何も見えない。
周りに何があるのか分からない。
それなのに、暗いとは感じない。
周りが認識できないだけで、真っ黒なわけではないから。

ヒショウはその空間で何かを探して歩いていた。
足は鉛のように重くて動かない。
けれど、懸命に足を引きずって歩いていた。

それに疲れて、少しだけ屈んで休み、五秒も待たずにまた歩き出そうとした。
だが顔を上げると、目の前に誰かがいた。
「……あ」

ヒショウの腰辺りしかない子供。
見慣れた金色の髪に鮮やかなエメラルドグリーン。
求めていたその色、その顔。
「ルナティス…」

やっと見つけた。
涙がでそうなくらい嬉しかった。
けれど、ヒショウは体がすくんでしまってそれ以上少年に近づけなかった。
彼がこちらを睨んでいるせいだろう。

少年の体に浮かび上がる、青あざ。
足の間を流れる赤い血、白い精液。
ただの機能のように頬を流れる赤い涙。

それらが鮮明に見えてきて、息が詰まった。
少年は何も言わない。
ただ黙ってこっちを睨みつけている。

不意に何かに足を掴まれた。
それを見る間もなく、口をふさがれ、首も何かに掴まれた。
頭の中で下品な男や女の笑い声が響いた。
全身を掴む、異様に白い手達。
それらに地面に引き倒された。

仰向けになっても見えている景色は変わらない。
ヒショウの上に、少年が馬乗りになる。

「……すまない、ルナティス…」
どれだけ怖かっただろう、どれだけ痛かっただろう、どれだけ苦しかっただろう。
今思って後悔しても、全ては遠の昔に起きてしまったこと。
そしてつい先日も、彼を助けてやれなかった。

なにも知らなかった、何もしなかった自分が憎い。
だから、ルナティスに殺されるならそれがいい。
そう思い、目を閉じた。




不意に夜風に吹かれ、寒くなって体を振るわせた。
そしてさっきまでの空間や、傷ついた少年は跡形もなく消えて、ただの朝の空気と、冒険者用の宿の質素な部屋だけが残った。

もう何度も見た夢。
彼の手がかりすら見つかっていないのに、この夢を見るたびに彼に会えたと思い、夢の中で喜び、そして現実で虚しくなる。

顔を覆う手をどかすと、手は涙に濡れていた。







昨日の夜、薬への激しい飢えと乾きに苛まれ、散々シーツや壁や自分の腕を掻き毟った。
鎮静剤はずっと打っているわけにはいかない、とグローリィは水を飲ませ、その背中をずっと撫でて一晩側にいた。
そして明け方にやっと鎮静剤をくれた。
それでも、完全に苦痛が消えるわけは無い。
セレネは日が昇ってからも一睡もできなかった。

「三日目ですから、そろそろ眠れるようにもなるでしょう。
お昼のほうがきっとリラックスして眠れます。ゆっくりと休んでください。
何かあれば、アグリィを呼んでください。
なるべく部屋の側にいるように言っておきます。」

一晩付きっきりをしてくれたうえに、そんな優しい言葉をかけられ、セレネはありがたいと思いながらも申し訳なく思った。
グローリィはアグリィによくするように、彼の髪と頬を撫でて部屋を出て行った。



彼がいなくなり、一人で静かな部屋でぼんやり天井を眺めていた。
突然、部屋のドアが小さく音を立ててゆっくり開いた。
「あ……」
アグリィかと思って体を起こそうとしたが、彼は中途半端な体勢で止まってしまった。
部屋に入ってきたのは可愛らしい仔狼。

部屋に入ってきた仔狼がはっはっと舌を出して息を荒くして、体勢を低くした。
「…あ、ま、待て、ちょっと、タンマ…!」
まさかと思って仔狼に待てというが聞くはずもない。
それは無邪気にダッシュしてきて思い切りセレネの腹にジャンプしてきた。
「ぐふっ!!」
見事に鳩尾に着地を決めたそれは、苦痛に蹲って震える青年の気も知らずに、遊んでと擦り寄る。

昨晩グローリィが『寝るときはドアをしっかり閉めないと、グリードに飛び掛られるからね』と忠告していたが、そのドアを半開きにしていったのはグローリィ本人だ。
セレネはむせながら彼を少しだけ恨んだ。

甲高い声で鳴きながら甘えてくる大きな子供を見て、少しは運動しようかとセレネは息を整えてから体を起こした。





「………。」
いつもミサの代理人をしていてもらっていた人物が床に伏している為、仕方なく珍しく真面目に出勤した。
その帰り。

「あ、おかえりなさい。」
リビングではその床に伏しているはずの人物が主婦のような姿でほうきを持って、グリードとじゃれあっていた。
その奥のテーブルには埃を被らないように布がかけられた食事らしきものがある。

「…その姿から察するに、家事と子供の面倒まで見てくれたんですか?」
「はい。意外と体調が良かったので、少し体を動かしたいなと思って。」
何やらさわやかな汗をかいているセレネは、グリードを簡単に制して、その頭を撫でながら答える。
少しといいながら、なかなかハードな運動をしていたようで、セレネもグリードも息が上がっていた。

突然、グローリィは吹きだして笑い出した。
それを見つめる一人と一匹は、息が合ったように首をかしげた。
「いや、セレネは面白いですね…。ああ、お腹が空いたので夕食を頂いてもいいですか?」
「あ、はい。腕にはそこそこ自信があるので!」
「それは楽しみです。」



