頬や唇にかかる生暖かい不快な感触、嫌な臭い。 目の前に広がる血の海。 彼の色あせた金髪や、肌の色にも血が飛び散っている。 「ごめんね…」 彼の呟く声はいつものように優しいのに、その表情にはいつもの笑顔は欠片もない。 彼には似合わない血の海。 その上に一人の男と少年の亡骸が浮いている。 「ごめんね…」 壊れたように呟く彼のその言葉は二つの亡骸に向けられているのか。 それとも、じっと見つめている自分に向けられているのか。 彼は赤黒い液体が広がる床に、見慣れた青く澄んだ石を落とした。 それに手をかざして、ワープポータルを唱える。 けれど、石はまったく反応しない。 罪人の要求を拒むように沈黙している。 しばらくして、彼は乾いた笑いを響かせた。 どこか自虐的な笑い声。 この光景、この笑い声、今にも壊れそうな彼の様子。 こっちが、気が可笑しくなりそうだった。 不意に彼は笑みを崩し、変わりに泣きそうな顔を浮かべて歩み寄ってくる。 半分近くを血に染められた嫌味なまでに白いシーツを肩からかけて、力ない手でボロボロになって床に捨てられていたプリーストの法衣を引きずっている。 その法衣までも死体のようだ。 目の前に座られると、血の臭いが一層濃く香った気がした。 シーツから覗く腕には痛々しい青紫色の痣。 足にもそれと乾いた白い液体の痕。 近くで見れば、目は泣き腫らしたように赤くはれ上がっていた。 エメラルドグリーンの瞳も完全に光を失っている。 これが、愚かな自分を庇って彼が受けた仕打ち。 本当は自分がこれを受けるはずだったのだろうか。そうなればよかった。 優しくて、誰にでも受け入れてもらえていた彼がこんな目に遭って、自分が昔から今までずっとのうのうと暮らしているなんて、間違っている。 ぎょっとするくらい冷たい手で、手を掴まれた。 何かを持たされて、握らされた。 「…っ、ルナ、ティ…」 気付いたときにはもう遅い。 目の前に広がっていたのは明け方のプロンテラの町並み。 さわやかな空気が「さっきの光景は全て夢だ」と慰めてくれているように思えた。 けれど、我に返って感じた手首の傷の痛みと、顔や体にかかった血の臭いがそれを否定する。 「ヒショウ…!!」 上の方から…皆が泊まっていた宿の二階から、後輩のアーチャーがこちらを見下ろしていた。 慌てて窓から頭を引っ込めて、すぐに宿の扉をあけて出てきた。 『マナ!ヒショウが帰ってきた!ってなんか傷とか血とかついてるんだけど!?』 『何!!…うわやっべギオペ峠で寝ちゃってた』 『ウィンリー、すぐに戻る。彼を休ませてやってくれ』 『了解ッス!』 ギルドチャットでの仲間達の会話が、なんだか随分遠くに聞こえる。 「ヒショウ、とりあえず二階まで…って、え…ちょっ…」 ギルドチャットの声も後輩の声も視界の景色も遠退き、暗闇に包まれた。 「まだ物足りない」 事つきたルナティスを見下ろしながらセージはぼそりと呟く。 ほとんど意識はなく、脱力したルナティスの中から出て、体液に汚れた性器を布で適当に拭いてからそれをしまう。 彼がベッドから降り、また薬を入れた注射器を取った彼が向かうのはヒショウの方。 「親友の為に身を捧げる健気な彼もいいが、私が昔からしたかったのは…そうではないようだ」 ルナティスは殆ど意識などなかった。 理性も大量に打たれた薬で働いていない。 ぼんやりとただセージの後姿を見ていた。 「その守りたかった親友を汚されたら、どうなるか… 興味ないか?」 セージの方もルナティスの体内で薬に触れていたせいでおかしくなったのかもしれない。 ヒショウは下がろうとするが、両手がしっかりと暖炉に繋がれているため身動きができない。 これでこの男に手を出されたら ルナティスは何のためにあれだけ苦しめられたのか。 「っルナティスと約束したんじゃ、なかったのか…!」 腕は使えない。 足でだけでも抵抗できるように体勢をとった。 見上げれば、どう見ても目の前の男は尋常な様子ではなかった。 「…ァ…?」 ヒショウの数歩前で、電池切れかのように男は動きを止めた。 持っていた注射器が床に落ちて小さな音を立てた。 セージの後ろに白い何かがいる。 「…ルナ、ティ…」 嫌な音がして、呟いたセージがビクンと震えて 後ろへ…シーツを被ったルナティスの脇へ倒れた。 ヒショウには何がおきているのか分からなかった。 小さく震えているセージの背中の下に黒いシミが広がっている。 それを見て、ゾッとした。 「ルナティス…」 ルナティスが刺した。 彼の手には血に濡れたメス。 生臭い嫌な臭いがどっと立ち込めた。 目の前の光景がヒショウには信じられない。 彼がセージの方に倒れこむように屈む。 「…ッグ!…ふっ…」 セージの喉元に、鈍い音と共にメスが食い込んだ。 思わず息を呑む。 