを尚、追う。
「きゃあ!!」
ここらは以前林だった。その名残で切り倒されたか枯れて倒れた雪に埋もれた木にウィザードが足をとられ、転んだ。
勝機。
「いやあああああああああああああああああ!!!!!!」
ハティーに覆いかぶさられたウィザードの悲鳴が深々と雪の降る雪原に木霊する。
人間の肩にのしかかるだけで、その肩が潰れんばかりに悲鳴を上げる。けれど彼女を支配するのはその痛みよりも目の前に迫る獣からの殺気。死の恐怖。
小さくひ弱な人間の頭を噛み砕こうと口を開いた。
――― ハチ…
獲物の匂い。
人間の匂い。
キラの匂い。
氷の獣は低く唸るが、その人間を押し倒したまま固まった。
「どけえええええええ!!!!」
また別の人間の怒号で我に返り、ハティーは飛びのいた。
目の前にいるのはオレンジ色の毛並みの良いペコペコに乗った騎士の男。
ハティーがいた場所にそれが剣の銀閃を煌かせて切りかかっていた。
ぞろぞろと四方から彼らの仲間が集まってくる。
人間に囲まれる。
――― ハチ…
獣は追い詰められ、唸る。
何度も今にも飛び掛ろうという体勢をとるが、攻撃を仕掛けない。
人間の匂い。
蘇る人間の声。
愛しく思い、傍にいた彼の声。
ハティーは顔を歪めて、目の前にいる人間を見ていた。
だが飛び掛らない、飛び掛れなかった。
それは同時に、キラを裏切るような気さえしてしまっていた。
――― そうか…私はもう…
ハティーの目から殺気が消える。
唸り声が止む。
彼はついに大魔法の完成までそこから動けずにいた。
――― キラ…
祈るような気持ちで、彼の名前を呼んだ。
雪の向こうから彼の返事が聞こえた気がした。
希望を失った可哀想な人間の子供。
けれどもう強く育ち、ハティーに似せたらしい長い青の髪も綺麗だった。
彼に自分の死は知られたくない、そんなことを思いながらどこでもない遠くを見ていた。
不意に、雪の中に彼の姿が浮かび上がった気がした。
「やめろ…!!」
一瞬幻かと思ったその姿がこちらへ駆け寄ってくる。
「アサシン!止まれ!!」
「待ってよもう発動しちゃったわよ!!!」
騎士の制止とウィザードの悲鳴に近い呼びかけ。
焦る冒険者達だがそれ以上に焦ったのはハティーだ。
全身が総毛立つ。彼の性格から、自分の巻き添えを食うと分かっていてもここへ飛び込んでくるだろう。
『キラ、止まれ!!』
叫ぶが彼は止まらない。
人間として駿足の彼は大魔法の発動に間に合ってしまう。
ハティーも力を振り絞りキラの元へ駆ける。それと天から黄金の光とも紅の炎とも取れる刃が降り注いだのは同時だった。
辺りに降り注ぐがすさまじい光が目に突き刺さり、真っ白になる。
独り雪の中に捨てられた時のように、食い尽くすような白だった。
To be continued ...
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