セレネの作った夕食は気に入ってもらえたようで、アグリィもグローリィも軽く平らげてしまい、食事はあっという間に終わってしまった。
食事というには少し遅い時間になってしまっていることを、一日中グリードと戯れていたセレネはしばらく気付かずにいた。

先にシャワーを浴びてもいいと言われたが、一応ずっとここにお世話になると決めたわけではないので、遠慮して最後に入ることにした。
他2人が入り終わるまで、好きに持っていっていいと言っていたグローリィの部屋の本をあさっていた。

神を信じないセレネでも神話はよく読んでいたし、部屋にも多くあったのだが、グローリィの部屋には全くと言っていいほど無い。
やっと見つけた古いものは端に追いやられて、全く読まれていないようで上に埃を被っている。
聖職者というイメージがぴったりな彼だが、ミサのサボり具合やこの様子から、実は不良司祭なのではと思わざるを得ない。

とりあえず、埃を被っていない小説を適当に取り出して、居間の暖炉の近くの椅子に座り、ページをめくった。


「セレネ、出ましたよ…って、どうしました?」
頬を少し赤くして、髪を結い上げて出てきたグローリィが、思わず目を丸くした。
暖炉の前で蹲っているセレネは、彼以上に顔を真っ赤にしてこちらを見上げた。

何も答えられないでいるセレネに首をかしげていたが、その手元にある本を見て納得した。
「ああ。それはまたハードなものを選んでしまいましたね。」
「というか、司祭がなんてものを読んでるんですか…。ぁー、顔が熱い…。」
ちょっとなみだ目になっているセレネが手にしていた本は、かなり濃厚な官能小説で、なおかつ常人にはあまり向かない同性愛のもの。

「顔だけの司祭ですから。」
にっこりと言い切るグローリィの言葉には異様な説得力があった。

「最後まで読みきりました?」
「途中でリタイアしました。」
「おや、意外とうぶですね。」
「…あって数日の人の家でこうゆうものを読む気にはなれませんから。」
呑気に笑って、そうですねぇというグローリィは、かなり変わった人に見える。

「とりあえず、シャワーを浴びてすっきりしてきたらどうですか?」
「………そうします。」
本をグローリィの部屋に返して、シャワールームに向かう。

「あ、セレネ。シャワーを浴びたら僕の部屋に来てください。」
話があります。と言われ、なんだかその言葉に重みを感じた。
あまりいい話ではない気がして、遅れて小さく頷いた。



少し早めにシャワーを浴び終わり、髪も乾ききらないままグローリィの部屋に向かった。
緊張していたのだろう、その様子に彼が笑いながら髪を拭いてくれて、セレネはとてもホッとしてしまった。
「今日、大聖堂に騎士団が聞き込みに来ました。」
セレネは落ち着いたまま、話を聞いていた。

湿った金の髪にタオルをかけてやり、グローリィは彼の隣に腰掛けた。
二人用のソファなので、間に殆ど隙間は無い。

「先日、アルデバラン北部で学会で高名なセージとアルケミストが惨殺されたそうで、その犯人と思われるプリーストを捜している、と。」
セレネは驚きもせずただ聞いていた。
グローリィも冷静に話している。

「殺された日も、場所も、貴方を拾った時と場所に合っていました。」
諦めたように、セレネは目を閉じた。
それ見て、彼の仕業だと確信を持ち、あえてグローリィはそれを口にしなかった。

「…騎士団に出頭する気はありません。」
セレネは静かに答えた。

「何故ですか?」
「出頭すれば、彼が会いたくない人に自分の存在を知られてしまいます。
 …できればこのまま、僕はもう死んだのだと思って欲しい。」

「なら、死ねば良いのでは?」
相変わらず微笑みながらそういうグローリィを、本当に聖職者かと疑い、可笑しくなった。
「人間の当然の生存本能です。幼い頃から何をされても、どんな屈辱を味わっても、死にたいとは思わなかった。相手を殺したいと思うばかり…」
自分はそんな人間なんです。そう懺悔するように言いながら、セレネはうつむいた。

あの人なら、きっとそんなことは思わない。
人を傷つけるくらいなら…、そう思って自分を犠牲にする。
そんな彼をずっと見てきたから、自分はこうなったのだろう。

「…体調は良くなりました。今すぐにでも、出て行けます。」
「貴方を騎士団に差し出すつもりはありません。追い出す気もありません。」
隣から差し出された白い手に頬を包まれ、セレネはグローリィの方を向いた。
薄暗い部屋で、いつもの作られたような優しさよりも、その下にいつも潜んでいた狂気が浮かび上がっていた。

甘そうな金色の髪に、絶望に呑まれそうに光を失いかけたエメラルドグリーンの瞳。
表情豊かな整った顔に、しなやかに鍛えられた身体。
グローリィとは違い、人間らしい優しさと醜さを持つ青年。

それを逃したくない獲物と青灰の瞳に捉えた、銀灰の魔物。
セレネには彼の白い肌が、柔らかく温かいのに、石のように見えてしまった。

彼の瞳を見た、それだけで彼の意思を理解できた。
セレネは表情を和らげた。
元より自分の何も守ろうなど思っていないが、それは諦めのようにも取れる。

「…ベッドへ、移動しましょう。それともここがいいですか?」
セレネは苦笑いして、ベッドを目で指した。
もう、惜しいのは命くらいしかなく、身体などどうとも思わない。
助けてもらった礼にはなるだろうか、と思った。



  
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