おかしなことに、それを見た瞬間 ルナティスの方がセージを犯しているようにさえ見えた。 今まで見たことのない彼の凶暴性がある。 そんなはずはない、彼がこんなことをするはずがない、そう呆然と頭で詠唱する。 けれど、目の前の現実は ルナティスは壊れたように微笑んで、セージにまたがり何度もメスを突き刺している。 拳でただ叩いているだけと錯覚したが、飛び散る血が現実を見せている。 刺されるたびにビクビクと痙攣していた男の体はもう動かなくなった。 ただ背中と、喉、それに体中のいたるところから溢れる血だけが生きているように床に広がった。 「うああああああああ!!!!!!!!!!!」 ヒショウの隣で、アルケミストの少年が悲鳴を上げて斧を掴んだ。 師匠の仇とばかりに拙い扱いでそれを振り上げ、ルナティスの方へ走っていく。 「よせ!!」 咄嗟にそれを静止しようとしたが、手が伸ばせず止めることもできない。 ルナティスが自ら闘うプリーストでなければ、純粋な支援プリーストならば少年に勝つ見込みはあっただろう。 けれど戦いに、避けることになれた彼はただ本能でそれを避けて メスでその少年の首を切り裂いた。 彼の師匠と同じように。 誰かが、ルナティスはプリーストよりもアサシンに適しているといっていたのを思い出した。 いや、言ったのは彼自身だったかもしれない。 「…ッ、ふ…ァ、ア…」 赤ん坊の産声のようなうめき声。 少年は師匠の血溜りに倒れていた。 「…ルナティス、やめろ!!」 まだ生きている少年を今にも殺してしまいそうな彼を見て、ヒショウは叫んだ。 けれどその声は彼の耳には届いていない。 ずっとあのセージの隣にいた少年。 痛みや屈辱に苦しんでいるルナティスを、ただ動物を観察するように見ていた。 『ねえ師匠、気持ちいいの?僕にもやらせて』 不意に彼自身の師匠にそう言って、ベッドに上がってきたのを覚えている。 『女の人ともしたことないんだけどねー。』 玩具を得たように面白そうに笑って、体に触ってくる。 『今、こんなガキ、とか思った?失礼だな…』 自分は、ただの実験材料、性欲処理道具、玩具でしかないと思って、無性に逃げたくなった。 それでも、逃げることは許されない。 『こんなガキにも犯されるって、どんな気分?』 どんな屈辱を受けても。 「最悪だよ、糞ガキが」 この少年も、殺すべき。 ルナティスは躊躇いなく、さっきの男同様に少年を刺し殺した。 何度も、何度も。 何が可笑しいのかルナティスにも分からない。 ただ顔が緩んで、笑いが止まらない。 けれど、不意に視界にヒショウが映った。 悲しそうな顔をしていて、思わずルナティスの顔からも笑みが消えた。 「ごめんね…」 何故かそんな言葉が口を突いて出た。 彼はこんな自分の側にいてはいけなかった。 そんな悲しい顔をしないで欲しい。 もう、身の程を知った。 この自分の汚いところを隠して、ずっと一緒にいたけれど。 もう終わりにしよう。 やっと彼を解放せざるを得ないきっかけができた。 「ごめんね…」 彼をも汚してしまう前に、こうするべきだった。 神なんて信じていなかったけれど、ワープポータルが開かなかったのは神の逆鱗に触れたからか。 仕方なく、もう使えなくなったプリーストの法衣から常備していた蝶の羽をとり、彼に握らせた。 彼の姿が消える瞬間に何かを言おうとしていたが、それは結局聞こえなかった。 最後まで、彼の声を聞きたいと思っていた自分に腹が立った。 お前にはそんな資格はないと、自らを卑下した。 本当は、もっと昔から僕は汚い。 こんな汚い僕には、アスカといる資格なんか無かった。 そんなのわかっていた。 誰にでも優しくて、守ってあげていて、弱いのに皆の為に強くあろうとしているアスカを尊敬した。守りたいと思った。 始めは、遠くから彼を守ってあげられればいいと思っていた。 『ルナティス、最近元気ないね。大丈夫?』 僕のことなんか知らないと思ってたんだ。皆ともそんなに話さないし、話すのも苦手だし。 なのに、話しかけてきて… 彼が他の子供達に分けていた優しさを、僕にもくれた。 それで、そばにいたいと思わずにはいられなくなった。 思えば母は僕を産んですぐに死んで、親代わりであるはずの館長はろくでなしで アスカが始めて優しさをくれたから、雛鳥の刷り込みみたいに彼になついた。 けれど彼をかばって館長やいろんな人と抱いたり抱かれたりさせられて それがアスカなら辛くないと…アスカとしたいと汚い欲望を持ち始めた。 アスカに本気で恋愛感情を意識した。 彼に近付いてはいけない、汚してしまうと思っていたのに 守るという名目をたてて、一緒にいた。 自分も彼も欺いていた。 ―――そうだね…やっぱり僕が一番アスカを汚した… ごめんね。 BACK NEXT |